第2話 南海に降る星
姉との待ち合わせのため、市内中心部の百貨店前を訪れた仁美は、店先のショーウィンドウに目をやった。
(前のと、展示が変わっちゅう)
赤いカーペットの床に、ブランドのバッグがひとつ、展示スペースの中心に、ぽつりと配置されていた。
全体のバランスとしては、バッグよりも床の占める面積の方が広い。
けれど、その余白が、かえってバッグの存在をしっかりと際立たせていた。
さらに、照明が金具を照らして輝かせ、見る角度によって変わる影が、商品の輪郭をいっそう際立たせている。
(どうやったら、こんな繊細な置き方ができるがやろう?)
仁美の目は釘付けになり、時間を忘れてしまっていた。
「……美、仁美」
「わっ! びっくりした!」
肩を掴まれ、振り返りざまに大きな声が漏れた。
そこに、広美の姿があった。
「いや、びっくりしたがはこっちやき」
広美が一歩前に出る。
「何? 欲しいが? あんたも大人になったがやね?」
「違うき、別のことが気になったが」
「別のこと?」
「置き方」
広美は一瞬、眉間に皺を寄せる。
「置き方?」
「うん。ただ置いちゅうだけやのうて、計算されちゅうみたいで」
「あんた、そんな事が興味あるが?」
そう呟いた広美だったが、高校を卒業し、家を離れる時のことを思い出す。
(六つ下やき、あの時はまだ小学生やったもんね)
(あれから、いろいろ興味のあることも増えたがやろうなあ)
二人は、アーケードを抜け、少し離れた場所にある個室の居酒屋へ入った。
店内は既に賑やかな雰囲気だ。
通された部屋は外の喧騒と対照的に静かで、姉妹は向かい合って座る。
席に着くなり、広美は手慣れた様子でメニューを開き、向かいの仁美に向けた。
「食べ物はインタビューが終わってからね。まずは飲みもの頼もう。何にする?」
仁美はメニューをちらりと見ただけで、すぐに顔を上げた。
「お茶で、えい」
その返事に、広美はあからさまに肩を落とした。
「えぇ?久しぶりやに、お酒飲もうや」
仁美は少し呆れたように姉を見る。
「お姉ちゃん、私まだ未成年やき」
広美はそこでようやく思い出したように、あっ、と小さく声を漏らした。
7年前は小学生。
自身が重ねて来た年月が、濃密で長く感じていたため。
そんなことも、忘れてしまっていた。
「固いこと言うて」
わざと軽く言ってみせる広美に、仁美は表情を崩さないまま返した。
「見つかったら、新聞載るき」
その返しに、広美は一瞬きょとんとしたあと、吹き出すように笑った。
「それもそうか」
広美は、ボイスレコーダーを机の上に置き、慣れた手つきでスイッチを入れた。
小さな赤いランプが点るのを確認してから、背筋を伸ばす。
「それでは、南海競馬、沖浜厩舎所属。沖浜仁美騎手へのインタビューを始めます」
「よろしくお願いします」
仁美もそれに応じたものの、その声と姿にはどこかぎこちなさが残っていた。
さっきまで姉妹として向かい合っていた相手が、今は記者として自分を見ている。
「まずは、騎手を志したきっかけを教えてください」
広美は問いかけながらカメラを取り出し、仁美にそっとレンズを向けた。
仁美は一瞬だけそのレンズを気にするように視線を泳がせたが、すぐに気持ちを整え、口を開いた。
「私の父、沖浜調教師の影響です」
「父は中央のダービーも勝った騎手でしたが、事故で引退してしまいました」
一度言葉を切り、お茶に口を付けてから続ける。
「地元で厩舎を開業して、私も昔から馬に囲まれて生活してきました」
「父みたいな騎手になって、父のやり残したことを出来たらいいな、と考えるようになったんです」
その口調はまっすぐだった。
広美はファインダー越しに妹を見つめながら、その横顔に、芯の強さを感じていた。
「だから、他の道は選択肢にありませんでした」
その返答を聞いた瞬間、広美の表情がわずかに曇る。
しかし、すぐに切り替えて、インタビューはそのまま続けられた。
日常の生活のこと。
初騎乗のレースを終えた時の感想。
厩舎の有力馬のこと。
仁美はひとつひとつの問いに、飾らず、まっすぐ答えていった。
「次のレースはいつですか?」
「明後日の開催です。十二レースのうち、八レースに乗ります。早く初勝利をあげたいです」
その答えに、広美は小さく頷いた。
そこには姉としての、祈るような気持ちが滲んでいた。
「頑張ってください。応援してます」
最後の言葉を口にしてから、広美はレコーダーのスイッチを切る。
小さな機械音がして、張りつめていた空気がふっと緩んだ。
「ふう、終わり終わり」
「ほいたら頼もうか」
さっきまでの口調を脱ぎ捨て、家族の顔に戻る広美。
仁美は改めてメニューに目を落とし、少しだけ考えてから言った。
「私、サラダと冷奴で」
広美は思わず眉を上げる。
「なんで?」
「明後日はレースやき」
「体重制限もあるし」
仁美の口ぶりはあくまで淡々としていたが、それが当たり前になっていることがかえって伝わってきた。
食べたいものを食べるのではなく、乗るために身体を整える。
その積み重ねが、もう仁美の日常になっている。
「そうか、大変やね」
「私も、たたきとか食べれんね」
広美が冗談めかして言うと、仁美はすぐに首を横に振った。
「気にせんで良いで」
運ばれてきた料理を前に、二人はようやく箸をつけた。
広美は生ビールをひと口飲み、仁美は湯気の立つ温かいお茶に手を添える。
けれど、場の空気は、食事を前にしても完全にはやわらがなかった。
「けんど話聞きよったら、あんた、可哀想やね」
唐突に落とされたその一言に、仁美の箸が止まる。
「なにが?」
広美は、仁美をまっすぐ見た。
「操り人形やか、あの男の」
「何を……言うが?」
仁美の声が、わずかに強張るが、広美は視線を外さない。
「狭い世界しか見せられんで、他の選択肢も与えられんで」
「違うで、それは自分でちゃんと選んで――」
「そう思うちゅうだけ」
言葉を被せられ、仁美は返す言葉を失った。
広美は、責めるような口調のままではなかった。
むしろ、どうにかして伝えたいことを、吐き出しているように見える。
「あの人が、事故で歩けんなったがは、あんた、まだ三歳くらいやったもんね」
「お母さんは、あんたに見せんに見せんようにしよったし」
「何を?」
その問いに、広美は一瞬だけ目を伏せて、言いにくそうにしながらも、言葉を出す。
「飲んだくれて、荒れて、暴れて、物を投げて」「地獄やったで」
「それは、馬に乗れんどころか、歩けんなって……」
思わず漏れた言葉は、父を理解しようとする響きを帯びていた。
広美は小さく首を振る。
「そりゃあ、同情の余地はないことはないかもしれんけど」
「お母さん、あいつの投げた物で、鼻の骨折ったりしたがよ」
「……」
仁美は言葉を失った。
知らなかったこと。
知らされずにいたこと。
そのことを一瞬で理解する。
「それやのに、最後はあの男を庇うて」
広美の声が、そこでわずかに揺れた。
「ごめん」
「けんど、あんたはまだ十代やろ?」
「自分の将来、まだまだいろんな世界があるがで?」
仁美は黙って姉の顔を見つめた。
広美は、さっきのショーウィンドウの話を思い出したように、少しだけ声の調子を和らげる。
「さっき言いよったショーウィンドウ、『ディスプレイコーディネーター』って資格があって、それを習える学校もあるき」
「ゆっくり考えたらえいよ」
なぜ、そんな話をするのか、仁美には姉の真意がわからない。
広美も、少し我に返ったような様子で、もう一度笑顔を作った。
「ごめんで、ひとまず騎手もあんたが決めた道やき」
「応援するきね」
「お姉ちゃん」
店を出ると、あたりはすっかり暗くなっている。
「どうやって帰るが?」
「え?普通にバスやけど」
仁美が答えたその時だった。
広美は、ふと思い出したようにバッグに手を入れ、小さな封筒を取り出して、差し出す。
「これ」
「なんで?これ」
受け取ろうとしない仁美の手を、広美は半ば強引に取って、封筒を押し込む。
「取材料、少ないけど、あとこれね」
さらに、折りたたまれた一万円札をその上から握らせた。
「お姉ちゃん?いかんちや、こんなが」
仁美が慌てて返そうとするのを、広美は軽く手で制した。
「良いき、良いき、これでタクシーで帰りや」
その言い方は、少しぶっきらぼうながらも、優しさが感じられた。
仁美は、しばらく迷ったあと、小さく頷く。
「……ありがとう」
「明後日のレース、見よるきね」
「うん、見よって」
仁美は、ふっと笑った。
さっきまでの気まずい空気が、ほんの少しだけほどけたような、あどけない笑顔だった。
道端に停まっていたタクシーのドアが開く。
仁美は振り返ってもう一度だけ広美を見てから、車に乗り込んだ。
ドアが閉まり、車がゆっくりと動き出す。
広美は、その姿が見えなくなるまで、黙って手を振り続けていた。
「さて、と」
小さく息をつき、バッグから携帯を取り出す。
「チーフ、沖浜騎手の取材、終わりました。内容は後ほど、編集でき次第メールします」
相手の声に耳を傾けながら、歩き出す。
「はい、明後日と明々後日のレースを見てから、月曜の朝一の便で戻ります」
一度言葉を切ると、こんどは口元が緩む。
「……うん、私も寂しいよ。土日なんだから、あなたも来ればいいのに」
「またゴルフ? 本当に、休日は私と時間取ってくれないよね」
返ってきた言葉に、苦笑が漏れる。
「……そんな、へこまないでよ」
「ちょっと意地悪言いたかっただけなんだから」
「うん、私も……じゃ、おやすみなさい」
通話を切ると、しばらくそのまま立ち止まった。
さっきまでの仁美との会話が、頭の中に残っている。
だが、それを振り払うように、小さく息を吐いて、再び歩き出した。
一方その頃、沖浜厩舎の調教師室。
古びた机の上の電話が、静かに通話を続けている。
「そうですか」
「いま出発となると、明日の昼頃になりそうですね、楽しみだ」
受話器を耳に当てたまま、万次郎はゆっくりと頷く。
「いえいえ」
「亡き先代オーナーのお父上には、大変お世話になりましたから」
「なつかしい相棒の忘れ形見、しっかり管理させていただきます。では」
受話器を静かに戻す。
部屋の中に、しんとした静寂が落ちた。
万次郎の視線が、壁に掛けられた一枚の写真へと吸い寄せられる。
日本ダービーの口取り式。
優美な栗毛の馬に跨り、右手を高々と掲げる、若き日の自分。
「……ハンター」
小さく呟き、目を閉じる。
三コーナーを通過する。
頬を切る風。
馬群の四方から重なって響く蹄音。
栗色の鬣が風を受けてたなびく。
押し寄せるサラブレッドたちの息遣い。
両隣の騎手たちが、同時に手綱に力を込める。
「ハンター、わしらも行くぞ」
手綱を引くが、反応がない。
「……おい、どうした、ハンター?」
脚色は変わらず、じりじりと位置を下げていく。
その間に、後続の馬たちが次々と追い越していった。
「おい、動け……これ以上下がったらまずい!」
焦りが声に滲んでも、コメットハンターは応えない。
場内アナウンスが響く。
『おっと、ここで緑の帽子、コメットハンターが遅れ始めます。何かアクシデントでもあったのでしょうか?』
4コーナーを回る頃には、ほぼ最後方。
それでも万次郎は手綱を緩めない。
その時だった。
馬が、すっと外へ持ち出される。
するりと馬群の外へ。
前が開けた次の瞬間。
コメットハンターの首が、地面に突き刺さるように低く沈む。
「……おい、ハンター……そうか!」
万次郎の目が見開かれた。
最後の直線で鞭が入ると、ギアが変わった。
さっきまで動かなかった馬が、嘘のように前へ飛び出して、ぐんぐんと加速する。
視界の端で、他の馬たちが流れていく。
抜く。
抜く。
抜く。
そして前が近づく。
「残り二百……届くか?」
もう一度、鞭を入れた瞬間、ハミを強く噛み締める感触が、手綱を通して伝わる。
「行け! ハンター!」
前との差、五十メートル。
二十メートル。
そして、ゴール前十数メートル。
コメットハンターの首が、ぐっと抜け出し、そのまま、先頭でゴール板前を駆け抜けた。
そこで、ゆっくりと目を開ける万次郎。
視界にあるのは、もう歓声に包まれた府中のターフではない。
薄暗い調教師室と、壁に掛けられたままの古びた写真だけだった。
「……おまんの子か」
そう呟き、窓の外の星空を見上げた。
翌日の昼過ぎ、厩舎に一台の馬運車が停車した。
万次郎、洋平、信吾、そして所属の仁美の先輩騎手、瀧越真光が並んで迎えている。
もちろん仁美もそこにいた。
「師匠、あの馬房に入る馬ですか?」
「そうや。お前と信吾には言うてなかったねゃ」
降車してきた二人の男が、慣れた手つきで扉に手をかける。
「元、中央の二歳王者。わしの相棒の息子や」
扉が開かれた先にいたのは、厩舎にいる馬たちとは明らかに違っていた。
青黒く輝く馬体。
彫刻のように刻まれた張りのある筋肉。
鼻筋に通る白い流星模様。
そのスケールは「彗星」と言っても良いものだ。
そして、長旅の疲れを見せず堂々と立つ姿は、威厳と風格に満ちていた。
「ヘールボップや」
手綱を引かれ、タラップに踏み出すヘールボップ。
その体の汗から立ち昇る蒸気が、南国の日差しに照らされて、闘志を秘めた静かな炎のように見えた。
仁美の目は釘付けになり、瞬きすることさえ忘れてしまう。
「これが、中央のGⅠ馬……」
ふと、目が合う。
その黒い瞳には、どこまでも吸い込まれそうな深みがあった。
「あなたが……あんたが……」
ヘールボップは、まるで挨拶するように、ひとついなないた。
「ヘールボップ!」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。