第三章 幕間
第三章
一
石畳の広場を囲んで、古い教会と、市場と、領主の館が建っている。住民は一万人ほど。どこにでもある地方の町だ。
ただ、この町の住民には一人一人、本人も知らない役があった。ある家のメイドは、実はこの国の失われた王女だった。三日前、彼女の夢に女神が現れ、そう告げたのだ。幼馴染の鍛冶屋の息子は、王女を守る騎士に選ばれた。こちらも夢のお告げだった。領主は王女の命を狙う逆臣で、館の地下では夜な夜な怪しげな儀式が行われている。そして近隣の森には、逆臣と手を結んだ魔将が潜んでいる。
町の人々は、誰もそれを疑わなかった。昨日までただのメイドだった女を王女様と呼び、鍛冶屋の息子の拙い剣に歓声を送った。自分がなぜそうしているのか、誰も考えなかった。
カイは、広場の隅の石段に腰掛けて、それを見ていた。
もう何日も見ていた。観測者として。
筋書きは、分かりやすかった。王女と騎士が試練を越え、逆臣の陰謀を暴き、魔将を討ち、町を救う。途中で誰かが死に、誰かが涙を流し、最後には鐘が鳴って二人は結ばれるのだろう。
何度も見た形だった。
今日は、その山場だった。夕暮れの広場に、森から魔将が現れた。黒い甲冑に、角のついた兜。背丈は常人の倍ほどもある。雇われたカイストだろう。王女を攫いに来た魔将の前に、騎士が剣を構えて立ちはだかる。住民達が固唾を呑んで見守っている。
カイは、欠伸を一つした。
それから、頭の中の本棚に手を伸ばした。
背表紙に名前のない本が、何冊か並んでいる。特定の誰かについての物語ではない。どこかの誰かが、よくある形を借りて書いたものだ。カイはその中から、一番ありきたりなものを選んだ。
悪役が、改心する話。
魔将が、兜を脱いだ。
広場がどよめいた。兜の下から現れたのは、疲れ切った中年の男の顔だった。男は大剣を石畳に置き、その場に膝をついた。
「……俺は、間違っていた」
魔将が言った。
「守るべきものを、見失っていた。王女よ、騎士よ、許してくれ。俺はもう、誰も傷つけたくない」
騎士が剣を構えたまま、呆然と立ち尽くしている。王女は口元に手を当てたまま動かない。住民達は顔を見合わせている。誰も、次に何をすればいいのか分からなかった。
筋書きが、崩れていた。
カイは、首を傾げた。
「ありきたりな筋書きを選んだつもりだったけど、すんなり通ってしまったな」
魔将役の男は、まだ膝をついたまま泣いていた。自分でも、なぜ泣いているのか分かっていない顔だった。
「まぁ、対象がネームドじゃないことを考えると、そりゃそうか」
二
広場の空気が、ふっと重くなった。
夕暮れの光が、一瞬だけ翳った。雲が流れたのではない。町全体を包む何かが、身じろぎしたような感じだった。
人だかりが、ひとりでに左右に割れた。
その間を、一人の女が歩いてきた。
「こんにちは……いや、もう夕方か。Aクラス護包士・エルリアックさん」
細身の黒いスーツ。肩で切り揃えた髪。大きな丸縁の眼鏡の奥で、神経質そうな目が細められている。美人だが、今は怒りで顔の輪郭が少しだけ硬くなっていた。
女は、石段に腰掛けたカイの前で立ち止まった。
「やってくれましたね」
女は言った。
「この物語の準備に、何年かけたと思っているのです」
カイは、その声を覚えていた。
燃える村の上で、床下の暗闇の中で聞いた声だ。満足げな、出来の良い芝居を見終えた客のような声。何度生まれ直しても、あの声だけは耳の奥に残っていた。
女は、カイを覚えていなかった。
当然だった。あの夜、カイはどこにもいなかった。筋書きのどの頁にも、名前すら書かれていなかったのだから。
三
「どーせ大した年数じゃないでしょ、こんなテンプレじみたやつは。それに、脚本家が舞台に上がるのは、まずいんじゃないかい」
カイは言った。
女の眉が、わずかに動いた。
次の瞬間、カイの頭上から声が降ってきた。
あなたは、選ばれました。
女の声だった。目の前の女と同じ声だった。けれど女の唇は動いていない。空から、あるいは頭の内側から、その声は響いてきた。
あなたは、この町を陰から見守る旅の賢者。王女に助言を与え、騎士を導き、最後には。
カイは、何もしなかった。
声は、カイの中に何も残さなかった。水が油の上を滑っていくように、言葉だけが表面を撫でて流れ落ちていった。
女の目が、眼鏡の奥で見開かれた。
「……あなた、役が入らないのね」
「もう役はあるんだ」
カイは、肩をすくめた。
「観測者、批評家でもいいよ」
女は、しばらくカイを見つめていた。広場では、まだ魔将が膝をついて泣いている。住民達は、女とカイを遠巻きに見ている。
「観客は、舞台には上がりませんよ」
女が言った。
「実際に体験したほうが、しっかり観測できるだろう」
カイは、笑った。
四
女はカイとの距離を詰め、目の前に立った。座ろうとはしなかった。
広場の真ん中で、騎士がようやく剣を下ろしていた。王女が、泣いている魔将の肩にそっと手を置いた。住民達の間から、ぱらぱらと拍手が起こり始めた。筋書きにない場面だった。けれど、彼らはそれを受け入れ始めていた。
「ちょっと僕と似てるね」
カイは、広場を眺めたまま言った。
「本質は違うだろうけど」
「何が違うのです」
「君は書く。僕は、読んで選ぶだけだ」
エルリアックは、何も言わなかった。
「ところで」
カイは、女の方へ顔を向けた。
「この世界には、君よりよっぽど"作者"っぽいやつがいるだろ」
「聞き捨てなりませんね」
女の声が、一段低くなった。
「私の通り名をご存じですか」
「知ってるよ。『天上脚本師』『シナリオルーラー』『ブックメーカー』。立派な通り名だ」
「聞き覚えのないのがありますね。私の脚本にギャンブル物はほとんどありませんが」
「あぁー……。"それ"は聞かなかったことにしてくれないかな」
そう言った後、カイは少しだけ首を傾げた。
「ま、通り名だけだと確かに気づきにくいよね。『無手勝』に『幸運王』。それだけ聞けば、ただの運のいいカイストだ」
「……コー・オウジ」
女は、その名を口にした。
「せいかーい。偶然を操って、自分の好きな結末を引き寄せる。君よりよっぽど脚本家じゃないか」
五
女は、すぐには答えなかった。
眼鏡を指先で押し上げ、それから、ゆっくりと口を開いた。
「確かにそうかもしれませんが、彼は自分の好きな物語を紡いでいるわけではありませんよ」
その声には、怒りよりも、何かを思い出すような響きがあった。
「なぜか、幸運にも、結果的に、自らの望む結末が成就してしまう。彼はそういう人です。私が彼より劣っている、という指摘は間違っています」
「ごめんごめん」
カイは、あっさりと謝った。
「確かにそうだね。ただ、重要なのはそこじゃないんだよ」
耳の奥で、いつかの竪琴が鳴っていた。
カイは立ち上がった。痩せた体が、夕暮れの中に細長い影を落とした。
「だって物語っていうのは、どんなものでも"作者"の望む結末を迎えるものだろう。コー・オウジは、まるでこの世界を描き出す"作者"みたいじゃないか」
女は、何かを言いかけた。
カイは、それを待たなかった。
「というわけで、君にかまっている暇はないよ。彼をぶち倒しに行かなきゃだからね」
カイは、手をひらひらと振った。
「君にもっと"人気"が出たら、その時はまた会おうじゃないか」
女は、眉をひそめた。
「人気、とは」
答えは、なかった。
カイが選んだ悪役改心の物語は、魔将が許しを請い、王女がそれを受け入れたところで終わっていた。最後の一行はこうだった。
『そして、それを見届けた旅人は、誰にも気づかれずに町を去った』
六
エルリアックの目の前には、誰もいなかった。
魔将役の男は、もう泣いていなかった。物語が終わり、元に戻ったのだ。男は困惑した顔で自分の手を見つめ、それから、エルリアックの様子を、気まずそうに窺っていた。契約違反の言い訳を考えている顔だった。
騎士と王女は、まだ手を取り合っていた。住民達は、拍手を続けていた。筋書きにない結末を、彼らは自分達の物語として受け入れていた。
確かに五年しかかけていない舞台だった。
女神の神託を下す時期、逆臣が陰謀を巡らせる手順、魔将が現れる夕暮れの角度。全てを決め、全てを整えた。それが、ありきたりな改心劇一つで、別の形に書き換えられてしまった。
怒りは、まだ収まっていなかった。
けれど、エルリアックの内側で、別の何かが疼いていた。
観測者と名乗る男が、幸運王に挑む。
作者を名乗ったこともない男に、観客を名乗る男が、作者の座を賭けて挑む。
そんな物語を、彼女は見たことがなかった。どんな筋書きになるのか、どんな結末になるのか、まるで想像がつかなかった。
脚本家にとって、それは何よりも抗いがたい誘惑だった。
「……少しだけ、見てみたいわね」
エルリアックは、誰にともなく呟いた。
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