◆カミーユ・ヤペティ◆
【破滅と絶望(一日目)】
「はぁ……はぁ、はぁ……っ」
無我夢中で走りながら、目の前に見えてきた扉に手をかける。そのまま室内へと勢いよく滑り込むと、そこにいたのは幼い少年を脇に抱えて座り込んでいる女性だった。
その顔色は青白く、恐怖に引きつったその表情はまるで自分自身を見ているようだ。そんな二人と一瞬視線こそ合ったものの、特に言葉を交わすでもなくその場に座り込んだ僕は、抱えた膝に顔をうずめてガタガタと震える。
突如としてニゲラ上空に現れた眩い閃光は、それを合図にして一気に人々をパニックと地獄の混沌へと突き落とした。
どこからともなく現れた異形の姿をした生物。その場にいた人々は次々と襲われ、なす術なく喰われてゆくその姿は、あまりにも凄惨で直視ができないほどだった。なんとかここまで逃げて来られたのも、僕が俊敏だったからでも賢かったからでもない。ただ運が良かっただけだ。
(……っ、あれは一体、なんなんだ……)
冷静に思考を巡らせようとするも、恐怖に震えるばかりで考えがまとまらない。
ぬるりとした身体と全身を覆う鱗のようなもの。おそらく二足歩行であろうあの生物は、二足歩行とは思えないほどの軟体的な動きで、その移動速度は桁外れだった。
あんなものに捕食対象として一度認識されてしまったら最後、逃げ延びるのは不可能だろう。かといって、ここに隠れていれば安全だという保証もない。
(どうすれば……っ、……)
答えの出ない葛藤に押し潰され、瞳にはうっすらと涙が滲み始める。
「ママ……怖いよぉ」
「大丈夫、大丈夫よ……っ、静かにしてようね」
その声に反応するようにしてそっと顔を上げると、部屋の片隅で震えながら抱き合っている親子を眺める。この状況下で、どうすべきか答えが分からないのは僕だけではない。きっと誰もが、何も分からずにただ恐怖に震えているだけなんだ。
膝を抱えた両手にギュッと力を込めると、ガタガタと震える身体を必死に宥める。
────バンッ!
突然開かれた扉の音に驚くと、ビクリと肩を揺らした僕達は一斉に扉へと視線を向けた。
そこから室内へと入ってきたのは、二十代後半ほどの男性。その呼吸は荒く乱れ、ここまで必死に逃げてきたのであろうことは一目瞭然だ。その姿を見て、一瞬にしてバケモノへの警戒心で張り詰めていた空気は解かれ、ほっと胸を撫で下ろす空気が室内を漂う。
息つく間もなく近くの窓へと移動した男性は、警戒しながら慎重に外の様子を窺う。その額からはじんわりとした汗が滲み出し、見ているこちらまで緊張が伝わってくる。
「……驚かせて悪かった。ここにいるのは三人だけか?」
窓の外から視線を外すと、そう告げた男性は室内を見渡す。こうして改めて見てみると、僕とは違って頼りがいがありそうな人だ。強い恐怖心を浮かべた表情ながらも、その瞳には確かな力強さが宿っている。
そんな男性とバチッと視線が合ってしまった僕は、カタカタと震えながらも口を開いた。
「……っ。は、はい……たぶん……」
そう返事をしながらも、部屋の隅にいる親子に視線を送る。
「そうか……。ここがバレるのもきっと時間の問題だろうな」
その言葉に、思わずビクリと身体が揺れる。
「ここから少し先に行ったところにモールがある。そっちの方が安全だろう。……ここは窓から近すぎる」
確かにこの男性の言うとおり、こぢんまりとした服飾店では窓からの距離が近すぎる。すぐ傍を通りかかったら、中の様子は間違いなく丸見えだろう。
とはいえ、ここを出て移動するだなんて……。ここへ逃げ込むのでさえやっとの思いだったのに、再び危険な外に出るだなんてできるわけがない。
(……そんなの無理だ……っ、……)
恐怖に顔を引きつらせながらガクガクと震える。
「怖いのは分かる……。だが、ここにいたらヤツらに喰われるだけだ」
──喰われる。その言葉を聞いて、途端に不穏な空気と絶望感が室内を支配する。
「その子は俺が抱えていく。付いて来れるか?」
「……は、はい……っ」
親子のもとへと移動すると、母親の手から小さな男の子を預かった男性。そのまま両手でしっかりと抱きかかえると、再び窓の傍まで移動する。どうやらこの流れでは、ここを出て移動するのは決定したようだ。
外へ出るのは勿論怖いけど、一人になる方がよっぽど恐ろしい。ガクガクと震える身体をそのままに、ゴクリと喉を鳴らして覚悟を決める。
(大丈夫……っ。この人について行けば……きっとなんとかなるはずだ……)
「……俺が合図したらここを出るぞ」
その言葉にコクリと頷いた僕達を確認すると、再び窓の外に視線を向けた男性は慎重に様子を窺う。張り詰めた空気の中、男性の額から一筋の汗が流れ出た──その時。
「──今だ」
その合図と共に、開かれた扉から一斉に外に向かって飛び出す。そこかしこで人々の悲鳴や牛のような咆哮が響く中、ただ目の前に見える男性の背中だけを必死で追いかける。
幾度となく耳に届く断末魔は、それだけで僕の精神を擦り減らしてゆく。何度も躓きそうになりながら走ってはいるものの、もうこの地獄のような状況に耐えられそうにない。
(助けて……っ、助けて……!)
誰に届くでもない願いを心の中で唱えながら、崩れ落ちた建物の残骸の中をひたすらに駆け抜ける。
体格差のある子供の母親や僕では、目の前の男性に置いていかれないよう付いて行くのがやっとだ。そんな僕達に向けて振り返った男性は、恐怖に顔を強張らせながらも笑顔を向ける。
「あともう少しだ、がん──」
突然物陰から姿を現した異形のバケモノ。そのバケモノに頭から喰われた男性の言葉は、最後まで口にすることなく途切れた。
「……ぁ……あ、あ゛……っ」
飛び散る血飛沫を前に、その衝撃から言葉にならない声が漏れ出る。
泣き叫ぶ子供は片手を喰いちぎられ、それを見た母親は絶叫する。それに気付いたバケモノは、すぐさま母親のもとへ移動するとそのはらわたを喰い破る。そんな光景が、ただゆっくりと流れてゆく。
(もう、無理だ……っ、無理だ……)
目の前の光景を遮断するようにしてその場に蹲ると、大粒の涙を零しながら両耳を塞ぐ。それでも聞こえてくる凄惨な断末魔に、僕の精神はもはや壊れる寸前だった。
きっと、次は僕の番だ──。先程見た光景を思い浮かべながら、ガタガタと大きく震え始めた身体を縮こませる。この状況からして、助かる可能性は万に一つもないだろう。その現実を受け入れざるを得なかった僕は、ここから逃げる意思すら放棄した。
◇
「…………」
あれからどれほどの時間が経過したのか、待てど暮らせどバケモノが襲ってくる気配はない。不思議に思ってそっと顔を上げてみると、すぐ目の前にいたはずのバケモノの姿が見当たらない。
地面には生々しい血痕が飛び散り、先ほど見た光景が間違いなく現実だということを物語っている。それを見て堪らず吐き気をもよおすと、すぐさま地面に顔を向けて嘔吐する。
(一体……、何がどうなったんだ……っ?)
混乱する頭のまま口元を拭うと、一人取り残されたまま呆然とする。たとえ今この瞬間が無事だったからとはいえ、この先一人でこの場から移動する気力は残っていなかった。
あの頼もしく見えた男性でさえ、一瞬にして目の前で喰われてしまった。こんななんの取り柄もない貧弱な僕では、一人でモールを目指して移動するなんて不可能だ。なにより、足がすくんで一歩も動けそうにない。
耐え難い恐怖心と一人残された寂しさに、静かに涙を流しながら抱えた膝に顔をうずめる。
「……っ。もう、嫌だ……っ、」
嗚咽混じりの小さな声を呟くと、突然肩を叩かれてビクリと飛び跳ねる。
「──大丈夫? こんなところにいたら危険よ」
顔を上げた先に見えたのは、緊張した面持ちながら穏やかな笑みを浮かべる高齢の女性。そのすぐ隣には、同じく高齢の男性が寄り添うようにして立っている姿だった。
【新たな仲間(四日目)】
ごろりと寝返りを打つと、覚醒しきれていない頭のままぼんやりと目の前を見つめる。そこに見えてきたのは、憔悴しきった様子で身を寄せ合う人々の姿。
今から三日前。見知らぬ老夫婦に助けられた僕は、こうして無事にモールまで辿り着くことができた。とはいえ、辿り着いたモールは決して安心できるような場所でもなく、こうして狭い密室に立て篭もることを余儀なくされている。
「…………」
もしかしたら、今となっては安全な場所などどこにも存在しないのかもしれない。だとしたら、こうして休むことができるだけだいぶマシな環境だとも言える。
そんな考えを思い浮かべながら、固い床からのろりと起き上がる。
「……あら、もう起きたのね。ちゃんと眠れた?」
「おはよう、カミーユ。これは今朝の分だ。しっかり食べておきなさい」
そう告げながら柔和な笑みを浮かべたのは、あの時僕に声を掛けてくれたリップ夫妻だった。
「おはようございます。……ありがとうございます」
差し出された缶詰を受け取ると、ポケットから取り出したスプーンで一口頬張る。味は決して悪くはないものの、四日目ともなるとさすがに飽きてくる。とはいえ、食事が摂れるだけありがたい。
この部屋に身を寄せ合っている二十人ほどの人達を見渡しながら、いくつかの積み上げられた段ボールにチラリと視線を送る。これだけの缶詰があれば、きっと数週間は生きていけるだろう。
(でも、この先誰も助けに来なかったら……?)
そんな不安が頭をよぎり、一気に気落ちして食欲も消え失せる。そんな僕の様子に気づいたのか、俯く僕の頭を優しく撫でてくれるリップ夫人。
チラリと視線を上げると、優しく穏やかな笑みを返してくれる。
「大丈夫よ、きっと助けが来るから。……さ、ちゃんと食事は摂らないと」
そう告げながら僕の手を優しく握ったその手は、微かに震えているようだった。
きっと、怖くて不安なのは誰だって同じはずだ。それなのに、僕のために気丈に振る舞っているだけなんだ。そんなリップ夫人の優しさに、じんわりとした温かさが込み上げてくる。
「……っ、はい……」
出会った時からそうだった。リップ夫妻は、いつだってこうして僕を励ましてくれる。あの時二人に出会っていなかったら、今こうして僕がここにいることもなかっただろう。
そんな二人に改めて感謝の言葉を口にすると、涙を流しながら食事を口に運ぶ。そんな僕のことを、温かい眼差しで見守ってくれるリップ夫妻。それがなんだか無性に嬉しくて、自然と僕の口元には小さな笑みが浮かぶ。
「──おい、今の聞こえたか……?」
ドア付近にいる男性がそう口にした瞬間。その場にいた誰もが顔を強張らせ、一瞬にして静まり返った室内。束の間の休息時間は強制的に打ち切られ、張り詰めた空気が静かに流れる。
二日ほど前まで、ドアの外では悲鳴やバケモノの咆哮が鳴り止むことはなかった。その恐ろしさに、ここにいる誰もが一瞬たりとも気を抜くことができず、眠れぬ日々を震えながら過ごしていた。それが、昨夜になってやっと少しばかり緊張の糸がほぐれたばかりだというのに──。
今、あの恐怖が再び現実味を帯びて蘇ってくる。
『…………、……』
「──! ほら、聞こえるだろ?」
男性のその声に、その場にいた全員がよくよく耳を澄ましてみる。
『た……、て……』
「……! 本当だ。人の声が聞こえるぞ……」
その言葉を合図に、小さくざわめき始めた室内。もしかしたら助けが来たのかもしれないと、途端に安堵の声が漏れ広がる。
「……いや、待て。ちょっと皆静かにしてくれ」
騒ぎ始めた人々の声を制すると、片耳をドアに寄せて外の様子を窺う男性。その場にいた誰もが期待と不安の入り混じった表情を浮かべながら、そんな男性の姿を静かに見守る。
『……たす……、け……て……』
「「──!」」
室内にいる全員の注目がドア付近に集まる中、僕達の耳に届いたのは救助を求める声だった。
助けが来たわけではなかったと嘆く人。再び外の脅威に怯える人。その反応はまちまちだったものの、希望が打ち砕かれたことだけは確かだった。
「…………。助けた方がいいんじゃないか?」
「──! 外にはまだ、あの生き物がいるかもしれないのよ? この扉を開けるなんて……っ」
「じゃあ、このまま見捨てろとでも言うのか?」
意見が割れ、再びざわめき始める室内。そんな大人達のやり取りを見つめながら、カタカタと震え始める僕の身体。
三日前に見た光景が強烈なフラッシュバックとして蘇り、視界に映るドアがどす黒く歪んでゆく──。
(喰われる……っ、……喰われる……。あのドアを開けたら……、全員喰われる……っ!)
ドクドクと高鳴る鼓動だけがやけに鮮明に鳴り響き、短い呼吸をひたすらに繰り返す。
「……カミーユ。大丈夫だ、落ち着きなさい。ゆっくり息をして」
「大丈夫よ、安心して。……ほら、この袋を口に当てて」
リップ夫妻に優しく背中を擦られながら、徐々に落ち着きを取り戻してゆく呼吸。それでも、この忌まわしい予感だけはどうにもならなかった。今再び、あの惨劇が繰り返される気がしてならない。
目の前のドアを見つめながら、やっと得られた居場所を奪われる気配に怯える。
『た、す……け……』
「この声、子供じゃないか?」
「ああ、子供の声に聞こえた。……やっぱり助けるべきだ」
「……嫌よ! この扉を開けるなんてやめて! アイツがいたらどうするのよ!」
「じゃあ、助けを求める子供を見捨てろって言うのか!?」
小声ながらもそんなやり取りを続ける数人の大人達。その周りにいる人々は、どちらの意見に賛同するでもなく、ただ怯えた表情を浮かべている。
そんな光景を眺めながら、ついにノブに手を掛けて開かれてゆくドアを見つめる。
「「────!!!」」
扉を開けた先に立っていたのは、白くぬめり気を帯びた二メートルほどのバケモノ。その姿を見て、その場にいた誰もが凍りつく。
『……た、す……けて……』
ゆっくりとした歩みで目の前を通過してゆくバケモノは、確かにその口元から子供の声を発した。
「きゃああああーー!!!」
部屋中に響き渡ったその悲鳴は、目の前にいるバケモノの注意を引くには充分すぎるほどだった。
くるりと向きを変えたバケモノはすぐさま悲鳴を上げた女性に飛びつき、その肩に喰らいついて抉り取る。一気に地獄と化した室内は、逃げ惑う人々の悲鳴と断末魔がそこかしこで飛び交う。突然のパニックに、腰を抜かしたまま動けなくなったのは僕だけではなかった。
「……っ。二人とも、しっかりするんだ。……今すぐここを出るぞ」
「…………え、ええ……っ、」
リップさんに促されるようにして立ち上がると、ガクガクと震える足のままゆっくりと歩き始める。リップ夫人と僕を前に、その背後からしっかりと二人の肩を抱いてくれるリップさん。
そこかしこから飛び散る血飛沫は、ぬるりとした生暖かい感触とともに、僕の頬にビチャリと飛び散って流れてゆく。その悍ましい感触に、堪えきれない吐き気が一気に込み上げる。
(……っ、無理だ……こんなの無理だ……っ)
口元を押さえて必死に吐き気を堪えると、つま先に何かが触れたような感覚に、無意識に反応した視線は足元へと落ちる。
「ひぃ……っ!」
ゴロリと転がる生首。見覚えあるその顔に、つい数時間ほど前に言葉を交わした記憶が脳裏に蘇る。見るも無惨な変わり果てたその姿に、気付けば僕の瞳からは大量の涙が流れていた。
たまらず嘔吐すると、すぐ隣にいるリップ夫人に空いた右手を握られる。
「……っ、見てはダメよ……。さ、扉まであともう少しよ」
顔面蒼白のリップ夫人は、そう告げると涙を流しながらも前を向く。それに促されるようにして、ゆっくりと着実にドアを目指して歩いて行く。ほんの数メートルほどの距離だというのに、僕の体感では恐ろしく長く思えた。
やっとの思いで入り口まで辿り着くと、僕達の前に出たリップさんが外の様子を確認する。
「……大丈夫だ。このまま二階まで行こう。あそこならきっと食べ物もある」
怯えた表情を浮かべながらも、確かな眼差しでそう告げたリップさん。僕達を庇うようにして先頭に立つと、建物の中央付近にあるエスカレーターを目指して歩き始める。時折聞こえてくる僅かな物音にビクつきながらも、立ち止まることなく突き進んで行く。
ほどなくして、目の前に見えてきたエスカレーター。鉄骨や瓦礫で埋もれてはいるものの、なんとか使えそうだ。
「……よし。ここから行けそうだ」
リップさんの言葉を合図に、二階を目指して三人で登り始める。いざ登ってみると、瓦礫に埋もれたエスカレーターは予想以上に足場が悪く、瓦礫を踏み越えたり鉄骨を潜ったりと苦戦する。それでも、なんとか頂上付近まで辿り着くと、僕は目の前に見える大きな鉄骨を見上げた。
相当な重量がありそうなその鉄骨は、前方を塞ぐようにしてエスカレーターの手すり部分に乗っかっている。おそらく、崩れた天井から落ちてきたのだろう。とはいえ、下を潜ればなんとか通れそうだ。そう思って安堵の息を漏らした──その時。
僕のすぐ横にいたリップ夫人が、瓦礫を踏み外した衝撃で前方へと倒れ込んだ。そんなリップ夫人に向けてすぐさま助けの手を差し伸べるも、その視線だけは転がり落ちてゆく瓦礫から逸らすことができなかった。
カラカラと音を立てながら、一階まで落ちてゆく瓦礫──。その場にいた誰もが肝を冷やし、ゴクリと喉を鳴らした音だけが静かに響く。
『──ボォアアアー!!』
牛のような咆哮を響かせながら、もの凄い勢いで姿を現したバケモノ。その恐ろしさに、途端にガクガクと震える足元。
エスカレーター下を振り返ったリップ夫人は、その視線を僕達に向けると涙を流した。
「二人で逃げて……」
「──! 何を言ってるんだ! ……さ、早く逃げよう」
慌ててリップ夫人の傍に身を屈めると、その手を掴んで立ち上がらせようとするリップさん。そんな二人のやり取りを眺めながら、すぐ下にいるバケモノにチラリと視線を送る。
今にも襲いかかってきそうな体勢に、背筋を凍りつかせた僕はへたりと尻餅をつく。
「ダメなのよ……っ、足を捻って歩けないの……。お願い……二人だけでも逃げて……」
泣きながらそう告げるリップ夫人を見て、悲痛に顔を歪めたリップさんは静かに俯いた。
「…………。カミーユ……よく聞きなさい。一人で逃げるんだ」
「…………え、?」
「ここを上がって右に行けばレストランがある。そこなら食料もきっとあるから……さ、早く行きなさい」
「で、でも……っ」
「……早く行くんだ!」
俯いていた顔を上げると、悲痛に顔を歪ませながら優しく微笑んだリップさん。
「必ず生き抜くんだよ」
リップさんがそう告げた次の瞬間。咆哮を上げたバケモノは、勢いよくエスカレーターを駆け上がってくる。それを見たリップさんは、僕と夫人を庇うようにして立ち上がる。
(……そんなの嫌だ……っ、)
リップさんの背中を見つめながら、静かに涙を流した──その時。
「──伏せろ!!」
突然聞こえてきた声に振り返ってみると、エスカレーターの頂上付近にあった鉄骨が勢いよく滑り落ちてくる。
「────!」
呆然とする僕の頭を押さえたリップさんは、夫人と僕を庇うようにして覆い被さる。何が起きたのか分からない状況に、ただ、滑り落ちてきた鉄骨にぶつかったのであろうバケモノの衝撃音だけが耳に届く。
「立てるか?」
見知らぬその声に顔を上げてみると、そこにいたのは三十代ほどの精悍な顔つきの男性だった。
「……妻が足を挫いて歩けないんだ」
「分かった。じゃあ俺が抱えて行く。二人は大丈夫か?」
「ああ、すまない。ありがとう」
そんなやり取りを交わす中、呆然としながらもリップさんに促されて立ち上がる。チラリと階下を見てみると、鉄骨の下敷きになっているバケモノがいる。
「急いで逃げるぞ」
肩下まで伸びたブロンズの髪を一つに束ねた男性は、鍛えぬかれた巨体で軽々とリップ夫人を抱き上げる。そのまま三人でエスカレーターを駆け上がるも、一階まで落ちたバケモノはすぐさま起き上がってくる。このままではすぐに追いつかれてしまうだろう。
そんなことを考えながら頂上まで登り切ると、リップ夫人を抱きかかえた男性は声を上げた。
「ニッピー! 今だ!」
「……おっ、りゃあああ!!」
もの凄い勢いで横をすり抜けていったのは、僕と同い歳くらいの赤毛の少年だった。後ろを振り返って見てみると、キャスター付きの重そうな冷蔵庫ごとバケモノに体当たりしている。
再び一階へと落ちていったバケモノは、鈍い衝撃音とともに不気味な雄叫びを上げる。それを確認すると、すぐさまこちらに引き返して来た少年。
「……こっちだ!」
近くにあったスタッフルームの扉を開くと、赤毛の少年は軽く頭をしゃくって中を示す。それに従って次々と室内へ逃げ込むと、パタリと閉じられた扉を見て安堵する。ほんの少し気を緩めただけでその場に崩れ落ちた僕は、バクバクと鼓動を響かせながら浅い呼吸を繰り返した。
──情けないことに、僕は自分一人では何一つできなかった。カタカタと震える身体で項垂れると、ポンと肩を叩かれてゆっくりと顔を上げる。
「頑張ったな。大丈夫か? 俺の名前はユリオプス。皆からはユリさんって呼ばれてる。よろしくな」
そう告げながら優しく微笑んだ男性は、何故だかとても眩しく見えた。
【チーム結成(七日目)】
「物資調達組は今から十分以内に広場集合な」
電車内に向けてひょっこりと顔を出したニッピーは、それだけ告げるとすぐにその場を後にした。その声に反応した十数人ほどの男女は、各自荷物を軽くまとめると次々に広場へと向かう。
三日前にモールから助け出された僕達は、ユリさん達が拠点にしているこの場所へと案内された。そこでは小さな子供も含めた三十人程の人達が集まり、互いに協力し合って避難生活を送っていた。
外はあんな悲惨な状況だというのに、どこか余裕のある笑みを浮かべる人々。時折談笑し合っている人達を眺めては、こんな光景を見るのはいつぶりだろうかと考える。そして何より驚いたのは、この隔離された安全な場所だった。
地下鉄を走行していた列車は線路から脱線してはいるものの、就寝場所としては充分な役割を果たしている。そして、崩落したトンネル内は完全に出入り口が塞がれ、外へと繋がる手段は地上に向けて伸びる階段脇にある扉一つだけだった。
つまり、崩落して塞がれた階段出入り口のすぐ横にある小さな扉さえ守れば、バケモノの脅威に晒される心配はないということだ。モール内で沢山のバケモノに囲まれ、狭い部屋の中で怯えていた日々を思えば、自由に動き回れるだけの広さがあるこの場所はかなり快適と言える。
そのお陰もあって、ここ数日はいくらか安心した気持ちで就寝できている。それはリップ夫妻も同じようで、だいぶ顔色が良くなってきている気がする。
「あの……、足の具合はどうですか?」
「だいぶ良くなってきたわ。……それよりカミーユ、本当に参加する気なの?」
「……はい」
「カミーユ。君はまだ十六だ、無理に行かなくても……」
そんなやり取りをリップ夫妻と交わしながら、手元のマントを羽織ると立ち上がる。
「……大丈夫です。包帯も見つけたら持ってきますね」
頼りなくも薄く微笑んでそう答えると、心配そうに眉を下げるリップ夫妻。
これまでの七日間。僕は常に誰かの助けによって命を繋いできた。そんな僕にできることなんてたかが知れているけど、動ける身体があるなら少しでも役に立ちたい。
なにより、僕と一つしか歳の変わらないニッピーはあんなにも頼もしい。そんな彼を見ていると、自分の弱さが情けなくなってくる。
「それじゃ、行ってきます」
小さく震える両手をサッと隠すと、リップ夫妻に向けて軽く微笑む。そんな僕に向けて、「気をつけるんだよ」と心配そうな表情を浮かべるリップ夫妻。それに応えるようにして小さく頷くと、クルリと背を向けた僕は電車を後にした。
そのまま広場まで行くと、そこには既に十数人の人だかりができていた。広場とは言っても、残骸だらけのちょっとしたスペースだ。僕が合流したのを確認すると、小さく頷いたユリさんは口を開いた。
「それじゃ、昨日話した通り今から五人一組で三チームに分かれて物資調達に行く。今日探すのは医薬品と食料だ。皆も知っている通り、この近辺にある飲食店にはもう食料がない。今日行く場所は、片道二十分以上離れた場所になる」
「「…………」」
「モールはダメなの? あそこなら五分もかからないわ」
その言葉を受けて、首を横に振ったユリさんは小さく息を吐いた。
「あそこはダメだ、ヤツらが多すぎる。二階にあった食料は既に三日前に持ち帰ってきたしな。見た限り、三階から上には行く手段もなかった」
「そんな……」
ガックリと項垂れる女性を見て、恐る恐る右手を上げた僕は口を開いた。
「あ、あの……。一階にある倉庫に、大量の缶詰ならあります、けど……」
尻すぼみに小さくなってゆく声ながらもそう伝えると、一気に皆からの視線を浴びて身体を縮こませる。
「ホントか!?」
誰かが発したその言葉を合図に、その場にいた誰もがどよめく。
とはいえ、ユリさんの言う通りモールはかなり危険な場所だ。やはり伝えるべきではなかったかと後悔する。
「──おい。大量ってどれくらいだ?」
ニッピーの発した言葉に、再び僕に集まる皆の視線。
「え、えっと……、ここにいる人数なら三週間は大丈夫かと……」
「三週間か……。おっさん、どう思う?」
ニッピーの言葉を受けて、顎に手を当てて思案するユリさん。
「…………カミーユ。それは一階のどの辺りだ?」
「ええ、と……正面から入って、右手奥です」
「そうか……やはり危険そうだな。──よし。今日のところは一旦偵察だけにしよう。レン、お前達のグループで偵察だけしてきてもらえるか? 危険そうならすぐに引き返すんだ。無理はするなよ」
「ああ、分かった」
そんな大人達のやり取りを静観する。
(あんな危険な場所に偵察に行くだなんて……)
チラリと様子を窺うと、名指しされたレンさんという二十代らしき男性の横で、不安げな表情を浮かべている一人の女性がいる。おそらくレンさんの恋人だろう。そんな二人の姿を見て、申し訳なさが込み上げてくる。
「カミーユ。貴重な情報をありがとな」
いつの間に来たのか、僕の肩をポンと軽く叩いたユリさん。
「でも……」
「なに、心配するな。レンだって無茶はしないさ」
僕の心中を察したのか、ユリさんはそう告げるとニッコリと微笑む。
「じゃあ皆、準備ができ次第出発してくれ。レン達はモールの偵察、スイ達はここを出て西側、俺達は東側だ。くれぐれも無茶はせず、日没までには帰ってくること」
ユリさんがそう告げると、各々解散していく人々。ありがたいことに、ユリさんのグループに参加させてもらうことになっていた僕は、そのまま黙ってユリさんの背中を追いかける。
「今日から物資調達に参加することになったカミーユだ。皆よろしく頼むな」
そう言って紹介されたのは、ニッピーを含む三人の男女だった。
「おう、よろしくな」
「イリスだ。よろしく」
「ツバキです。ハッキリ言って、私は戦えないので! 逃げる専門なので! あ、でも医薬品の知識なら多少あるので! ……って、もう知ってるよね、ははは」
ニッピーは言わずもがな。なんとも対照的な挨拶をしてきたのは、イリスと名乗った薄紫色の髪のインテリ風の若い男性と、ピンク色の髪を無造作に束ねたビン底眼鏡の白衣姿の女性。二人とも頭脳派らしい雰囲気はあるものの、不思議なことにその印象はまるで違って見える。
ツバキさんに初めて会ったのは、三日前にリップ夫人の怪我を見てもらった時だった。なんでも、以前は政府の研究施設で働いていたらしく、多少の医学の心得があるらしい。とはいえ、あの時は大した会話もしなかったので、こんなに個性的な人だとは気付かなかった。チラリと視線を向けると、ヘラヘラとした笑みを浮かべるツバキさん。少し……変わった人のようだ。
イリスさんはというと、なにやら真剣な表情でユリさんと話している。二人の会話に耳を傾けてみると、どうやら今から行く場所についての相談をしているようだ。やっぱり、その見た目通りにイリスさんはこのグループのブレーンらしい。
「おい、お前武器は持ってるのか?」
「……え?」
「だーかーらー。武器は持ってんのか? って聞いてんだよ」
両手を腰に当てて覗き込むようにして僕を見たニッピーは、その少し釣り上がった猫目を不機嫌そうに細める。無造作にツンツンと跳ね上がった髪の毛も相まって、その姿はまるで野良猫のようだ。
「い、いや……僕は武器なんて……」
「じゃ、これでも持っておけ」
そう言って彼が手渡してきたのは、使い古された小型のナイフだった。
「……えっ。で、でも……武器なんて使えないし」
「はぁ? なに言ってんだ。いざって時、何もないよりマシだろ。それともお前、素手で戦う気か? こんなヒョロっちぃ腕のくせに」
そんな風に言われたら何も言い返せない。大人しくナイフを受け取ると、満足気な笑みを浮かべるニッピー。
「──よし。そろそろ出発するぞ。皆準備はいいか?」
そう告げながら大きなリュックを背負ったユリさんは、僕に紐付きの麻袋を手渡すと再び口を開いた。
「ここから二十分ほど進んだところに、薬局とレストランが三軒あるそうだ。まずはそこを目指す。……それと皆分かっているとは思うが、外にはあのバケモノがいる。“アレ”に勝つのはまず不可能だ。正面から遭遇すれば全滅だってあり得る」
その言葉に、その場にいた誰もが息を呑む。
「だから極力戦闘は避けたい。“アレ”を見つけ次第、すぐに迂回する。各自周りには常に目を光らせておくように」
「ああ」
「分かった」
ニッピーとイリスさんがそう短く答える中、僕は緊張した面持ちでコクリと小さく頷いた。ツバキさんに至っては、よほど緊張しているのか何度も大きく首を縦に振っている。
そんな僕達を見て、一度優しく微笑んだユリさんは再び顔を引き締める。
「先頭は俺。次にイリス、ツバキ、カミーユ。殿はニッピーだ。皆必ず生きて戻るぞ。──さあ、出発だ」
力強くそう告げたユリさんの背中を追いかけるようにして、僕達は外へと続く階段へと向かった。
【辿り着いた先に】
「──! ……っ、」
時折小さな物音が聞こえてくるたびに、ビクリと飛び跳ねるようにして震える身体。外へ出てから、かれこれ十五分以上は経っただろうか──。
ずっと緊張状態が続いているせいか、予想以上に体力を消耗してしまっている。ほんの少しでも気を緩めてしまったら、瓦礫に足を取られて転んでしまいそうだ。そんなことを考えながら、すぐ目の前に見えるツバキさんの背中を追いかける。
見渡す限り瓦礫の山だらけのニゲラは、初日に飛び交っていた悲鳴がまるで嘘だったかのように静まり返っている。黙々と歩き続ける中、先ほどから考えないようにしていたある可能性が脳裏をかすめる。
(もしかしたら……ここにはもう、僕達以外に生きている人はいないのかもしれない……)
初日に見た生々しい光景を思い浮かべると、ゴクリと喉を鳴らして顔を歪める。これまでずっと考えないように避けてきたけど、きっと僕の家も両親も──。
そこまで考えると、穏やかで優しかった両親の姿を思い浮かべる。
ここから先、一体なんのために生きてゆくのかさえ分からない。帰る家も両親もいなくなったこの世界で、ただバケモノに怯えながら生きてゆく。たとえ運良く生き延びられたとしても、ここにあるのは大量の瓦礫の山ばかり。数日前まで思い描いていた未来は、もうここには何一つ存在しない。
流れ出る涙を袖口で拭き取ると、肩から引っ掛けた麻袋の紐をギュッと握りしめる。
『……、……』
「──!?」
微かに聞こえてきたその声に、ビクリと肩を揺らした僕は慌てて辺りを見回した。だけど、どこにもその姿らしきものは見当たらない。
「…………」
ただの聞き間違いだったんだろうか……? チラリと前方の様子を見てみると、皆黙々と歩いている。やっぱり僕の空耳だったようだ。そう思い直すと、崩れた建物の壁を横にして歩き続ける。
このまま進めば、おそらくあと五分ほどで目的地に着くはずだ。そんなことを考えながら、大きく崩れ落ちた壁の切れ目に差し掛かる。先程までは大きな壁に遮られて見えなかった向こう側──その物陰からゆっくりと姿を現したのは、体長三メートル近くあるバケモノ。その手に掴んだ男性を口元へ運ぶと、脇腹を喰いちぎって捕食してゆく。
『ぅ゛……、……っ』
すでに喰われてしまったのであろう手足はもぎ取られ、それでも意識のある男性は小さな呻き声を上げる。そのあまりの恐ろしさに、硬直した僕は身動き一つとることができなかった。
そんな僕の存在に気付いたのか、まるで助けを乞うかのような瞳で涙を流す男性。そんな男性を、無情にも喰い続けるバケモノ。こんな光景、見たくもないのに目を逸らすことすらできない。
「──!」
そんな僕の身体を後ろに引き寄せたのは、少し離れた後方を歩いていたニッピーだった。
「何やってんだ、死にたいのか!」
小声ながらもそう告げると、僕の身体を地面に伏せさせたニッピー。
「このまま屈んで合流するぞ」
顎をしゃくって前方を示すニッピーの視線を辿ると、この状況に全く気付いていない様子のユリさん達がいる。おそらく、三人がいる場所からはバケモノの姿は見えないのだろう。とはいえ、こんなに近くにいるのだから危険なことに変わりはない。一刻も早くこの事態を知らせる必要がある。
カタカタと震えながらも小さく頷くと、ニッピーの後を追いかけて慎重に前へ進む。
『ぅ、ぅ゛……』
(……っ、ごめんなさい……、ごめんなさい……っ)
遠くなってゆく男性の呻き声を聞きながら、涙を流して謝罪する。そんな中、着実に前方にいる三人に情報を伝達してゆくニッピー。
全員が屈んだ状態でこの場を離れると、少し距離をとったところでユリさんの元へと集まる。
「……ここまで来ればもう平気だろう。目的地まであともう少しだ。皆、大丈夫か?」
その言葉にそれぞれが頷いたのを確認すると、僕達に向けてしっかりと頷き返したユリさん。
「このまま少し左側に迂回しながら行く。陣形は崩さないように、慎重に進んで行くぞ。皆、一瞬たりとも気を抜くなよ」
「ああ」
「分かった」
「ははは、はいっ」
「っ……、はい」
先程見た光景を引きずりながらも、それでも黙って前に進むことしかできない。
もし、あの男性が僕の両親だったら──もし、ユリさん達だったら──。それでも僕は、こうして逃げることしかできないのだろうか? そんな無力な自分に自責の念が押し寄せる。
──僕は、あの人を見殺しにした。
今までだってそうだ。目の前で死んでいった人達は、全員僕が見殺しにしてきたんだ。そんな考えがぐるぐると頭の中を駆け巡り、視界に映る景色がグニャリと歪んでゆく。
「──おい。しっかりしろ」
「……っ、……」
ふらつく身体を後方から支えられると、ついに堪えきれなくなった涙が頬を伝った。僕の冷えた心とは対照的に、掴まれた肩から感じるニッピーの体温はやけに温かく感じる。
「……僕は……見殺しに、した……っ、」
俯きながらそう小さく呟くと、静かに口を開いたニッピー。
「……お前のせいじゃない。俺だって何もできなかった」
「…………っ、………ぅ」
「ほら、置いてかれるぞ。さっさと歩け」
そう言いながら僕の背中を軽く叩いたニッピー。その手はやっぱり、なんだかとても温かい気がした。それに促されるようにして、袖口で涙を拭いながら歩き始める。
それから十五分ほどが経った頃。三箇所全ての目的地を見て回った僕達は、目の前の光景を見て愕然とした。
「そんなぁ……」
崩れ落ちた建物を眺めながら小さく呟いたツバキさん。当初予定していた薬局もレストランも、全てが倒壊していて何の収穫も得られなかった。
予定していた時刻よりも十分以上かけて来たというのに、これではあんまりだ。皆の顔色からも、その落胆ぶりは明白だった。
「ユリさん、ちょっといいか」
そう言って地図を開いたイリスさんは、真剣な様子で口を開いた。
「ここから南下したところにスーパーがあるはずだ。ここなら医薬品も食料品もある。ただ……」
「更に五分以上歩くことになるってことだな」
「ああ。ここまでの移動速度を考えると、おそらく十分近くはかかると思う」
「…………」
そんな二人のやり取りを静かに眺める。
「……皆。聞いての通り、ここから南下したところにスーパーがある。だが、そこまで行くのにここから十分近くはかかることになる。行けそうか?」
「ああ、勿論」
「……が、頑張りますっ」
「カミーユはどうだ? しんどくはないか?」
疲れ切った様子の僕を気遣ってか、優しく微笑みかけてくれるユリさん。
「はい……、大丈夫です」
「よし。じゃあスーパーを目指して出発だ」
ユリさんの言葉を合図に、気持ち新たに再び陣形を取って歩き始めた僕達。果たして、その先に目的のスーパーは存在するのだろうか? そんな不安を誰もが抱えながら、ただ黙々と歩いてゆく。時折見かけるバケモノを迂回しながら、先頭にいるユリさんの指示に従って着実に目的地へと近づいてゆく。
拠点を出発した時にはまだ高かった太陽は、気付けばだいぶ傾き始めている。帰りのことを考えると、おそらくこのスーパーが最後のチャンスになるだろう。もしここもダメだったとしたら、あと何日食料はもつんだろうか……。そんなことを考えながら、祈るような気持ちで足を進める。
「…………あった」
「……?」
呟くようなツバキさんの声に促されるようにして、足元にあった視線を前方へと向けてみる。するとそこに見えたのは、煤まみれになりながらも健在しているスーパーだった。
途端に安堵の息が漏れる中、それでも気を緩めることなく慎重に足を進めてゆく。そのままスーパーの入り口前まで辿り着くと、それぞれが辺りを警戒するようにして集まる。
「……よし、中は大丈夫そうだな。入るぞ」
ガラス扉から中の様子を確認したユリさんは、そう告げるとリュックから取り出した巨大なハンマーを握りしめる。そんなユリさんを先頭に、周りを警戒しながらもゆっくりと店内へと足を踏み入れる。
床のあちこちに商品が散らばってはいるものの、何かが暴れたような形跡や血痕らしきものは見当たらない。どうやら、ここにはバケモノは侵入していないようだ。
「ここにはまだバケモノは来ていないみたいだな」
そう告げたイリスさんは、カチャリと眼鏡を正すと辺りを見回した。
「……ああ、そのようだな。じゃあ皆、手分けして食料と必要な薬を探してくれ。イリスはカミーユと、ニッピーはツバキと二人一組だ」
「りょーかい」
「ああ、分かった」
「それとイリス……すまないが、また少しいいか?」
「ああ、大丈夫だ」
「ありがとう。じゃあ皆、くれぐれも注意は怠るなよ」
それだけ告げると、一人店内の奥へと行ってしまったユリさん。一体どこへ行ったのだろうか……? そんなことを思いながらユリさんが消えていった方を眺めていると、ポンと肩を叩かれてビクリと飛び跳ねる。
「……驚かせてすまない。俺達は食料品を調達しに行こう」
「あ……、はい」
イリスさんの後を追いかけると、食料品コーナーから日持ちのする食料だけを取り分けてゆく。チラリとイリスさんの様子を窺うと、黙々とリュックに食料品を詰め込んでいる。
「あの……」
そんなイリスさんに向けて声を掛けると、静かにこちらを振り返ったイリスさん。
「ユリさんは……どこへ行ったんですか?」
先程から気になっていたことを尋ねると、そんな僕をただ黙って見つめるイリスさん。
聞いてはいけないことだったんだろうか……? そのいたたまれなさに、思わず視線を逸らした僕は俯いた。
「……娘さんを探しているんだそうだ」
「…………え?」
俯いていた顔を上げると、再び食料品を詰め込み始めたイリスさんの横顔を見つめる。
「……八歳だそうだ。“アレ”が来た時、仕事中だったから娘さんとは一緒にいなかったらしい」
「っ……そう、……なんですね……」
当然ながら、皆にだって大切な家族や友人や恋人だっているはずだ。そしてきっと、誰もがその安否を心配している。自分のことだけで精一杯だった僕は、そんなことですら考えが及ばなかった。
ユリさんのことを思うと、どうか娘さんと無事に再会できますようにと願わずにはいられない。
「ここの棚はこれくらいだな。そっちの棚を見てきてくれるか?」
「……あ、はい」
そう答えると、通路を挟んだ向こう側の棚へと向かって歩き始める。そのまま警戒することもなく通路へと踏み出した──次の瞬間。僕の喉元を捉えたのは、キラリと光る鋭い刃だった。
「────!」
バクバクと高鳴る鼓動をそのままに、突きつけられた刃の先をゆっくりと視界の端で辿ってゆく。握られた柄の部分を確認するや否や、それが人間の手だと理解した僕は口を開いた。
「……こっ、殺さないで下さい!」
そんな僕を静かな表情で見つめていたのは、恐ろしいほどに綺麗な顔をした銀髪の男性だった。チラリとすぐ背後に視線を移してみると、その男性に守られるようにして背後に隠れている人影が見える。
(一体、この人達は誰なんだ……っ、?)
両手を上げて敵意のないことを示すと、男性の後ろからチラリと顔を覗かせた人物。
サラサラとしたプラチナブロンドの髪で縁取られたその顔は、怯えた表情を浮かべながらも、銀髪の男性に負けず劣らずとても綺麗な顔をした女の子だった。
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