← 作品ページへ戻る

偽典演舞

ナン・ルーナック

21,280 字

メタフィクション・二次創作

"自らの存在すらも伏線となる、極上のメタフィクション。"

← 右から左へスクロール

第一章 正典

 カイは十五才になっていた。

 前の生が終わってから、どれだけの時が流れたのかは分からない。あの闇の中で漂っていた時間は、数えようがなかった。ただ、この世界の暦を確かめてみると、あの夜から、ずいぶん長い時が過ぎていた。

 頭の中の本棚は、変わらずそこにあった。

 見上げるほど高い本棚。名だたるカイストたちの名が背表紙に並び、この世界では起こりえなかった物語が詰まっている。頁の余白には、どこか違う世界の誰かの、細かな書き込み。

 そして、その本棚の上に、ひと際の荘厳さを放つ棚が、一段だけあった。

 能力に目覚めた時から、その棚はそこにあった。けれど、そこに並ぶ本の本文は、水に落としたインクのように滲んでいて、一行も読めなかった。読めたのは、余白だけだった。

 余白には、他の棚と同じように、誰かの書き込みがあった。ただ一つ違うのは、その書き込みのすべてに、返信のようなものが付いていたことだ。

 "作者"からの返信、と。

 カイはそれを、ざっと眺める程度にしか読んでいなかった。感想と、返信。没になった通り名の話。崩れる世界から逃げ出す小舟の外側に、自力でへばりついて渡ってきた化け物の話。本文の読めない本の余白など、その程度でいい。そう思っていた。

 その滲みが今は、晴れていた。

 カイは、上の棚から一冊を抜き出した。頁を開く。文字が、読める。一行目から、最後の一行まで。

 理由は分からなかった。分からなくても、読めるのなら、それでよかった。

 カイは読んだ。

 読んで、読んで、読み続けた。

 読み進めるうちに、カイは気づいた。ここに書かれていることは、全部、この世界で本当に起きたことだ。検証士たちが語り継ぐ出来事も、昔話として耳にしてきた戦いも、照らし合わせてみれば、どれ一つ食い違っていない。この棚にある本に書かれたことは、"この世界"では、そのとおりに起きてきたのだ。

 試しに、上の棚の一冊を、通りすがりの誰かに降ろそうとしてみた。何も起きなかった。この棚の本は、読むことしかできない。

 なぜだ。

 下の棚の本は違う。降ろせば一時はそのとおりに動くが、最後の一行を過ぎれば、相手は元に戻る。芯に反していれば、途中で打ち破られて、棚から消える。

 思い返せば、自分が降ろしてきた物語も、そうだった。フィロスは雨除けの善人を演じさせられたが、途中で物語を打ち破った。裏鋭も、キルマも、物語が終われば元の自分に戻った。検証士たちの間では、名だたるカイストたちの珍事として噂になった。起きた形跡は、確かに残っている。それでも、あの豪華な棚の本に書かれた人物の芯は、一つも書き換わっていない。他の棚の本では、そこに書かれている出来事自体が起きても、最後には現実に負ける。

 あの時に降ろした二冊も、同じだった。まるで物語の代行者の前で、剥がされるように消えた。あの男は、"あの作者"が望む結末を、この世界で運んでくる者だ。

 どうして"あの作者"の物語だけは、この世界にきちんと反映されているんだ。

 カイはまた何度も読み返した。

 他の棚の作品と比べて、異様に完成度が高い。設定が揺るがない。人物が芯から外れない。伏せるべきところは伏せ、広げた風呂敷はきちんと畳んである。豪華な棚の、どれを取っても、途中で途切れた物語が一つもない。

 つまりは、完璧な物語であれば、最後まで反映されるのではないか。

 アブクドエという名が出てくる本があった。題は『新しいラブソングを』。

 カイは最後まで読んだ。

 その昔、大きな戦争があったらしい。カイがこの世界に転生した頃には、その話はもう昔話になりかけていた。それが、この物語のことだったのか。

 時系列を辿る。その本の最後の頁は、終幕戦争の終わりだ。そして今、自分がいるのは、その後の時代になる。

 殺人鬼タロウ。後のアブクドエ。我力もないのに法則を歪め、自分の意思は本当に自分の意思なのかと問い続け、世界を操る何者かに反逆しようとした男。最後には、反逆する理由そのものを手放して、消えていった。

 たしかにこれじゃあ、二番煎じと言われても仕方ないな。

 いいよ……今度は、もっと上手にやってみせる。

 それから、コー・オウジが登場する本を、全部読んだ。

 映画を観て、思いつきで探偵を始めた男。皺を増やしながら、私が死ぬ前に解決します、と笑った男。七年前に老衰で死んだはずが、五才児の姿で戦場にいた男。

 どの本も、最後はハッピーエンドだった。過程はどうあれ、能力が完成してからのコー・オウジが関わった物語は、一つ残らず。

 一つ、引っかかる話があった。三百億年前、力が急成長した頃の『幸運王』を語る話だ。一国を丸ごと幸福にした。そして国民は、何も食べず、身動きすることも忘れて死んでいった。

「幸福というのは実に、簡単なことだったんですねえ」

 本の中の幸運王は皮肉気味に、そう言っていた。

「……君にも不完全な時期があったみたいだね」

 カイは、頁に向かって呟いた。

 けれど、それも昔の話だ。能力が覚醒した後のコー・オウジが相手では、この世界の中でどうこうしても、勝てない。

 世界ごと壊してしまえばどうだろう。

 読めるようになった本文の中に、思い当たる箇所があった。『裏の目』ガリデュエ、というAクラスカイスト。終幕戦争の終わりに、自称『世界の黒幕』の一人に数えられたこの男は、厳重に封印された『原理の箱』と呼ばれるものを預かっているらしい。もしかすると、"この世界"を根源的にぶち壊せる代物、かもしれない。

 そんな箱があるなら、コー・オウジに構う必要などないのでは。一度は本気で考えた。だが、物語の代行者を気取るあの男を負かさないうちは、僕の気が済まない。世界を壊すかどうかは、その後また考えればいい。

 カイは、自分の本棚に目を戻した。

 もう一度、本棚が現れた直後のことを考える。これまで降ろしてきたのは、物語の一部分だった。裏鋭に降ろした、急所を守る話も、キルマに降ろした、新しい契約の話も。エピソードは、物語の途中で切れている。だから何度通しても、最後の一行を過ぎれば元に戻る。

 物語を、途中で終わらせてはいけない。最後まで通さなければならない。

 誰が、何が、完璧だと判定するのかは分からない。考えても仕方がない。分かっているのは一つだけ。途中で終わらない物語は、完璧な物語、いわば"正典"だ。

 ならば。

 違う世界に干渉して、物語を増やすことはできないだろうか。いうなれば、"偽典"を。そして、ここにある正典に組み込まれるような、完璧な物語を。

 どうやって。

 違う世界は、カイには見えない。触れることもできない。届くのは、本と、余白の書き込みだけだ。

 カイは、正典を頭から読み直した。手がかりがあるとすれば、本の中にしかない。

 ふと、目に留まる頁。

 『ダーク・ウィスパー』サレニア。人の会話にこっそり割り込み、一言だけ囁いて、すぐに逃げる。それだけの、無害なはずの精霊士だった。だが、聞き慣れさせたところで、思考を誘導する。一度は、Aクラスを自決へ運ぶ一言の、片棒まで担いでみせた。

 完全な干渉はできない。違う世界を書き換えることなど、できるはずもない。

 ただ、なんとなくの無意識に、一言だけ働きかけることなら。

 もしかしたら、できるのではないか。

 カイは、一冊の偽典を取り出し、その余白に指を置いた。その向こうにいるはずの誰かへ、一言だけ囁いた。

 何も起きなかった。

 何日も、何も起きなかった。

 だが、その間も、カイは偽典の棚を覗き続けていた。いつしか、余白の書き込みに、奇妙な変化が起き始めていた。ハッピーエンドを無邪気に喜ぶ声は減り、代わりに、またこれか、とか、安易すぎる、といった、結末への不満や、物足りなさを訴える声が増えていた。物語の終わり方が、以前よりも議論されるようになっていた。

 そして、ある朝。偽典の棚に、一冊の本が増えていた。

 カイはその背表紙を、しばらく黙って見つめていた。

 次に頭の中の本棚を覗いた時、そこはもう、本棚ではなかった。

 見渡す限りに書架が並ぶ、図書館になっていた。

 あの荘厳な棚は、その中心にあった。周りを、無数の棚が取り巻いている。

── 第3章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

作品ページへ戻る

コメント

まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。

しおりを挟みました