被験者:坂井 下
「どうも、都市と言います」
鳥の巣のような髪に丸眼鏡。差し出された名刺には、名前と実践都市伝説研究家という肩書だけが記されていた。住所も電話番号も何もない。
実践都市伝説研究家。何をしている人間なのか、さっぱり分からない。
「それで、復讐のご相談でしたね」
「はい」
「電話でもお伝えした通り、復讐代行はやってません。ただ、お話を聞いたうえでなら、何かお力になれるかもしれません」
「……はい。それで来ました」
「では、何があったのか聞かせてもらえますか?」
少し迷ったが、ここまで来て今さら隠すことでもない。
身に覚えのない経費精算で懲戒解雇を言い渡され、争った末に自己都合退職という形で会社を辞めたこと。その後も自分が横領したという噂を流され、再就職にも影響が出たこと。娘の学校や妻の職場にまで噂が広がり、とうとう家を売って引っ越すことになったこと。
男は途中で何度かメモを取りながら、最後まで黙って聞いていた。
「なるほど」
話を聞き終えると、男はメモに何かを書き足した。
「それで、あなたはその営業部長をどうしたいんです?」
「どう、って……」
「復讐と言ってもいろいろありますからね」
男はペンを置いた。
「殺してほしい、怪我をさせたい、会社を辞めさせたい、社会的な信用を失わせたい。あなたは?」
「殺すとか、そこまでは……」
「では、どうなれば納得できます?」
すぐには答えられなかった。謝罪。違う。金。それも違う。弁護士に頼めば、時間はかかっても、その二つは手に入るかもしれない。
頭に浮かんだのは、何もなくなった美咲の部屋だった。
『このおうちがいい』
泣きながら、そう言っていた。
「……俺たちは引っ越しました。娘は学校を変わった。妻も新しい職場で一からやり直してる。俺はまだ次の仕事も決まってない。でも、あいつは何も変わらない」
営業部長の西徳は、金には細かい男だった。飲みに行っても一円単位まで割り勘。部下に缶コーヒー一本奢るのも渋るくせに、自分の家の話だけはよくしていた。
駅から近い。庭が広い。リビングは何畳ある。去年はウッドデッキを作った。聞いてもいないのに、写真まで見せられたこともある。
「あいつ、自分の家が自慢なんですよ」
「家?」
「ええ。金にはあんなにケチなくせに、家にはずいぶん金かけてて」
俺たちは家を失った。美咲があれだけ泣いても、もう戻れない。
「……あいつも、あの家にいられなくなればいい。俺たちみたいに、今までの生活ができなくなればいい」
男は何も言わなかった。机の上のメモに何かを書き足してから、ふいに顔を上げた。
「ひとりかくれんぼって、ご存じです?」
「……は?」
「ひとりかくれんぼです」
「ああ……なんか聞いたことありますよ。ぬいぐるみ使うやつでしょ?」
「そうです」
「それが?」
男はペンを指先で転がした。
「やってみませんか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……俺が?」
「はい」
「ひとりかくれんぼを?」
「はい」
思わず笑ってしまった。
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。俺、そんなことするためにここまで来たんじゃないですよ。そんなの本当に何か起きるわけないでしょう」
「そう思います?」
「思いますよ」
何を真面目に話しているんだ。
「やっぱりここも外れか……」
あの夜から、検索で見つけたところには何件も連絡した。最初に金を振り込めと言ってくるところ。話を聞きに行けば、いつの間にか祈祷だの除霊だのという話になり、高そうな壺まで勧めてくるところ。こちらの個人情報ばかり聞きたがるところもあった。
「でも、気は晴れるかもしれませんよ?」
「え?」
「嫌いな相手の家で、呪いの儀式をする。何も起きなかったとしても、それなりに気分はいいんじゃないですか?」
「相手の家?」
「当然でしょう。実行するのは、西徳さんの家です」
笑いが止まった。
「……どうやってやるんですか?」
「そこまでの手配はこちらでなんとかできます」
「でも、不法侵入ですよね?」
「ばれなければ問題になりませんよ?」
「犯罪は犯罪でしょう」
「まあ、そうですね」
男は気にした様子もなく、ペンを机に置いた。
「ですから、やるかどうかはあなたが決めてください。何も起きないと思ってるんでしょう?」
「そりゃ……」
「だったら、ただの嫌がらせです。少しくらい、気は晴れるかもしれませんよ?」
すぐには答えられなかった。
「……考えさせてください」
「もちろん。やる気になったら、最初に連絡をもらった番号へ電話してください」
*
新しく借りたアパートに帰ると、美咲がリビングのテーブルで何か書いていた。ランドセルは椅子の横に置かれ、テーブルには便箋と色鉛筆が広がっている。
「ただいま」
「おかえり」
美咲は顔だけ上げて、また手元に戻った。
「学校どうだった? 友達できたか?」
「んー……」
鉛筆を止めて少し考えたあと、曖昧に首を傾げる。
「何書いてるんだ?」
「手紙」
「誰に?」
「ゆいちゃんと、みーちゃん」
「そっか」
美咲は消しゴムで何かを消すと、また書き始めた。
しばらくして玄関が開いた。
「ただいま」
妻が帰ってきた。買い物袋をキッチンに置き、鞄を椅子に掛ける。
「おかえり。どうだった?」
「疲れた……まだ全然慣れない。覚えること多くて。前のところとやり方も違うし」
「そっか」
「まあ、早く覚えないとね」
買ってきたものを冷蔵庫にしまい終える頃、美咲が「できた」と小さく言った。書き終えた便箋を丁寧に二つ折りにしている。
「パパ、封筒どこ?」
「そこの引き出しになかったか?」
美咲が椅子を降り、テレビ台の引き出しを開ける。
「あった」
封筒を二枚取り出して、またテーブルへ戻ってきた。妻はその横で、明日のパートで使うエプロンを鞄から取り出している。
美咲は前の友達に手紙を書いている。妻は新しい職場で一から仕事を覚えている。俺はまだ次の仕事すら決まっていない。
その夜、二人が寝るまで待った。テレビを消すと、部屋が急に静かになった。スマホを手に取り、最初に問い合わせた番号を開く。発信ボタンの上で一度指が止まった。
寝室の方を見る。そのままボタンを押した。
『はい』
「坂井です」
『はい。どうされました?』
「……昼間の話ですけど」
電話の向こうは何も言わなかった。
「やります」
*
数日後、もう一度あの部屋を訪ねた。
「十月十二日から二泊三日。西徳さん夫妻は旅行に出ます」
男はそう言って、紙を一枚差し出した。
「十二日の夜から十四日の朝までは、家には誰もいません。それから、なぜか一階西側、リビングのサッシの鍵がかかっていません」
「……え?」
「そこから入れます」
「なんでそんなこと分かるんですか?」
「そこ、重要ですか?」
男は何でもないことのようにこちらを見ている。
「……いえ」
本当なら、どうでもいい。
「当日までに、俺がやっておくことは何かありますか?」
「ひとりかくれんぼの手順は覚えておいてください」
そう言って、今度は手順の書かれた紙を差し出した。
「ネット上では細かい手順にかなりばらつきがあります。今回は、この手順でやってください」
*
十月十三日、午前二時半。
西徳の家に着くと、言われた通り西側へ回った。そこにはリビングの大きなサッシがあった。警備会社のステッカーも見当たらない。サッシに手をかけると、何の抵抗もなく開いた。
「……マジかよ」
持ってきた小型の懐中電灯をつけ、足元を照らす。さすがに緊張した。やっていることは不法侵入だ。見つかれば、今度こそ本当に警察の世話になる。
一度だけ後ろを振り返り、そのまま中へ入った。
広い。まず、それが腹立たしかった。
西徳が会社で自慢していた通りだった。大きなテレビがあり、庭の向こうには何度も写真を見せられたウッドデッキまである。あいつは今も、この家に帰ってくる。そう思っただけで、腹の底が熱くなった。
サッシを閉め、鞄を手に廊下へ進む。バスルームはタイル張りで、大人が二人ゆったり入れそうなバスタブがある。よくあるユニットバスとはまるで違う。
「……風呂までこれかよ」
鞄から、準備してきたぬいぐるみを取り出した。中身はすでに抜いてある。代わりに米と自分の爪を詰め、赤い糸で縫い合わせ、余った糸を巻きつけてある。ほかに必要なのは、包丁と塩水。
スマホを見る。午前二時四十二分。まだ少し時間がある。
そういえば、隠れる場所を決めていなかった。
懐中電灯を手に家の中を見て回る。廊下だけでも広い。洗面所はうちのアパートの風呂場より広そうだったし、寝室には大きなベッド。その奥には、服を掛けたまま人が隠れられそうなウォークインクローゼットまである。
「……なんなんだよ、この家」
隠れるなら、ここでいい。
リビングへ戻る。ソファも、棚に並んだ酒も、いちいち金がかかっている。
「横領御殿かよ……ふざけやがって」
スマホを見る。午前二時五十八分。そろそろだ。
バスルームへ戻り、ぬいぐるみを置く。次は名前をつける。何でもいいらしい。少し考えて、西徳の顔が浮かんだ。どうせこのあと、こいつに包丁を刺すんだ。
「……西徳にするか」
馬鹿馬鹿しい。そう思いながら時間を待つ。
午前三時。
「はじめは坂井が鬼です」
三回繰り返し、そのままぬいぐるみを浴槽へ沈める。
リビングへ戻り、懐中電灯を消してテレビをつけた。画面を砂嵐にして目を閉じる。
一、二、三――。
十まで数えた。
目を開け、用意していた包丁を手に取る。テレビの明かりを背に暗い廊下を進み、バスルームへ戻る。浴槽の中に、ぬいぐるみがいる。
「西徳、見つけた」
包丁を突き刺した。
「次は西徳が鬼」
塩水を持って、さっき見つけたウォークインクローゼットへ向かう。扉を閉め、服の間に身を潜めた。暗闇の中で息を潜める。遠くから、テレビの砂嵐だけが聞こえていた。
一分。二分。
何も起きない。当たり前だ。
三十過ぎた男が他人の家に忍び込んで、ぬいぐるみに元上司の名前をつけて包丁を刺し、今度はそいつのクローゼットに本気で隠れている。何やってんだ、俺。
それでも、西徳の名前を呼んで包丁を突き立てた瞬間だけは、少し気分がよかった。
五分ほど待った。何も起きない。
「……もういいだろ」
立ち上がり、クローゼットの扉に手をかける。
「あ、忘れるとこだった」
手に持っていた塩水を、指示通り口に含む。そのまま扉を開け、クローゼットから出た。
リビングへ戻ると、しんと静まり返っていた。明かりのない広いリビングは、さっきまでとは違って見えた。懐中電灯の光が届かない場所は真っ暗で、無人の豪邸というのは、それだけで少し気味が悪い。
何を怖がってるんだ。結局、何も起きなかったじゃないか。
懐中電灯を足元へ向け、塩水を口に含んだままサッシから外へ出た。サッシを閉めてから、ようやく口の中の塩水を吐き出す。
夜風に当たりながら歩いていると、不思議と気分が軽かった。
「……俺、なんであんな奴にこだわってたんだろ」
西徳がどうなろうと、俺たちの家が戻ってくるわけじゃない。美咲が前の学校に戻れるわけでもない。だったら、いつまでもあいつのことばかり考えていても仕方がない。
「明日から、ちゃんと職探し頑張るか」
そのまま一度も振り返らず、西徳の家をあとにした。
*
十月十四日の夕方、西徳夫妻は旅行から帰ってきた。
西徳は玄関に入るなり荷物を置き、そのままリビングのソファに腰を下ろした。妻はキャリーケースを開け、洗濯物や土産物を片づけ始めていた。
「疲れた……」
「荷物くらい片づけてよ」
「あとでやるよ」
「どうせやらないでしょ」
西徳は聞こえないふりをしてテレビをつけた。
その夜、西徳は大きな物音で目を覚ました。
ゴトン。
時計を見る。午前二時を少し回ったところだった。隣では妻が眠っている。何か落ちたのか。耳を澄ませていると、今度はゴロ……ゴロ……と、何かが床を転がる音がした。
「……なんだ?」
西徳はベッドを出て、廊下の明かりをつけた。床には何も落ちていない。音のした方へ進み、リビングまで見て回ったが、やはり何もなかった。
「なんなんだよ……」
寝ぼけていたのか。そう思って寝室へ戻ろうとしたとき、背後からザーッという音が聞こえた。
振り返る。
テレビに砂嵐が映っていた。
「……は?」
西徳はリモコンを手に取り、電源を切った。真っ暗になった画面に、自分の姿が映る。
「故障か?」
気味は悪いが、それだけのことだ。そう自分に言い聞かせて寝室へ戻った。
しばらくすると、ガリ、ガリと、何か硬いもので壁を引っ掻くような音が聞こえてきた。
「……ネズミか?」
ガリ、ガリ。
また鳴った。今度はさっきより近い。西徳が上半身を起こすと、音はぴたりと止まった。
しばらく耳を澄ませていたが、それ以上は何も聞こえない。西徳は布団をかぶり直した。
どれくらい経ったのか。また、遠くからテレビの砂嵐が聞こえてきた。
「……ふざけんなよ」
西徳が起き上がると、その声で妻も目を覚ました。
「……なに?」
「テレビ。勝手につくんだよ」
「なにそれ……」
「知らねえよ。さっきも――」
べしゃ。
廊下から、湿った音がした。
西徳が口を閉じる。
べしゃ。
まただ。水を吸った何かを床に落としたような音。
「……ねえ」
「静かにしろ」
べしゃ、べしゃ。
少しずつ近づいてくる。妻も起き上がった。二人で扉を見つめる。
べしゃ、べしゃ。
すぐ外まで来た。
そして、止まった。
遠くではテレビの砂嵐が流れ続けている。
「……誰?」
妻が小さな声で言った。
カチャ。
二人の目の前で、ドアノブが動いた。ゆっくりと下がりきり、扉がわずかに開く。
真っ暗な廊下。
誰もいない。
それでも扉は、ギィ……と軋みながら開いていく。妻が西徳の腕を掴んだ。
「……なに、これ」
「俺が知るかよ……」
二人とも動けなかった。遠くでは、テレビの砂嵐が流れ続けていた。
*
怪異は、その夜だけでは終わらなかった。
二日目、西徳は家中の明かりをつけたまま寝た。玄関も窓も二度確認し、テレビのコンセントも抜いた。
それでも午前二時を過ぎると、砂嵐の音が聞こえてきた。リビングへ行っても、テレビは消えている。コンセントも抜けたまま。それなのに、ザーッという音だけがどこからともなく聞こえていた。
三日目には、妻が家のあちこちに塩を盛った。
「こんなので何とかなるのかよ」
「じゃあ、あなた何とかしてよ」
言い返せなかった。その夜も、べしゃ、べしゃ、と濡れた足音が廊下を歩いた。朝になると、寝室の前に置いてあった盛り塩だけが、水を吸ったように崩れていた。
四日目、西徳は防犯カメラを取りつけた。玄関、リビング、廊下。それにバスルームの前。
その夜、二人は寝室から出なかった。
べしゃ。
べしゃ。
音がするたび、西徳はスマホの画面を切り替えた。何も映っていない。廊下にも、リビングにも、誰もいない。
べしゃ。
べしゃ。
それでも、音は近づいてくる。
寝室の前で止まった。
妻が西徳の腕を掴んだ。
「……もう嫌」
*
五日目、妻は荷物をまとめた。
「どこ行くんだよ」
「実家」
「待てよ」
「もう無理。私、あの音聞きながら寝られない」
「だったらホテルでも――」
「あなたも来ればいいでしょ」
「なんで俺が出ていかなきゃならないんだよ。俺の家だぞ」
妻はしばらく西徳を見ていた。
「……そう」
それだけ言って、キャリーケースを引いて玄関を出ていった。
その夜から、西徳は一人になった。
六日目、西徳はネットで見つけた祈祷師を呼んだ。家の中を一通り見て回った男は、難しい顔で腕を組んだ。
「かなり強いものが入っていますね」
「取れるんですか?」
「できます。ただ、本格的にやるとなると……」
提示された金額を見て、西徳は顔をしかめた。
「百万?」
「このままにしておく方が危険ですよ」
普段なら、こんなものに百万円も払うはずがなかった。
「……分かった。やってくれ」
祈祷師は家中に札を貼り、塩を撒き、長い時間をかけて何やら唱えた。
「これでもう大丈夫です」
そう言って帰っていった。
その夜、午前二時を過ぎた頃。
ザーッ。
西徳は目を開けた。
聞き間違えるはずがなかった。ここ数日、毎晩聞いている砂嵐の音だ。
「……嘘だろ」
べしゃ。
べしゃ。
音が近づいてくる。
西徳は布団から飛び出した。スマホと財布だけを掴み、玄関から逃げ出した。
その夜は駅前のホテルに泊まった。
何も起きなかった。テレビは勝手につかなかった。壁を引っ掻く音もしない。濡れた足音も聞こえない。
久しぶりに、朝まで眠った。
*
それから西徳はホテルから会社へ通うようになった。妻は実家から戻らない。着替えが必要になれば昼間に家へ戻り、必要なものだけ持って出る。日が暮れる前にはホテルへ戻った。
ホテルでは何も起きなかった。それでも、日に日に西徳は荒れていった。
「西徳部長、例の資料なんですけど」
「そこ置いとけ」
「今日中にお願いします」
「分かってるよ!」
西徳が机を叩いた。フロア中の視線が集まる。
「……すみません」
部下が離れていく。西徳は舌打ちして、ネクタイを緩めた。
しばらくして、別の部下が声をかけた。
「部長」
「なんだよ」
「今日の会議、三時からですけど……」
「知ってるよ!」
「いえ、もう三時十分です」
西徳が時計を見る。
「……だったら早く言えよ!」
「さっきもお伝えしました」
「聞いてねえよ!」
椅子を蹴るように立ち上がった。
「俺が悪いって言いたいのか!?」
「そんなこと言ってません」
「じゃあなんだよ!」
フロアが静まり返った。誰も西徳を見ようとしなかった。
その日の午後、西徳は上司に呼ばれた。しばらく出社しないよう言い渡された。
*
それから、しばらく経った。
俺の方は相変わらず職探しを続けていた。条件を選ばなければ仕事はある。けれど、前と同じような営業職となると、なかなかいいところが見つからない。
そんなとき、以前も連絡をくれた知人から電話がかかってきた。
『仕事、見つかったか?』
「いや。なかなかいいのがなくてな」
『だったら、うち来るか? ちょうど一人欲しいって話が出てるんだよ』
「ありがたいけど……お前のとこ、俺の前の会社と繋がりあるだろ」
『まあな。でも、お前のこと言いふらしてた西徳、もう辞めたぞ』
「……え?」
『最初はしばらく休めって言われたらしいんだけど、そのまま辞めたみたいだ』
「何があったんだよ」
『なんか精神的に参ってたらしいぞ。会社でも相当荒れてたって』
「……」
『まあ、俺も人づてに聞いただけだから、どこまで本当か知らんけど。それより仕事、どうする?』
「ああ……頼めるか?」
『おう。じゃあ、話通してみるよ』
「悪いな。助かる」
『決まってから礼言えって』
「それもそうだな」
電話が切れた。しばらくスマホを見つめる。
西徳が、精神的に参っていた。
その言葉が妙に引っかかった。頭に浮かんだのは、あの夜だった。午前三時。西徳の家。浴槽に沈めたぬいぐるみ。西徳と名づけて、包丁を突き刺した。
「……まさかな」
そんなわけがない。あんなもので人間がおかしくなるなら、世の中はもっと大変なことになっている。
偶然だ。
そう思うことにした。
「ただいまー!」
玄関が開いた。
「おかえり」
美咲がランドセルを置くなり、自分の部屋へ走っていく。しばらくして私服に着替えて戻ってきたと思ったら、そのまま玄関へ向かった。
「パパ、マヤちゃんたちと遊んでくるねー!」
「ああ。気をつけろよ」
「はーい!」
勢いよく飛び出していく。
引っ越してきたばかりの頃は、学校から帰ってもほとんど外へ出なかった。最近はマヤちゃんだのユナちゃんだの、俺の知らない名前が毎日のように増えている。
玄関が閉まって間もなく、また鍵の開く音がした。
「ただいま」
「おかえり」
今度は妻だった。
「美咲は?」
「今出てった。マヤちゃんたちと遊ぶって」
「ああ、また?」
妻が笑いながら鞄を置く。
「そっちは仕事どうだった?」
「今日は楽だったかな。最初はどうなるかと思ったけど、もう慣れた」
「そっか」
「あなたは?」
「ああ。さっき電話があってさ」
「仕事?」
「前に連絡くれた奴。うちに来ないかって」
「いいじゃない」
「まだ決まったわけじゃないけどな」
「でも、よかったじゃない」
「ああ」
引っ越してきた頃は、この先どうなるのかと思っていた。なくしたものが戻ってきたわけじゃない。それでも、俺たちの生活は少しずつ前に進み始めている。
それでいい。
ふと、財布の中に入れっぱなしだった名刺を思い出した。取り出して、しばらく眺める。
都市 伝。実践都市伝説研究家。書かれているのは、それだけだ。
もう、必要ない。
二つに折って、ゴミ箱へ放り込んだ。
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【付記】
実践都市伝説研究記録 No.052
■名称
ひとりかくれんぼ
■分類
儀式型/継続型/非致死性
■概要
米、爪、赤い糸などを用いて作成した人形を対象に行う、かくれんぼ形式の儀式。
開始後、実行者が人形を発見して刃物を刺し、鬼役を交代したのち身を隠す。終了には所定の手順を必要とし、これを行わない場合、儀式は継続状態に置かれるとされる。
時期、媒体により手順には差異が見られる。儀式中断時の影響についてはサンプル数が少なく、追加検証を要する。
■評価
危険度 ★★★☆☆
再現性 ★★★★☆
制御性 ★★☆☆☆
実用性 ★★★☆☆
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。