第21話 謀議する人間 二
ネロの執務室は息詰まるような沈黙に満たされていた。俺、ネロ、ジャオジュン、アプレイウスの視線がアグリッピナに注がれている。その視線の圧力を気に掛ける風もなく彼女は微笑む。
「従者もつけずに貴方の部屋に来るよう言われて私はその通りにしました。だというのにこの沈黙は一体何でしょう。私に用があったのではありませんか?」
俺は口を開かない。当然ながらジャオジュンもアプレイウスも同じだ。口火を切るのは誰か、それに相応しい人物は一人しかいない。
「太后、いえ、母上」ようやく話し始めたネロの言葉には万感の思いが詰まっていた。母親と思い出が頭によぎったのだろうか。「どうか、真実をお話しいただきたい」
「いいですよ、神君アウグストゥスに誓って」
「母上はアフリカヌス兄上の死に、どのような形で関わっておられたのですか?」
アグリッピナは眉を顰める。
「昨日話したではありませんか、私は彼の死に何の責任もありません」
「であるならば何故、ドルッシラ殿とハヤシ中佐の命を奪うよう兵士に命令を下したのですか?」
「そんなことがありましたかね。もう忘れました」
「母上!」
ネロは机に掌を打ち付けた。
「いい機会だから教えておきますが、権力者は自分の都合の良いように物事を思い出したり忘れたりできなければなりません」
アグリッピナはにっこりと笑った。
「私は真実を欲しています」ネロは悲痛な面持ちで母親を見つめる。「そのためには如何なる手段も用いるつもりです。私の言葉の意味が分からない母上ではないでしょう」
「自白魔術?」アグリッピナは乾いた笑い声をあげる。「貴方が? この私に? ああ、おかしい! 実の母親ですよ? 持て余している皇帝の権限を振るって? 致死の魔術を掛けると? 貴方にその覚悟があるとは思えませんけど」
アグリッピナはネロの決意を笑い飛ばした。
「身の程を知りなさい、お前は私の言いなりになっていればいいの」
ネロは顔面を凍り付かせた。
このまま彼女に押し切られては俺の目論見は瓦解する。俺も覚悟を決める。ネロに最後の一線を越えさせなければ。
「身分の高低を弁えぬ言動であることは理解したうえで言わせていただきますが」俺はハマルティアを引き抜き、アグリッピナに突き付けた。「身の程を知らないのは貴様の方だ。ネロ陛下はルームの皇帝、即ち世界の支配者で在られる。かような御方にそのような不遜な物言いは陛下が許してもこの俺が許さない」
「未開の蛮族出身の佐官が随分とふざけた口を利くものです。私が誰かその足りない頭で考えたらどうです」
「貴様が何者であろうと、陛下と比べれば取るに足らぬ。そんなことも知らずにルームの貴族をやっていたのか。能無しめ」
俺は身体の制動にあらゆる神経を総動員する。一瞬でも気を抜けば、恐怖と緊張に震える手が剣を取り落としそうだ。
俺とアグリッピナは睨みあう。どれほどの時間がたっただろう、不意に溜息を吐く音が聞こえた。
「事ここに至り、私は決断する。アグリッピナに自白魔術を掛けろ」
ネロの語調には一切感情の色がない、ただ淡々と決定事項を述べた。
「本気ですか? 皇帝の言葉は軽くありませんよ?」
アグリッピナは息子を試すように言った。
「私は決定を下した。ハヤシ中佐、よろしく頼む」
「はい陛下」俺はアプレイウスを見る。彼は絶望的な表情を浮かべていた。それもそのはずだ。自分が皇族殺しの実行犯になるのだから。「アプレイウス大尉、陛下のご下命である。アグリッピナに自白魔術を掛けろ」
アプレイウスは黙って頷く。
アプレイウスがアグリッピナの頭に手を添えようとした瞬間、彼女は狂ったような笑い声をあげた。
「いいでしょう、やってみるがいい。引き出した情報が貴方達にとって益のあるものかどうかは保証しませんがね!」
「処置が完了しました……」
アプレイウスは額に汗を流しなら絞り出すように言った。精神的な疲弊からか今にも倒れこみそうだ。
「ご苦労」俺は彼の肩に手をやった。「壁際で少し休んでいろ」
かつて俺が見た自白魔術を掛けられたものと同じように、アグリッピナもかつての人格の全てを失って焦点の合わぬ目で虚空を見つめている。
「陛下、なんなりと御下問ください。この者はもはや嘘のつけぬ身です」
ネロは痛ましい姿になった母親から目をそらさない。むしろ網膜に焼き付けるようその姿を凝視している。
「……では聞こう。ハヤシ中佐とドルッシラを暗殺するよう命じたのは事実か」
「はい……」
アグリッピナは胡乱な表情で答える。ネロの顔が引きつった。机の上の拳が白くなるほど握りしめられる。
「ではやはり、貴様はアフリカヌス兄上の死に関与しているのだな?」
「いえ……私はその件について何の関係もない」
「……なんだと?」ネロは訝しげな声を上げる。「ではなぜ暗殺命令を出した」
「ネロを完璧な皇帝にするため……」
なぜだが、その答えを聞いた途端に窒息しそうな錯覚に襲われた。俺は空気を求めて深呼吸する。
「言っている意味が分からない。お前が誰も殺していないのなら、暗殺命令など不要なはずだ」
「私は殺した……先帝、我が夫を……」
ネロは完全に虚を突かれ、言葉を失っている。アプレイウスは自分がとんでもない事態に巻き込まれたことを悟り、発作的な引きつった笑みを浮かべた。ジャオジュンすら頬を痙攣させている。俺はこの場からとにかく逃げ出したくて仕方がない。
「なぜ、貴方が先帝を殺す必要がある」
「我が子ネロを皇帝にするため」
「先帝、我が父は私を後継者に定めた。殺す必要などなかったはずだ!」
「それは一時的な気の迷いに過ぎない」幽鬼のようなアグリッピナは感情を交えず語る。「先帝はアフリカヌスと意見の相違がありネロを後継者と定めたが、時間が経ち冷静さを取り戻せば、アフリカヌスの方が皇帝に相応しいことを思い出したはずだ。ネロを皇帝にするためには、あの機会に先帝を殺し、帝位継承を済ませるしかなかった」
ああ、俺が予期していたよりずっと恐ろしい証言が引き出されようとしている。
「……先に言っていた、ネロを完璧な皇帝にするため、とはどういう意味ですか?」
「ネロは皇帝としての資質に欠けていた……彼に支配者とはどういうものか、教える必要があった。疑わしければ、実の母親すら平然と抹殺する。そのような冷厳な心構えが皇帝には必要なのだ。でなければ、帝国の深部に潜む化け物どもにいいように利用されて、最期には非業の死を遂げるだろう。彼は帝国支配のための機械として覚醒しなければならなかった」
俺は見た、ネロの目尻から一筋の涙が零れ落ちるのを。彼は戦慄く唇で、次の問いを発そうとした。俺は直感的に悟る。駄目だ、ネロ、その質問をしてはいけない。
「母上は私を愛していましたか?」
アグリッピナが微笑んだ気がした。勿論、錯覚だ。彼女の脳は殆ど破壊され、人格など残っていない。
「この世界で私が唯一愛するもの、それは我が息子、ネロ・カエサル。我と我が身を顧みず、ただ彼だけを一心に愛した」
アグリッピナの体が傾げる。俺は近寄って、その体を抱きとめる。その温かい体はもう息をしていなかった。
「……アグリッピナ様の死亡を確認しました」
俺は絞り出すように報告した。
ネロが浮かべる表情を言葉で表すことはできない。そこには様々な、そして相反する感情が複雑に混じりあっていた。
俺は胸の中のアグリッピナを見つめる。その顔は満足げに見えた、無論、彼女の感情をこちらが勝手に解釈しているだけだ。
この女は化け物だった。だが、以前俺が予想したような権力欲に突き動かされる化け物ではない。ただ息子への一点の曇りもない愛情を動機とする聖なる怪物だった。あるいは、よくいる一人の母親と換言できるかもしれない。
皇帝を操って自分の求めるところを為さしめたと気分を良くしていた俺は滑稽であった。俺自身がアグリッピナの思うように操作されていたのだ。彼女の考える完璧な皇帝を作るために。
「母上の行動は全て私のためであった。母上は自分の命を擲っても私を愛してくれた」
ネロは呆けたように呟く。
俺はネロの挙動をじっと見守った。この事態を受けて、彼は人として壊れるのか、それとも。
ネロは立ち上がった。その目にはどこまでも深い暗黒が宿っていた。
「私が母の愛に答えるには、母が求めたように、完璧な皇帝になる他ない」
以前の柔弱なネロの面影は、そこに立つ男には見られなかった。全くの別人がこちらを睨んでいる。どうやら、母親の怪物性は息子に受け継がれたらしい。俺は彼の視線が恐ろしくて仕方がない。
ネロはこちらに近寄り母親の遺体を受け取ると、それを長椅子に寝かせた。
「安らかにお眠りください」
その言葉にはかつてのネロの優しさの残響があったが、次の瞬間、それが永遠に失われたことを理解する。
「ハヤシ中佐。アグリッピナ太后の暗殺命令の件はこれで終わりだ。次はアフリカヌス派の反乱について考えなければならない」ネロは淡々としている。「あるいはこれが皇帝としての本当の初仕事かもしれん。参謀本部も信用ならんからな、貴様の意見を聞こうではないか」
俺は思った。確かに俺は命を長らえた、だが、いっそあの時死んでおけばと考えてしまうような事態が、俺の前には待ち構えているのではないかと。
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