第22話 謀議する人間 三
「どうやら、母上の死は反乱を防ぐには役に立たぬらしい」ネロがこちらを見ずに、自分の見解を語る。「母上がアフリカヌス殺しの犯人であったため、皇帝として誅殺したと彼らに説明したところで、犯行方法すら説明できぬのでは信用を得ることなどできるはずがない。自分の謀略が明らかにされる前に生贄を捧げて事態の収拾を図ったと受け取られるのが落ちだ。であるならば、何か別の方策を立て、反乱を防ぐ必要がある。参謀本部の絵図面の通りに事が進むのは避けたい」ネロの視線が俺たちに注がれる。「さあ、何か献策してくれ。我が共犯者たちよ」
これが本当にあのネロだろうか、一言一言に異様な迫力が満ちている。単に母親が死んだだけではこうも変貌しまい。自らの意志によって殺したからこそ、この青年はもはや後戻りできなくなったのだ。俺は眠るように長椅子に伏しているアグリッピナを見た。愛ゆえとはいえ貴方はずいぶんと残酷なことをしたのではないか? 俺は愛情というものが本質的に秘めている、手段の択ばなさ、を思い知らせた。
意外なことに最初に手を挙げたのはジャオジュンだった。
「アフリカヌス派がカリグラ殿を旗頭にするのであれば、それを排除することで反乱を防ぐ、というのも一つの手段かと」
ネロは試すようにジャオジュンを睥睨した。ジャオジュンは揺らがない。俺はその胆力に率直に感心を覚える。
「カリグラの暗殺……そんなことができると思うか。警備は厳重だろう。そもそも誰に命じるのだ」
「臣にお命じください。陛下の勅命とあらば全身全霊をもって果たす所存です。生還を度外視すれば、成功の目は少なからずあります」
またこの女は自分を犠牲にする気か。俺は何か反論しようと思ったが、先に口を開くものがいた。
「中尉、申し訳ないが、その案には欠陥がある」アプレイウスが薄い笑みを浮かべていた。自暴自棄寸前の開き直りの表情だ。初めて彼に好感を覚える。「生還は見込めない。それはつまりカリグラの遺体を持ち帰れないということだ。アフリカヌス派にとってカリグラは忠誠を誓った主君ではなく、あくまで復讐戦を起こすための旗に過ぎない。君が彼らの陣中でカリグラを殺してもそれを証明するものがなければ、彼らはカリグラは生存していると偽り、反乱を続行するだろう」
「大尉の言は正しい」ネロが頷く。「しかし、カリグラが死ねばアフリカヌス派にも多少の動揺はあるだろう。中尉の提言は頭に入れておく」
部下二人に発言させて模様眺めとはいくまい。俺は考えを整理してから口を開く。
「アフリカヌス派はいくらかの勝ち目があるからこそ反乱を起こそうとしています。その拠り所はポンペイウスの不介入です。ルーム海軍が傍観を決め込めば、特に武装のない足の遅い穀物輸送船でも兵力を半島に送り込める、首都への速攻進軍が望めます」
「その言もまた正しい。だがその分析が打開策になるのか?」
「分かりません」俺は素直に答える。「ですが、この方面から考えることは無益ではないかと思います」
ネロはしばらく黙っていたが、不意に呟く。
「共同統治権」視線がネロに集中する。「それを与えれば、ポンペイウスをこちらの陣営に取り込めるかもしれん。だが、それに伴う危険は大きい。あのような大物を共同統治者に指名すれば、帝国を乗っ取られる恐れがある。かつて私が母上に対して抱いていた危惧が違う人物をもって現実になるわけだ」
俺はポンペイウスの威容を思い浮かべる。あの老人は名目上だけの権力を与えても満足しないだろう。地位に相応しい振る舞いをするはずだ。参謀本部や元老院は権力の不安定なネロより実績も名声もあるポンペイウスを相手に政策交渉を進めるのではないか、そうなれば政権は乗っ取られたも当然、十分あり得る未来だ。
「個人的にはあの老人を嫌いではない。反乱を傍観するような者をこう評するのもおかしな話だが、彼は裏表のない人物だ。部下としては悪くない。だが同僚には絶対持ちたくない」
俺達はネロの言葉に同意の沈黙で応える。
「だが、それしか反乱を防ぐ手がないのなら選択肢として真剣に検討しなければならない。反乱勃発を座視し、参謀本部の計画通りに帝国再編を承認するか。それとも危険を承知でポンペイウスに権力を与え反乱を未然に防ぐか。どう思う、中佐?」
「参謀本部こそお飾りの皇帝を望んでいるのかもしれません、彼らは陛下に事前に計画があることを説明していなかった。再編も参謀本部の意向を反映した人事になる恐れがあります。陛下が元老院の協力を得られればそれに対抗することもできますが、どうでしょう?」
「元老院にもクラウディウスを恐れるものは多くいる。彼に敵対したものはみな悲惨な末路を遂げている。つまり、彼には実績がある、敵対者への報復について」
「それは」あえて言う。「陛下には欠けている実績ですね」
「然り」
ネロは母親の遺体の目をやったあと、短く首肯した。
俺は皺が寄る眉間を揉み解した。俺のヤマトへの帰還という目的を考えれば、ポンペイウスを共同統治者にするのがまだ望ましい。しかし、そのためにネロを説得する材料はない。俺の真意をネロに知られれば、アグリッピナの次に殺されるのは俺だ。迂闊なことは言えない。
だが、俺はあくまで自分の欲するところを実現するためにこの場にいるというのは自覚しておくべきだ。帝国の安寧、ネロの帝位などは、その付帯条件に過ぎない。
俺はネロを見た。その背後にはアウグストゥスの彫像がある。その時、俺の脳裏に何かが閃く。それが何かも分からぬまま、俺は必死に今思いついたことが何だったのか頭の中を探る。そして、コルシュの顔が浮かんだ。なぜ、今コルシュの顔が浮かんだ? 考えろ、考えるんだ。
そして、過去に聞いた言葉が、俺の耳に聞こえてくる。あれは、ヒスパニアでのことだった。
奇想が一つの現実的な案として形を成す。
なるほど、これは賭けるに値する方策かもしれない。
俺はゆっくりと立ち上がった。物問いたげな視線が俺に突き刺さる。
「陛下、確実な計画とは言えません。しかし、一つ、この袋小路を打開策する策を思いつきました」
ネロはこちらにじっと視線を注いだ後、言った。
「一年前、ゲルマニアで貴様が私の陣幕に来た時のことを思い出した。貴様はあの時も他の者が思いつかなった策で私を救った。聞こう、何を思いついた」
「はっ。―――――――――――――――――――――」
俺の提言に室内は静まり返える。彼らの顔には驚きとそれに相反する納得が浮かんでいた。
数日後、皇宮にポンペイウスが招かれた。彼が到着するまで、今にも反乱の火の手が上がらないか気が気ではなかったが、最悪の事態は何とか免れた。あるいは反乱派もポンペイ巣の動静に気を配ったのかもしれない。
「陛下。ヒスパニア総督にしてヒスパニア軍団総司令官及びルーム海軍長官ポンペイウス・マグヌスを御意により参上いたしました」
広々とした玉座の間にポンペイウスは大音声を響かせる。
「うむ、ご苦労」
ネロは傲然と頷く。その態度にポンペイウスは眉を顰めた。
「陛下、少し雰囲気が変わりましたな」
「そうか?」
「この場に揃った面々も不思議な取り揃えだ」
ポンペイウスはネロの隣に侍った俺に訝し気な視線をやる。
今この場には、ネロ、ポンペイウス、そして俺しかいない。暑気が残る季節だというのに、人の少ない広間の寒々しさが肌に冷気を伝えてきた。
「あまり、人に聞かれたくない話だ、許せ」それからネロは俺にちらと目線を向ける。
「これはいないものとして扱ってくれていい。私は総督と一対一で話をしているつもりだ」
「ほう、いったいどのような話でしょうか」
ポンペイウスの態度は堂々としたものだった。反乱勃発において自分が中立を維持することをすでにネロに知られている事態ぐらいは想定の範囲のはずだ。その場合、不忠としてこの場で自分が処刑されたとしてもおかしくないというのに。
もっとも、彼はそのための保険をかけている。彼は首都ルームを訪れるにあたって海軍の戦艦を利用し、その艦隊を地中海にとどめている。もしこの場でポンペイウスが殺されるようなことがあれば、艦隊はアフリカヌス派につくよう指示されていることは間違いない。そうなればポンペイウスが中立を取るよりもっと不味い事態が現れる。その了解がネロとポンペイウスの間で無言のうちに成立しているから、彼は護衛もつけず今この場にいるのだ。
「総督の今までの功績に伴う報償についてだ」
ポンペイウスが目を細める。
「それは興味をそそられる話ですな」
「総督は帝国に多大な貢献をしてきた。総督の働きがなければ今日の帝国の権勢はなかったに違いない」
「お褒めの言葉をいただき恐懼の至り」
彼は最敬礼で答える。
「私は思ったのだ。果たして帝国は、歴代皇帝は、総督の功労に相応しい栄誉を与えたのかと。答えは否だ、総督への返報は不十分だった。私は当代のルーム帝国皇帝として、この誤りを正すつもりだ」
ポンペイウスは隠しようのない喜色を顔面に浮かべた、当然だ、自分の望んだ地位がついに手に入ろうとしている。しかしその表情はすぐに困惑に取って代わられた。
「共同統治権、というのも考えたのだがな。それでも総督の功績に報いるにはまるで足りない。違うか?」
二人は黙ったまま見つめ合った。
「陛下」ポンペイウスはどういう表情を浮かべるべきか迷っているようだった。彼のこのような態度は初めて見る。「臣は共同統治権でも満足いたしますが、それ以上の報償を、陛下は用意していると?」
「うむ、ここにいるハヤシ中佐の提言だ」ネロは俺を見ずに言う。「タルクィニウス・ポンペイウス・マグヌス、私は元老院において貴公の神格化動議を出す。貴公は生きながら神になるのだ」
時間が止まったような沈黙がこの広大な玉座の間を満たした。おりしも高窓から指す日光がポンペイウスの体に降りかかる。俺とネロが日陰に隠れるなか、彼だけに陽光が降り注ぎ、舞台の主演役者のように照らされていた。
「……神格化ですと?」
ポンペイウスは唖然としている。ネロは機会を見逃さなかった。
「そのとおりだ、貴公は生前の働きから海神として奉られる。現在のネプトゥーヌスの代わりだ、つまり貴公はルーム12神の内の一柱となるわけだ、これ以上の栄誉があるかね? まさか主神ヘリオガバルスの代わりでなければ満足しないなどと言うまいな総督!」
ネロは高々と笑った。高い天井にネロの笑いが立ち昇り、周りの壁に吸い込まれていく。
ポンペイウスは俺を見た。これは何かの冗談か? そう問いたげな半信半疑の表情を浮かべている。俺はそれに無言、無表情で応える。
「想像したまえ。海神ポンペイウスの神像を奉納した神殿がルーム本土そして属州各地に建てられる。各主要都市のそれは大理石で建造された巨大な宮居で常に参拝者で満たされている、その人波は大神ヘリオガバルスや神君アウグストゥスの神殿に劣るものではない。だが、貴公の威光に照らされるのは何も大都市ばかりではないぞ、小さい町や村でもその規模に合った祭壇が作られる、住民はささやかな供え物と祈りを義務とする。海運業者は航海の安全を祈り貴公の神殿に多量の供物を貢納する。海軍は戦争の前には勝利を祈願し雄と雌の牛を一頭ずつ捧げる。海に関連する全てのルーム臣民は海神の加護を求めるだろう、つまりは神格化された貴様だ、ポンペイウス・マグヌス!」
ポンペイウスは呆けたようにネロの言葉を聞いていたが、やがて正気を取り戻すと、静かに考え始める。ポンペイウスは馬鹿ではない、計算しているのだ。この提案を受け入れればどうなるのか。
その答えをネロが言う。
「無論、このような地上に並ぶ者がいない権威を与えるのだ。地上の権力は全て返上してもらわねばならん。帝国の安全保障上、生きている人間を神にするわけにはいかない、それは危険すぎる。元老院も説得できん」
「それはそうでしょうな……」
ポンペイウスはそう言ったきり、目を閉じ潜思の姿勢に入った。
俺はかつてこの老人を権力欲の権化だと思った。しかしよくよく考えるとそれは正鵠を射たものではないと考えるようになった。真に正しい表現をするなら、この老人は名誉欲の権化なのだ。他人から賞賛されることを欲し、彼の行動は全てその欲望から生じている。共同統治権を望んだのも、その権力自体は目的ではなく、それによって得られる名声を望んだものと考えた方がしっくりくる。
であるならば、この提案は正にポンペイウス攻略の起死回生の一手となるはずだ。地上の一切の権力を剥奪したうえで、天上の権威を与える。
「共同統治権など所詮生きているうちしか享受できない名誉、しかし神格化されれば帝国が存続する限り永遠に崇拝の対象となる、さあ、ポンペイウスよ、お前の答えを聞かせてくれ」
ネロの言葉にポンペイウスは目を開く、彼の視線はネロの背後の神々の彫刻に向けられている。そしてこちらには聞こえないほどの声で何事か呟いた。小人、唇の動きを読めばそう発したようだった。
彼は一度だけ身震いするとゆっくりと跪いた。重々しく口を開く。
「陛下がここまで臣を評価していてくださったとは知りませんでした、恐縮の念に堪えません。陛下自らのご提案、これを承諾せぬのは不忠の極み。このポンペイウス・マグヌス、謹んで神格化の栄誉を受け入れたく存じます」
「そうか、それは良かった。早速、明日の元老院で動議を発するつもりだ。それでな、総督、動議が通ったのを貴公が確認してからでいいのだが、最後の海軍長官として頼みたいことがある」
「なんなりと」
「うむ、アフリカ属州に行き、カリグラを首都ルームまで連れてきて欲しいのだ。先日、アフリカヌスの縁者を狙った事件があってな、カリグラをこちらで保護したい。もしかするとアフリカ属州の面々は抵抗を示すかもしれんが、そこは総督の威光で上手くやってくれ」
「承知いたしました。
ポンペイウスは頭が床につきそうなほど深々と頭を下げた。
ネロ……ネロ陛下は何時を遂げたというのに涼しい顔をしている。俺が助言する余地はなかった、先日まで調停者でしかなったこの方は、絶対者として覚醒したのだ。苛烈な実物教育によって。
尊敬はするがそれより恐ろしさが先立つ。このような冷厳な支配者と仕事をする気にはなれない。俺はただただヤマトへ帰りたかった。だが、アフリカヌス派の内乱が防がれ、ヤマト属州からのルーム撤収が免れたというのに、一度遠退いたヤマトの遠景は、やはり遠退いたままだった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。