第36話 ゲルニカ
秋風が、海沿いの駐車場を吹き抜けて行く。
車から降りた瞬間、ユズの髪がふわっと持ち上がった。
「うわ〜海やー!」
潮風の香りに鼻をくすぐられながら、駐車場から海を覗き込むと、小さなコバルトブルーのスズメダイの群れが、海中のコンクリートについている牡蠣殻やフジツボの隙間をついばんでいた。
「なかなか風、強いね」
ミナは髪を耳にかけながら、山並みを見上げる。
「ほんとだね、あ、来た」
宮坂が顔を上げると、車が二台止まった。
瀬良と田﨑、歩美が降りて、もう一台からは、演劇部の数名が順に降りてきた。
「田﨑、姐さん、お疲れ様です」
峯岸が軽く手を上げると、田﨑は顎を引いて応じた。
その横に立つ瀬良は、迷彩のジャケットにカーキのカーゴパンツ姿だった。
首元のドッグタグが、身体の向きを変えるたびに光る。
「ああ、すまないね、海斗君」
瀬良が歩みを進めると、杏奈は瞬きをした。
「……雰囲気、全然違いますね」
田﨑が口元をわずかに上げる。
「役作りだよ、今回はレジスタンスなんでね」
聡志が目を丸くして呟いた。
「けど、なかなかステレオタイプな」
すると、瀬良が聡志の前に立ち、自嘲気味に笑った。
「まあ、私は形から入っていく方だからね」
「あんたと違って、じっくり作っていくタイプなんだ」
「面倒くさいだろ?」
聡志が苦笑いをしていると、杏奈が横から駆け寄って、歩美の手を取った。
「歩美ちゃん、よう来たね」
歩美は一瞬怯えたように肩が跳ねるが、すぐに杏奈の手を握り返した。
「……杏奈ちゃん、なんとか、来れたっちゃ」
瀬良が腕組みをして目を細め、二人の間に立つ。
「無理しなくても良い、て言ったんだけどさ」
「公演の場所を直接見たいって」
杏奈と歩美は、微笑みを交わす。
続いて、もう一台現れた。
ドアが開くと、降りてきたのは、澄水座の三人だった。
その姿を見た瞬間、ユズが駆け出す。
「雄吾さ〜ん♡」
すると雄吾はその場で足を止めた。
ユズがあと一歩、というところで雄吾の視線が険しくなる。
「私に……近寄るな」
ユズの足が、ぴたりと止まり、その身が固まった。
「え?」
「人間など……誰も、何も信用できない」
「え? え?」
すると、雄吾の目元が穏やかになり、口元が崩れる。
「はは、ごめんね」
「役作りだよ」
肩の力が抜けると、健作が横から笑う。
「雄吾さん、今回なかなか気合入っとるけえ」
秀然も穏やかに続ける。
「日頃の稽古が、本当にきつくてね」
「今日は、楽しみにしてますよ」
ミナがユズの横に立ち、顔を覗き込む。
「……あ、魂抜けてる」
ユズは動きを止めたまま、目を瞬かせていた。
宮坂が前に出て、手を叩く。
「皆さん揃ったことだし、早速行きましょうか」
「宮西さんや春川さんたち、他のプロジェクトメンバーは、もう美術館の前に待機しているそうです」
一行は、そのままシャトルバス乗り場へ。
順に乗り込んでいく中で、ユズだけが一瞬立ち止まり、雄吾の方を見ると、雄吾は、何事もなかったように笑みを返し、車内へ入っていった。
ユズは息を吸い込むと、怪訝な顔で首を傾げて後を追う。
バスが動き出すと、杏奈の隣の席の歩美が、手を堅く握り、顔を伏せた。
額には冷や汗が浮かぶ。
「歩美ちゃん、大丈夫?」
「ありがとう……人が固まってる所、まだ落ち着かねぇから……」
杏奈がそっと歩美の手に、触れると顔を上げて、引き攣った笑顔を返した。
美術館前のロータリーにバスがゆっくりと停まり、ドアが開く。
「おーい!」
宮西が大きく手を振り、佐藤と日崎と共に歩み寄って来た。
宮坂が三人に向き合う。
「宮西さん、お待たせしたんじゃないですか?」
「いや、いや、今来たところだから」
「森山さんは?」
宮西は肩をすくめて、建物の方を指差した。
「先に中に行くって、入っちゃったよ」
ちょうどそのとき、もう一台の路線バスが停まる。
ドアが開き、ゆっくりと降りてきたのは、春川と佐々木だった。
二人とも足早にこちらへ向かう。
「遅くなりました」
ミナが一歩前に出る。
「大丈夫、こちらこそ遠くまでごめんなさい」
瀬良が軽く手を挙げる。
「春川ちゃん、今日は折角の姫路のイベントの日なのに、ごめんね」
春川は吹き出して手を振った。
「いいんですよ」
「了さんも安積さんも、リーグ戦の間は参加無理だし、流石に一人で行く勇気ないから」
宮坂が軽く手を叩いた。
「それじゃあ、皆揃ったし入りましょう」
自動ドアが開くと、杏奈がふと顔を上げた。
「うわぁ!すごい高いエスカレーター」
杏奈は思わず声が漏れて見上げると、何階分もの高さがある。
上に着いたところで、森山の姿が見えた。
「ごめんね、先に入っちゃって」
聡志が一歩前に出る。
「それで、システィーナホールって?」
森山は振り返り、正面に見える入り口に手を伸ばした。
「すぐそこだよ」
中に入った瞬間、言葉を失った。
遥かに高い天井一面に、旧約聖書の世界が鮮やかに描き出されている。
大勢の人物が、一人として同じ顔はなく、その表情は喜怒哀楽が豊かに表現されていた。
杏奈はまばたきも忘れ、ため息をこぼした。
「すごい……」
秀然は天井を見上げたまま、ゆっくりと頷く。
「これは、ある意味曼荼羅ですね」
田﨑は視線を動かしながら、声を出した。
「三百人の人物が描かれているそうですよ」
聡志は天井を見上げたまま、頭を戻せない。
「これだけのものを一人で、すげえな」
雄吾はゆっくりと一歩、後ろへ下がり、立ち位置を確認する。
「客席だけじゃなく、天井からも見られているみたいだな」
誰もがすぐには動けない。
それぞれが、絵を見上げたまま思い思いの場所に頭を動かしていた。
ミナが小さく息を吐き、全員に向き直った。
「それじゃ、二時間後にここに集合でお願いします」
「各自で見学しましょう」
ユズが振り返り、満面の笑みを浮かべて弾んだ声を上げた。
「了解!じゃあ、雄吾さん♡」
しかし、雄吾は動かず、視線だけがゆっくりとユズへ向くと、また冷たい目を向けた。
「名前……か」
「所詮、個体を識別するための記号でしかないものだ」
ユズの動きが止まり、笑顔のまま、目だけが瞬きを忘れる。
「……え?」
すると、健作が横から肩を揺らして笑う。
「雄吾さん、役作り徹底しよるなあ」
雄吾が視線を外し、ゆっくりと歩き出すと、ユズはその場に残ったまま、雄吾の背中を目で追っていた。
(……わざとやってるんちゃうん?)
ひとつ首を傾げて、その後を追いかける。
全員がばらけていく中、ミナはその場でひとりだけ動かない背中を見る。
宮坂がホールのあちこちに視線を移し、時にスマホで撮影し、時に何かを確かめるように指を差す。
「ゆうま、ウチらもいこうよ」
声をかけるも、宮坂は反応しない。
「……やれやれ、スイッチ入っちゃったか」
苦笑いでため息をつくと、今度は右往左往して、絵とは関係のない出入り口の場所や、バルコニー下の面積、客席の配置。
それらが宮坂の頭の中で、整理されているようだ。
「あそこ……と、あそこ」
「客席の導線が、あそこ通って……」
「……あの2階バルコニー下の空間」
「ここ、目隠ししたら……」
壁際のバルコニーが、突き出している場所に進むと、また上下左右に目線を配っていた。
「道具の置き場所や、着替えもできるな」
ミナは、その横顔を見ながら、小さく笑って肩をすくめる。
「……やれやれ」
一言こぼして、ふと振り返ると、まだ動かずに立っている峯岸の姿があった。
「あれ? 海斗、行かないの?」
声をかけると、峯岸は天井を見上げたまま、小さく息を漏らした。
「あらためて見たら、すごいな」
「来たことあったんだっけ?」
「ああ、フタバとな」
その名前が出た瞬間、ミナの口元がわずかに強張った。
「……ごめん」
「かめへんよ」
短く返してから、もう一度天井へ目を向ける。
「けど、ミケランジェロはこれを、ほぼ一人で描いたって言うてたな」
言葉の間に、視線が人物から人物へ移っていく。
「孤独で、黙々と」
「海斗?」
峯岸の目は、まだ上を向いたままだ。
「システムの、ミケランジェロみたいに」
「感情っちゅうもんを、排除しとったんかな」
「海斗?」
峯岸は上を向いたまま、淡々と呟く。
「後悔」
「苦悩」
「絶望」
「……か」
ミナは天井を見上げ直す。
「ああ、神学部の教養講義であったね、旧約聖書」
峯岸が小さく頷き、人差し指を天井へ向けた。
「絵、それぞれあるわ」
「天地創造」
「楽園追放」
「ノアの方舟」
「モーセの十戒」
「ダヴィデとゴリアテ」
言い終えたあと、視線をミナに向けた。
「まさに、後悔、苦悩、絶望の繰り返しやな」
「こうやって絵で見たら」
ほんの少しだけ目を細める。
「気持ちに入ってくるわ」
ミナは返事をせず、もう一度天井を見上げた。
絵が表す物語を重ねると、同じ絵から受ける印象が変わって見える。
峯岸は、口元をわずかに動かした。
「システムのセリフやけど、確かに、無いに越したことはないな」
「何の話?」
峯岸は視線を少し落として、自分の足元を見る。
「俺の後悔と、フタバの苦悩」
「絶望にならんかったらええけどな」
ミナの表情が、すっと引き締まる。
「そんな事、言うもんじゃないよ」
峯岸は、短く息を吐いた。
「言わんと、片付かんもんも、あるわ」
しばし沈黙が流れたが、少し離れたところから宮坂の声が飛んでくる。
「ミナ、ちょっとこっち来て」
ミナがそちらを向くと、峯岸が冷やかすように、歯を見せた。
「ほら、彼氏君が呼んでんで」
「うるさいよ」
そう返して、宮坂の方へ歩いていくミナの背中を見送ってから、ひとつ肩を回した。
「どら、ピカソでも見に行ってみるか」
振り返り、靴音を響かせてその場を後にする。
2階からホールを見渡せる開口部に、杏奈と聡志が差し掛かると、歩美が熱心にホールを見ながらメモを取っていた。
聡志がゆっくり近寄る。
「君、確か公認の……」
「広原歩美ちゃん」
「公認演劇部の作家見習いだそうです」
「歩美ちゃん、何しよるの?」
しかし、二人の声は歩美には届かない。
ぶつぶつと呟きながら、ペン先で絵を指し示し、メモに走らせる。
「あれが……アダムとイブの楽園追放」
「あの絵が、ノアの方舟」
小脇に挟んだ台本を開き、指でなぞる。
「あった」
「最初の司祭のセリフの時、絵にスポット当てたら……」
「わあ!!」
顔を上げて聡志と目が合った歩美が、飛び上がって驚きその場にへたり込んだ。
「ごめん、驚かしちゃって」
「いえ……私も没頭してしまって」
「大丈夫? 立てる?」
すっと差し出された聡志の手を見た歩美が、今度は顔を強張らせて、荒い呼吸を始めた。
「歩美ちゃん」
杏奈が二人の間に割って入り、その背中を優しくさすってやった。
その時、聡志の眉がわずかに動く。
(そうか……この子、あの時の)
歩美の顔を思い出した聡志は、二人から距離を取った。
「杏奈ちゃん、ごめん、もう良いっちゃ」
「大丈夫らて」
呼吸が安定してきた歩美に、杏奈が言葉をかけた。
「無理したらいけんよ」
「うちと、回る?」
すると、歩美はゆっくりと首を振った。
「ううん、ひとりで大丈夫」
「その方が、絵に集中できるし」
「待たして迷惑かけるから」
気丈に笑う歩美に、杏奈は戸惑うも優しい目を戻した。
「わかった、ゆっくり楽しみんさい」
「そのメモ、台本のことを書いてくれたんじゃろ?」
「あとで見せてね」
「うん」
立ち上がった歩美に見送られ、杏奈は聡志の元へ戻った。
最上階では、芝生の広い庭園を臨む大きなガラス壁から、陽の光がまっすぐ差し込んでいた。
その光の中に、それはある。
ゲルニカ。
原寸大のサイズで、壁一面に広がっていた。
峯岸は、そこで足を止めて見上げる。
モノクロームの景色。
いななきながら逃げ惑う動物。
倒れた兵士。
動かなくなった子供を抱く母親。
写実的ではないその絵だが、苦悶に歪んだ顔や、不自然に折れた首、ばらばらに置かれた目や鼻や口が、かえって生々しかった。
峯岸は、それらをひとつひとつ、時間をかけて凝視した。
頭の中に形にならないまま沈んでいた怒りや恐怖が、絵の中で渦を巻いているような感覚に陥る。
「こうならんように、するんやな、ミケランジェロは」
人の感情を削り、均し、波立たせないように整えていくシステム、ミケランジェロ。
後悔も、苦悩も、絶望も、最初から無いことにしてしまえば、こんな景色にはならない。
その役を演じるにあたり、自分の中で設定を組み立ててゆく。
その時、倒れた兵士の剣のそばで、目が止まる。
そこにある一輪の花の絵に、峯岸の目が、わずかに細くなる。
「これが、ピカソが見つけた、絶望の中の希望か」
しばらくその一点を見つめたあと、ようやく踵を返し、庭園に出た。
風が、駐車場の時よりやわらいでいる。
目の前には、高速道路。
その先に、大鳴門橋から瀬戸内海に浮かぶ淡路島があった。
峯岸は手すりに手をついて、海の向こうへ目を凝らす。
「神戸は、どっちやろ?」
「親父、言うてたな」
「あの時は、ほんまもんの絶望やったって」
一度、視線を落とし、すぐにまた上げる。
「けど、今のあの街は、そんなこと信じられんくらいや」
「フタバも、そこにおる」
また、潮の香りを纏った風が強くなる。
手すりに肘をついて、じっと海の向こうに思いを馳せた。
「絶望の中の希望か」
「ホンマに、あるんかな?」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。