第39話 言葉のチカラ
大学の掲示板の前に、人だかりができていた。
休講の告知などの紙に混じって、ひときわ目立つ紙面が貼られている。
六星スポーツ
弓道部優勝の目立つ見出し、そして、河瀬清彦の名前が書かれた横には……
的中率一位。
全国大会出場。
の文字が踊る。
鳴門から戻ったばかりの杏奈は立ち止まり、その紙面を見上げ、自然と口元が緩む。
「河瀬くん、やったねえ」
「これで、また青島さんと試合できるね」
ここしばらく晴れなかった胸の奥が、この日は祝福の思いが広がることで、幾分か軽くなった気がした。
紙面をじっくり眺めていると、背後から声がかかる。
「やあ、田澤さん。おかげで優勝できたよ」
振り返ると、久島が立っていた。
「え? いえいえ、私は何もしてませんよ」
慌てて手を振ると、久島は苦笑しながら首を振った。
「何もない、てことはないだろう?」
「君がいなかったら、部だってなくなっていたかもしれないんだから」
杏奈は少し言葉に詰まり、それから小さく息を整える。
「河瀬くんの様子はどうですか?」
「何も無かったみたいに元気だよ」
「相変わらず、青島に執着している」
「青島も東京の代表で出てくるし、面白いことになりそうだよ」
杏奈の表情が、ふっと明るくなった。
「それは、楽しみですね」
「河瀬くんにもよろしくお伝えください」
「ああ、ありがとう」
久島は軽く手を挙げ、そのまま歩いていった。
残された杏奈は、もう一度だけ紙面に目を向けると、河瀬のまっすぐな視線が、そこにあった。
講義室にて、前方のスクリーンにスライドが映し出され、淡々とした声が教室に流れているが、ノートを開いたまま、杏奈の手は止まっていた。
(誰かに伝えたい言葉、けど、うちは一人には絞れん)
(聡志くん、河瀬くん、フタバさん……)
(逆に、どんどん、伝えたい言葉がでてくる)
黒板の文字が書き換わっていく音だけが、遠くで響いていた。
学食の片隅でも、トレーを前に、杏奈はひとりで座っている。
周りのざわめきの中で、ふと視線を巡らせる。
(最近、河瀬くん食堂来んねえ)
いつも座っていたあたりに目がいくが、姿はない。
(ちゃんとご飯食べよるんじゃろか?)
箸を持つ手が少しだけ止まる。
(なんせ、一食十分じゃもんね)
(次は、一限空くな。図書館でも行ってみようかいね)
図書館。
静かな空気の中、本を抱えたまま自習スペースへ向かう途中で、ふと足が止まる。
視線の先に、見覚えのある背中があった。
河瀬が自習スペースで、メモをとりながら熱心に本を読み耽っていたのだ。
杏奈の目が、わずかに見開かれる。
「なんで……?」
「いや、ええことじゃけど」
河瀬は顔も上げず、ひたすら机に向かっていた。
「なんの本、読んどるんじゃろ?」
そっと距離を詰め、横から覗き込むと、並べられているのは、栄養学の本が数冊。
その前にノートを広げ、淡々とメモを取っている。
「一日、二十三時間半は弓のこと、言うてたのに」
「あ、前にうちが言うたから?」
ふと気づいて、口元が緩む。
「じゃあ、これも弓のことのひとつか」
杏奈は思わず、くすりと微笑んで、視線はそのまま、真剣な横顔に向けられる。
「邪魔しちゃいけんね」
そっと離れ、少し距離を取った席に腰を下ろした。
(頑張りんさい)
心の中でだけ、言葉を送り、テーブルに本を置くと、ゆっくりとスマホを取り出した。
画面の中に映るのは、卒業式のあの写真。
その笑顔を見つめているうちに、杏奈の意識は、ふとあの夜へと引き戻されていった。
リーグ戦初戦の夜。
公園のベンチで、二人でたこ焼きを食べたことを思い出す。
熱いたこ焼きを頬張りながら語った、河瀬の声がよみがえる。
「努力か……しとらんよ」
「皆んなは言うてくれる」
「俺、人の何倍も、何百本も引いてきたって」
「けど、それは俺にとったら、好きなことを思う存分楽しんだだけじゃ」
「俺が言うても的外れかも知れんけども、田澤さんは、田澤さんが楽しいと思うものを書いたらええと思うよ」
「うちが、楽しいと思うもの……か」
そのまま、別の声が重なる。
聡志の声だった。
「お客さんてのは、一つの塊じゃない」
「一人一人が違う人で、それぞれが、欲しい言葉を待ってると思うんだ」
「誰かのために、伝える言葉は、待ってる言葉じゃなくても、人の心を打つと思うんだよ」
「マスターもそうだったんだろ? うちのおふくろに」
声が、ひとつの流れになって、胸の奥に残ると、杏奈はゆっくりとスマホを伏せ、ふと顔を上げた。
(一人一人が欲しい言葉……か)
次の瞬間、はっとする。
(そうか、河瀬くんも、聡志くんも、うちの欲しい言葉をくれた)
胸の奥に、静かに何かが落ちてくる。
初めて聡志と会った日、掌に、コインを握らせてくれたあの感触が、指先に蘇る。
「ちっちゃい世界しか、君はまだ知らないよ」
「だから、一緒にやろうよ」
(聡志くんの言葉で、うちの今がある)
続いて、あの日の光景が重なる。
ローストビーフの詩を書いた時の、峯岸とユズとミナの声。
「君、凄いな」
「俺、口の中にローストビーフあるわ」
「絵、浮かぶ。映像やん、これ」
「文字って……絵の具にも、フィルムにも、なるんだね」
さらに、初舞台の日の、宮坂からかけられた言葉。
「それだけ、君はすごいものを生み出したんだ」
「自信持ってね」
「これからも、僕らにいろんな世界を創らせてね」
(皆さんの言葉のおかげで、『PLANET LAND』のお話が出来た)
杏奈は静かに立ち上がり、本を元の棚へ戻す。
ふと、もう一度だけ視線を向けると、河瀬は変わらず机に向かい、ペンを走らせていてこちらに気づく気配はない。
杏奈は小さく息を吸った。
「頑張ってね」
「うちも、がんばるけえ」
届かない声を、そっと置いて図書館を後にした。
学内を一歩進むたびに、これまで自分に向けられてきた言葉が、次々と胸の奥に浮かんでは重なっていく。
母の声。
「こわいのは、本気で生きようとしちょる証拠じゃけ」
「通り過ぎるだけの人生にせんでええ。止まってもええし、ぶつかってもええ」
妹の言葉。
「けど、うちら幸せじゃね」
「また、帰ったらローストビーフ食べよう」
志織のまなざし。
「親ってのはね、自分の子どもが自分の道を見つけて、自分の足で歩いていくこと」
「それが一番の親孝行なの」
「だからあなたは、“あなた”になりなさいね」
向き合ってくれる父。
「しっかり、楽しんだらええ」
「もう勉強だけやない、人生の夏休みと思うて色んなものを見て、学んで、な」
【これがお前への、挑戦状じゃい】
「お前は、俺の人生のすべてだから!」
すべての言葉が、ひとつに重なっていく。
杏奈はゆっくりと顔を上げた。
(色んな人の言葉で、うちは前に進んできた)
(みんなが、うちの欲しい言葉をくれたから、今がある)
(通り過ぎるだけの彗星じゃったうちが、ここにおる惑星になった)
(みんなが、重力を持つ惑星)
(それが、PLANET LAND)
(その答えを、返したらええんじゃ)
六星大のシンボル、時計台を見上げる。
杏奈の表情には、もう迷いはなかった。
自分を導いて来た言葉たち、それは確実に彼女の背中を押して来たからだ。
「うちは、ここにおる」
「ほんとの、自分になるために」
その夜、杏奈は下宿でタブレットに向かっていた。
鳴門への旅のあと、そのまま講義を受けた疲れも、今はどこかへ消えていた。
指先と視線だけが動き、キーを叩く音だけが静かな部屋を満たしていく。
「ふう、ひとまず骨子は出来た」
ようやく手を止め、傍らのカップに手を伸ばす。
ぬるくなったお茶を一口含んだ、その直後だった。
ぐう、と遠慮のない音が鳴る。
杏奈は目を瞬かせ、それから少しだけ笑った。
「晩御飯、忘れとったな、いけんいけん」
時計に目をやると、針はすでに夜九時を回っている。
「この時間に食べるの、どうしようかな」
言いながらも、空腹ははっきりしていた。
「お腹すいとったら、寝られんもんね」
立ち上がって冷蔵庫を開け、中を覗き込み、あれこれ見渡したあと、ふと思い出したように小さく声を漏らした。
「そうじゃ、あれがあった」
冷凍室を開け、ラップに包まれた塊を取り出す。
「お父さんのローストビーフ、この前送ってくれたんじゃった」
鍋に湯を張って火にかける。
沸騰したら火を止め、湯にそっと沈めると、杏奈は待つあいだ手持ち無沙汰になり、机の上のスマホを手に取った。
画面を開いた瞬間、杏奈の表情が変わる。
「あれ? メッセージ、気づかんかったわ」
通知の送り主を見た途端、ふっと顔が綻ぶ。
「河瀬くんじゃ」
表示された文面を、ゆっくり目で追っていく。
【伊勢神宮、頑張ってくる】
【青島も来る】
「やっぱり小学生みたいじゃな」
思わず口をついて出た声には、呆れよりも親しみが滲んでいた。
だが、その続きで視線が止まる。
【ほじゃけ、忙しいかもしれんけど】
【伊勢まで遠いけど】
【田澤さんも来てくれんね?】
杏奈の顔からすっと笑みが消え、画面を見つめる。
【河瀬くん、メッセージ、今気づきました。遅くなってごめん。寝とった?】
【起きとったよ。忙しかったんじゃないかね?】
【ごめんなさい、伊勢神宮の大会っていつじゃろか?】
【二週間後の土日じゃ】
杏奈がすぐにスマホのスケジュールを開くと、画面には、稽古の予定が入っていた。
【皆さんに聞いてみる。あと、明日、お昼一緒に食べんね?】
【最近あんまり会わんかったし、渡したい四国のお土産あるけえ】
【わかった、雑用終わったらいくわい】
杏奈は画面を見つめたまま、少しだけ考えて、そして、メッセージ画面を閉じた。
次にサークルのグループチャットを開く。
【夜分にすみません、相談したいことがあるんですが】
翌日の昼休み。
学食の入口で待っていた杏奈の耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。
「田澤さ〜ん」
振り向くと、河瀬が軽く手を上げている。
「河瀬くん、なんか久しぶりじゃね」
「そうかいね?」
「そうじゃよ、中、行こう」
二人でそのまま学食に入る。
杏奈が食券機の前で立ち止まったのに対して、河瀬は買わずにそのまま席へ向かった。
「注文せんのん?」
「俺、あれから昼は弁当じゃけえ」
杏奈は目を丸くした。
「誰が作っとるの?」
「寮の台所借りて、自分で作っとるよ」
「栄養のことも勉強しとる」
席について弁当箱を開けると、中には、玄米、蒸した胸肉、ピーマンと鶏そぼろの炒め物、茹でたブロッコリーが、きっちりと几帳面に詰められていた。
「凄い、ヘルシーやね」
杏奈が思わず覗き込むと、河瀬は少し照れくさそうにしながらも、胸を張った。
「夜は寮の飯じゃけど、昼は脂質と糖質を抑えとるんじゃ」
「最近、体が軽うなって、集中力も増して来た気がする」
「相変わらず、極端な人じゃねえ」
「あとこれ」
河瀬は、鞄の中から小さな瓶を取り出した。
中には、紫色の粘り気のあるものが入っており、それを見た杏奈は眉をひそめた。
「なにそれ?」
「ブルーベリーを煮詰めたもんじゃ。目にええて聞いたから」
そう言いながら、今度はミネラルウォーターのペットボトルを開け、そこへ少し流し込み、そのまま勢いよく振る。
紫が水に広がっていくのを見届けてから、河瀬はぐっと一口含んだ。
次の瞬間、眉間に皺が寄り、顔をしかめたまま、低く漏らした。
「これが酸っぱいんじゃ」
「砂糖、入れんのん?」
「糖分じゃろ?」
きっぱり言い切る河瀬に、杏奈は呆れたように肩をすくめた。
「集中力の維持には糖分はいるんよ」
「そうなん?」
「まだまだ甘いねえ」
そう言って鞄の中を探り、小さな紙袋を差し出した。
「あ、これ」
河瀬が封を開けると、中から現れたのは、ゴッホのヒマワリのキーホルダーだった。
「四国の美術館のお土産じゃ」
杏奈が言うと、河瀬はそれをまじまじと見つめる。
「これは知っとる」
「何十億もする絵のやつじゃろ?」
「見るとこ、そこなんじゃね」
「縁起もんやね、ありがとう」
杏奈は肩をすくめる。
「なんや、複雑じゃなあ」
「あと、伊勢神宮じゃけど」
その一言で、河瀬の手が一瞬だけ止まる。
「うち、応援いくけえ。頑張りんさいね」
「ほんまか? ありがとう!」
伊勢神宮の大鳥居の前。
久島を中心に、六星大弓道部が円陣を組んでいた。
「いいか、ここまで来たなら、天辺取るぞ!」
「一本一本集中して、魂込めて、頑張ろう!」
「押忍!」
そのまま一同は、決戦の場へと向かっていく。
河瀬の矢筒(やづつ)には、ヒマワリのキーホルダーが揺れていた。
彼らが移動を終えると、その場に一台のバスが到着して、杏奈が降り立つ。
一つ背伸びをすると、大鳥居を見上げ、ぽつりと呟いた。
「河瀬くん、青島さんと、また勝負できるんじゃね」
すると、どん、と体に衝撃が走り杏奈の身体が大きく揺れた。
「あ〜すいもはん」
「おい、でかかな〜て、上ばっかり見ちょって」
「大丈夫ですか?」
低く、どこか飄々とした声だった。
「いえ、私もボーっと突っ立ってましたから」
顔を上げると、そこに立っていたのは、黒い弓道着の男。
野武士のような風貌に、肩には、央治大、青島の刺繍。
杏奈が思わず、その顔を見つめると、男は少しだけ困ったように笑った。
「おいの顔に、なんかついちょりますか?」
「おはんみたいな、わっぜ、もじょか子に見つめられると、照れっとよ」
「あなたは?」
問いかけると、男は、まっすぐに名乗った。
「おい? 央治大学弓道部一回生」
「青島邦彦です」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。