第40話 青島邦彦
伊勢神宮の大鳥居の前で、先ほど名乗ったばかりの青島を前に、杏奈はその場で固まっていた。
「あなたが、青島……さん?」
青島はぱっと顔を明るくした。
「なん? おいのこと知っちょっとか? 嬉しかよ」
「おいは、東京に出て、もじょかおごじょを沢山見たとよ」
「じゃっどん、おはんごたる、よかおごじょは、そうおらんど」
杏奈に返事をする隙を与えない。
「良かったら、連絡先、教えてもらえんとか?」
杏奈は、目を瞬かせた。
(え? 何? もじょか? おごじょ?)
聞き慣れない響きに頭が追いつかない、その時だった。
「こら、邦!」
鋭い声が飛び、振り向くと私服姿の安積が立っていた。
青島は目を丸くしたあと、すぐに表情を崩す。
「おお、これまた良かおごじょ! 今日はついとりもすな」
安積は呆れたように眉をひそめた。
「んだもしたん、おはん、彼女の姉さんの前で、なん堂々とナンパしちょっとか?」
青島は、きょとんとしたまま安積を見つめる。
「はあ? 彼女の、姉さん? ……ゆか姉!」
次の瞬間、目を見開いた。
「なんね、その格好」
「服もメイクも別人じゃなかね」
安積は、ため息をついて肩をすくめる。
「立場っちゅうのがあっでな、ギャルで弓は引けんとい」
杏奈は、安積と青島のやり取りを見比べながら、目を丸くした。
「え? 安積さん、お知り合いなんですか?」
安積は呆れた顔のまま、あっさりと言う。
「私の妹の彼氏なの、こいつ」
「ええ!?」
杏奈は思わず声を上げた。
「なんか、狭いですね」
安積は鼻で笑うように、青島を親指で指した。
「河瀬、こいつのこと、かなりカッコよく話してるでしょ?」
「実際はこんな風船みたいに軽いやつなんだよ」
その言葉に、青島が眉をひそめる。
「河瀬? 河瀬って言いもしたか?」
安積は杏奈のそばに立ち、笑顔で肩を組んだ。
「こん子は、河瀬が応援して欲しくて呼んだ子やっど」
「おはんなんぞ、お呼びじゃなかとよ」
青島は杏奈を見て、心底羨ましそうに言った。
「河瀬くんの……こんな、わっぜもじょか子が、羨ましい」
安積はすかさずスマホを取り出し、そのまま青島の顔を一瞥して自分の耳にあてがった。
「ゆな? いま邦のやつが……」
「すいもはん! まっこてすいもはん!」
慌てて両手を合わせ、それから杏奈に向き直る。
「そいじゃ、えーと……」
「田澤、杏奈です」
思わず名乗ると、安積がすぐに突っ込んだ。
「律儀に名乗らなくても良いよ!」
青島は一度大きくうなずく。
「杏奈さんか」
「今日は河瀬くんとまた勝負すっとじゃ」
そこまでの軽さが、すっと消えた青島の目が、まっすぐ前を見据えた。
「じゃっどん、おいは、絶対に負けん」
そう言い残してその場を立ち去る。
安積は、その背中を見ながら、大きく息をついた。
「まったく、あいつのあれは挨拶みたいなもんだから」
「安積さん、今日は試合に出ないんですか?」
安積は肩をすくめた。
「女子は先週だったの」
「結果は、まあ察してね」
「なんか、すみません」
思わずそう言うと、安積は小さく笑った。
「気を使わせてごめんね」
「ま、私もやっと引退だよ」
「……これからは思う存分、ふふっ」
「は、はあ」
意味深な笑みに、杏奈は曖昧にうなずくしかない。
「じゃあ、見に行こうか、おいで」
観覧席の六星大に割り当てられた位置に、杏奈を連れた安積が姿を見せる。
その瞬間、座っていた部員たちが一斉に立ち上がった。
「お疲れ様です!」
声が揃うと安積は、顔をしかめて手をひらひらと振る。
「あー、もうめんどくさ」
「私もうパンピーなんだから、そういうの良いから」
その空気に、杏奈は少しだけ目を丸くした。
(体育会系って大変だ)
安積は顎で道場の方を指す。
「これから早速個人戦だから、そろそろ始まるよ」
視線の先、道場にはすでに選手たちが整列しており、張り詰めた空気が、観覧席まで伝わってくる。
杏奈は思わず姿勢を正し、静かに息を呑んだ。
紺、白、水色、黒。
さまざまな色の道着をまとった選手たちが、ひとりずつ静かに弓を引き、矢を一射放つと、そのまま退場していく。
杏奈は目を瞬かせた。
「あれ? 一本でおしまいですか?」
隣の安積が、目を離さないまま答える。
「個人戦は射詰(いづめ)って言ってね」
「全国のリーグの成績上位者が、一射ずつ立って、抜いたら外れていくサバイバルだよ」
「全員、的中ですね」
「そりゃあ、全国のリーグの上位だもん」
「あ、そうか」
杏奈は小さくうなずき、改めて道場へ視線を戻した。
二立目。
その中に、青島の姿が現れる。
(青島さん)
思わず目で追うと、安積が小さく呟く。
「邦と河瀬の違い、よく見てな」
青島の射順が回ってくると、杏奈は息を止めるようにして見つめた。
「あれ?」
河瀬のような鋭い視線ではない。
どこか虚ろで、ただ遠くを眺めているだけのような目。
「なんじゃろう? 河瀬くんみたいな、迫力が感じられん」
その呟きに、安積が静かに答えた。
「無だよ」
「無、ですか?」
「河瀬が、徹底的な集中力で自分と的だけの世界にいるなら」
青島は、会に入る。
その形は精密だった。
無駄がなく、美しい。
けれど、漂う気配はまるで違う。
河瀬のような殺気はない。
張りつめてもいない。
ただ、空気のようにそこにあった。
安積の声が、すっと落ちる。
「邦は、自分がもう的の中にいるんだ」
杏奈は固唾をのむ。
次の瞬間、放たれた矢が、真っ直ぐに的の中心を射貫いた。
次の立ち。
選手たちの列の中に、久島と河瀬が並んで入って来た。
(河瀬くん)
杏奈の胸が、わずかに高鳴る。
河瀬の射順。
初めてリーグ戦を見に来た時のように、一瞬だけ杏奈と目が合った。
その瞬間、ふっと表情が和らぐ。
けれど、次の瞬間には、もう違っていた。
的へ目を向けた河瀬の視線が、鋭利な刃物のように変わる。
打起し。
引き分け。
会。
一連の動作は、流れるようで、寸分の狂いもない。
やがて、その視線がさらに鋭さを増した瞬間、矢が放たれる。
パァン!
張り詰めた的紙が、乾いた音を響かせた。
安積は、軽く肩を回しながら杏奈を見る。
「何よ、そんなに力入れちゃって」
「先は長いよ」
「こんな緊張感、初めてです」
「そう? 私からしたら、舞台のほうがよっぽど緊張すると思うけどな?」
「一瞬のことで、結果が全く変わるんですよね? 目が離せなくて」
その言葉の直後。
続いて、久島の矢も的を射抜く。
安積は静かに頷いた。
「まあ、みんなそれぞれの代表なんだ」
「本当の勝負はね、六射目からだよ」
「?」
杏奈が顔を向けると、安積は口元にわずかな笑みを浮かべた。
「見てのお楽しみ、てね」
五射目が終了しても、脱落者は、ほとんどいない。
当然のように、久島も、河瀬も、青島も残っている。
「五射目を終了いたしましたので、ただいまから的替え(まとがえ)を行います」
「しばし、お待ち下さい」
アナウンスが響くと、安土(あづち)の的が、静かに外されていく。
杏奈は身を乗り出した。
「あれは?」
「八寸的(はっすんまと)」
「今までの的が直径三十六センチの尺二寸(しゃくにすん)」
「あれは二十四センチ」
「射場(しゃじょう)から的までの距離は、28m」
「かなり小さく見えるかんね」
杏奈は息をのむ。
「本当の勝負って」
「こういうことなんですね」
的が変わり、試合が再開される。
先ほどまでと同じように選手たちは弓を引くと、最初の選手の矢が、的を外れる。
場内がわずかにざわつく。
続く二人も、つづけて外した。
さっきまで当たり前だった的中が、急に遠のいた気がした。
「的の大きさで、こんなに変わるんですね?」
杏奈が思わず呟くと、安積は小さく首を振る。
「それもあるけど、流れだよ」
「流れ、ですか?」
「弓道は、一人ずつ順番に射(い)る競技だから」
「良くも悪くも、流れに左右されるんだよ」
安積の視線は、道場から外れない。
「特に、今までみたいに的中が続いていたら、一瞬気が抜けて、前につられちゃうんだ」
「技術云々の問題じゃないよ」
七射目。
また数人が列から外れていく。
八射目。
さらに人数が減る。
九射目に入ると、これまで入れ替わりで進んでいた立ちが、一つにまとまる。
安積の声が、静かに落ちた。
「ここからは、連続して立つかんね」
「集中力もだけど、体力も削られていくよ」
十射目。
二人が外れる。
十一射目。
久島を含む三人が脱落した。
射場に残ったのは、三人。
東京代表、央治大学、青島邦彦。
関西代表、六星大学、河瀬清彦。
関東代表、条東大学、瀧澤瞬時。
安積が、ふっと顎を上げた。
「あの瀧澤が去年の優勝者だよ」
杏奈は、道場に立つもう一人の選手へ目を向けた。
「関東と東京で別なんですか?」
「東京はそんだけ大学が多いってことなんだろうね」
「なるほど」
杏奈は小さく頷き、改めて三人を見つめる。
青島。
瀧澤。
そして、河瀬。
射場では三人が一旦控えに腰を下ろし、入れ替わるように、十一射目で脱落した三人が入場してきた。
「入賞は六位までだから、これから遠近で順位を決めるんだ」
安積の説明に、杏奈は首を傾げる。
「遠近?」
「十一射目の脱落者三人が引いて、一番的の中心に近かった者から順位を決めるんだよ」
三人がそれぞれ弓を引く。
放たれた矢は、三本とも的に収まった。
的場に出た審判が、静かに位置を確かめていく。
やがて、中心に最も近い矢から順に引き抜かれていった。
久島の矢は、二番目に引き抜かれた。
安積が苦笑する。
「五位かあ……たく、ああいうところが了なんだよなあ」
射場はまた、青島と瀧澤、そして河瀬の三人に戻った。
十三射目。
三人揃って的中。
杏奈には、河瀬の集中力がさらに研ぎ澄まされていくのがわかった。
青島は一貫して虚無のまま。
もはや景色の一部として、そこに存在しているようにさえ見える。
十四射目。
瀧澤の放った矢が、
ペチィ!
と、乾いた不思議な音を立てた。
客席の視線が、一斉に的場(まとば)へ向かう。
矢は、的の木枠をかすめ、斜めに安土へ突き刺さっていた。
安土脇の的中板の表示が、静かに――×へ返される。
ふう、と一息つき、苦笑した瀧澤は、退場の際、すれ違いざまに手を伸ばす。
控えのパイプ椅子に腰を下ろしていた河瀬と青島に、軽く拳の甲を合わせ、短く声をかけて、そのまま場を去った。
射場には、再び静けさが戻る。
河瀬と青島。
ついに、二人だけの勝負が始まる。
客席に、久島がやって来た。
そのかたわらには、つい先ほどまで射場にいた瀧澤の姿もある。
「あれ? 田澤さん? 来てくれてたの? 舞台の準備で忙しいのに」
「どうせ河瀬が無理言ったんだろ、ごめんね」
瀧澤は軽く手を上げた。
「ちっす、瀧澤っす」
「安積さん、御無沙汰っす」
「瀧澤くん、お疲れさまだったね」
安積がそう返すと、瀧澤は肩をすくめて笑った。
「ほんとっすよ、なんか、すげえバケモンたちが現れたなって」
「しばらく俺の天下だと思ってたのに」
「で、そこのなまらめんこい子は?」
久島があっさり答えると、すかさず安積が咳払いを挟む。
「河瀬の彼女」
「んほん!」
久島は少しだけ口元を緩めて言い直した。
「みたいな感じの、高校の同級生らしい」
「みたいってなんすか?」
「遠くまでわざわざ応援に来るくらいなら、それもう付き合っちゃってるっしょ」
「君、名前は?」
「田澤、杏奈です」
反射的に名乗った杏奈に、安積がすぐ釘を刺す。
「また、聞かれたからって誰彼構わず名前教えないほうがいいよ」
瀧澤はそんなやり取りも気にせず、にやっと笑った。
「杏奈、ね」
「じゃあ杏ちゃん」
「今日決めちゃいなよ、河瀬が勝ったらさ」
「でも待てよ」
「負けたら負けたで慰めて、ってのもありか」
「はは、そうですね」
乾いた笑いで返しながら、杏奈は心の中でそっと首を傾げる。
(なんだか、距離感おかしい人じゃなあ)
射場の椅子に並んだまま、二人は的から目を離さなかった。
青島が、ぽつりとこぼす。
「あん時んこと、思い出すなあ」
「インターハイを」
河瀬も視線はそのままに応じる。
「おう、そうじゃな」
「その後も、あんたにゃあ借りばっかり作ってしもうとる」
「……あの時も」
青島の口元がわずかに緩む。
「気んするこつなか」
「今ここで試合うとる、そいが全てじゃっど」
その言葉に、河瀬の目がさらに鋭さを増した。
「ほじゃけど、今日勝つのは、俺の方じゃけぇの」
「おう!」
審判の声が響く。
「はじめ!」
青島が低く笑う。
「受けて立っとよ!」
二人の体が、同時に立ち上がった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。