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PLANET LAND - 彗星から惑星へ -

305,817 字

青春群像劇、家族の物語、成長譚

"彗星のように駆け抜けた日々から、自らの重力で輝く惑星へ。これは、出会いと別れを繰り返し、居場所を見つける若者たちの物語。"

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第41話 好敵手

 十五射目。

 河瀬と青島、二人の矢は、当たり前のように的を捉えた。
 射位(しゃい)を下がり、二人は再び控えの椅子に腰を下ろす。
 河瀬は介添(かいぞえ)の部員から受け取った、ぎり粉(こ)という熱して固め、粉にした松ヤニを、弓懸(ゆがけ)の親指に擦りつけていた。
 その手つきにも、無駄はない。
 客席の杏奈は、依然として二人から目を離せずにいた。

「いつまで続くんでしょう」

 杏奈が小さくこぼすと、久島が射場から目を離さないまま答えた。

「まだまだ余裕があるからな、あの二人には」

 瀧澤が、気楽な調子で続ける。

「そもそも、大学弓道で使う星的(ほしまと)は特殊なんさ」
「目玉みたいに、白の真ん中に直径十二センチの黒点があるっしょ」

 その言葉の最中、河瀬の弓がゆっくりと打ち起こされる。

「日頃から、その小さい黒点に狙いを定めてるから」

 引き分け。

「的が小さくなろうが関係ない」

 会。

 瀧澤の声は続いているのに、杏奈は河瀬の姿に釘付けになっていた。

「特に、今のあの二人は、脳内物質がドバドバ出てる状態だから」

 次の瞬間、矢が放たれる。

「ひょっとして、今日中に終んないかも」

 パァン!当たり前のように的を捉える。
 
 青島が手元に視線を落とすと、安積が話し始めた。

「河瀬はそうだろうね」
「黒点に意識を集中させてる」

「青島さんは違うんですか?」

 その時、青島の打起しが始まる。
 相変わらず自然だった。
 まるで最初から、その空間の一部としてそこに在ったものが、ただ動き出しただけのように見える。

「邦は、そもそも狙いなんてつけちゃあいないよ」

 引き分け。

「狙ってないんですか……?」

 会。

「あいつの頭の中は、弓を引いてる時は空っぽだよ」
「だから、続けて全く同じ射形になる」

 離れ。

 安積は目を細めたまま、ぽつりと結んだ。

「邦は、そういう奴なんだ」

 パァン!

 青島の放った矢も、的の中心の黒点を捉える。
 その瞬間、周囲がざわめき始めた。

「おいおい、十六射もあっさりかよ」

「八寸になってから十射だぞ」

「すげえな、あの二人」

「皆、よく見とけよ」
 
 瀧澤が半ば呆れたように笑う。

「やれやれ、真面目に練習すんの、馬鹿らしくなってきたべや」
「あいつらほんと、バケモンだわ」

 久島も苦く笑って頷いた。

「全くだよ、しかも、同じ世代に二人が一緒ってのがな」

 その言葉に、杏奈は小さく首を振った。

「それは、違うと思います」

 安積がわずかに目を向ける。

「田澤さん……」

 杏奈は射場を見つめたまま、静かに続けた。

「河瀬くんは、青島さんがいたから、ここまで来たんだと思います」

 その一言に、瀧澤の表情がふっと穏やかになる。

「杏ちゃん、わかってんじゃん」
「それ、やっぱもう付き合ってるべさ」

「違いますよ」

 杏奈が即座に返すと、瀧澤は肩を揺らした。

「照れなくても良いべよ」

「もう、その辺にしてやれよ」

 久島が苦笑混じりに割って入る。
 その横で、安積はスマホの着信に目を落としていた。

【やっとバイト終わったとよ】
【お姉、邦はどげんね?】

 安積はすぐにビデオ通話へ切り替える。

「ゆな、まだ続いちょるわ」

 そう言ってスマホを射場へ向ける。

『相手はまた河瀬くん?』

「じゃっど、次は十七射目よ」

『十七!? そいはまた、わっぜか事やね』

 安積は小さく笑い、さらにスマホの向きを整えた。

「まだまだ続きそなもんよ」

 射場では、青島が静かに立っていた。
 ただ自然に、景色の中へ溶け込むように弓を構えていく。

「あれ? 引く順番が変わってる」

 杏奈が小さく声を漏らす。
 久島は射場を見たまま答えた。

「二人になると行射(ぎょうしゃ)順が交互になるんだ」
「不公平にならないようにね」

 その言葉の間に、青島の矢が放たれる。
 十八射目も、迷いなく的中した。
 安積が口元を緩める。

「今日の邦、凄かろ?」

『お姉、ないごて画面を戻しちょっと? ちゃんと射場を映してくい』

 画面の向こうで、ゆなが声を上げる。

「あ、ごめんごめん」

 安積がスマホの向きを直すと、弾んだ声が返された。

『きゃあ、河瀬くん』
『やっぱカッコよかねぇ』

「あんたらいったい、どげんなっちょるの?」

 河瀬は静かに目を閉じていた。
 呼吸だけが、深く整えられていく。
 やがて、ゆっくりと瞼が開く。
 その瞬間、眼光がさらに鋭さを増した。
 ゆっくりと弓を打ち起こした。
 長く息を吐く。
 そして、ゆっくり息を吸い込みながら引き分けていく。
 会に入る。
 静まり返った道場に、きりきりと弦を引き絞る音だけが細く響いた。
 すると久島が思わず呟く。

「……あれは」

 次の瞬間、矢が放たれる。

 パァン!

 その乾いた音に、客席から思わず拍手がこぼれた。

『はあ、カッコよかねえ』

 画面の向こうで、ゆながうっとりした声を漏らすと、安積が半ば本気で呆れたように返した。

「もう、呆れっとい、あんた」

 しかし、久島の顔から笑いが消えた。

「瞬時」

 低く呼ばれて、瀧澤もすぐに表情を変える。

「はい、これ先が見えたかも」

 杏奈は二人を振り返った。

「どうかしたんですか」

 久島は射場から目を離さないまま答えた。

「いつもより長いんだよ、河瀬の会」
「ほんの一秒弱だけど」

「そんなに違うものなんですか?」

 瀧澤が静かに言う。

「迷いが出てんだべさ、離すタイミングの」

 その言葉に、杏奈ははっとして射場の控えへ目を向けた。
 椅子に腰を下ろす河瀬の肩が、わずかに上下している。
 久島の声が、さらに低く落ちた。

「本来、離れってのは会の延長で、自然に出るもんだ」
「そのタイミングで、的中が左右される」

 瀧澤が引き取るように続ける。

「それが、狂い始めてんだ」

 射場。
 河瀬は介添から渡された、ふで粉という灰色の粉を左手に受け、掌に馴染ませると、そのまま弓の握り革へ擦りつける。

(手汗が、止まらん)
(暑うもないのに、どうしてじゃ)

 隣へ目をやると、青島は涼しい顔のまま的を見つめ、静かに腰を下ろしていた。

(あの時と、一緒じゃ)

 ふいに、高校時代の夏が胸の奥に蘇る。
 インターハイ個人決勝。
 河瀬は荒い呼吸のまま、弓懸を弦へ挟み込む。
 額にも背中にも汗がにじんでいた。

(あの時の)

 打起しから会へ向かう流れの中で、何かが噛み合わない。
 弓を押す左手も、弦を引く右手も、いつもの感覚からわずかにずれていく。
 とくに右手だった。
 本来なら肘で受けるはずの弦の重さが、感じたことのない手首のあたりへ乗ってくる。

(あの時の感覚)

 そして放った矢は、的をかすめて安土へ突き立つ。

 サクッ。

 砂を刺す音だけが、むなしく響いた。
 その音は、的を射抜いた時の乾いた響きより、ずっと大きく耳にまとわりついた。

(違う、違う)

「はじめ!」

 審判の声で、意識が一気に引き戻される。
 河瀬は射位に立ち、矢をつがえる。
 ふと客席へ目をやると、杏奈が祈るように両手を胸の前で重ねたまま、じっとこちらを見つめていた。

(今日は……あの人がおるじゃろうが!)

 河瀬はそっと目を閉じる。
 唇が、かすかに動く。

「絶対に、負けんけぇ」
「田澤さん……」
(杏奈さん、俺は)

 次の瞬間、河瀬は目を見開いた。

(勝つために、ここにおるんじゃけえの!)

 その一射も、二人とも的中した。
 客席では、周囲のざわめきが止まらない。

「おいおい、二十いったよ」

「どこまで続くんだ? これ」

「やばいな、鳥肌が」

 杏奈は両肩を抱くように身を縮めた。
 身体の震えも止まらない。

「もう、無理です」
「見ていられません」

 杏奈の背中を安積が優しくさすり、久島が静かに言った。

「ここまで来たら、どっちが勝ちとか関係ないよ」
「二人ともよくやってる、出来すぎなくらいだ」

「怖いです、河瀬くん……青島さんに勝つためだけに頑張ってきたのに」

 すると、瀧澤が口を挟む。

「だったら、勝っちまったら、そのあとどうすんべや?」

「え?」

「青島に勝っちまったら、目標なくなんべよ」
「だから、どっちに転んでも、しっかり見守ってやりなよ」

「そうですね」

 安積が何かを思い出したように久島を見た。

「そういや了、介添って部員じゃなきゃいけない規定あったっけ?」

「ないはずだ」
「道着じゃなくてもいい、リボン付けてたら」

「よし、田澤さん、行くよ」

 安積が杏奈の手を引いた。

 射場の河瀬の掌には、またじわりと湿り気が滲んでいた。
 収まる気配はない。
 掌の湿りを取り、握り革をすべらせるために、河瀬は背を向けないまま左手を上げる。
 差し出されたふで粉の缶に手を入れ、一握り。
 灰の塊を何度か軽く握り直し、さらさらと砂時計のように缶へ戻していく。
 ふと視線を上げた、その瞬間、河瀬の表情が固まる。

「え、なんで?」

 そこに立っていたのは、杏奈だった。

「安積さんが、連れてきてくれたんよ」

 思いがけない声に、河瀬の目がわずかに揺れる。

「ほうか、嬉しいわ、ここで見てくれよるんじゃの」

「うん、ほじゃから頑張りんさいよ」

 その一言で、河瀬の顔がふっと緩む。
 乱れていた呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻していった。

「やっぱり強いわ、あいつは」

 杏奈はまっすぐ河瀬を見る。

「うちも見とった」
「けど、河瀬くんも凄いよ」

「うん、やってくるけぇの」
「やるしかないけぇ」

 その横で、青島がちらりと二人を見た。

(よかね、そげな、わっぜもじょか子に……)

 そこから客席へ目を向けると、安積がスマホを射場へ向けたまま誰かと話しているのが見える。

(ゆか姉……ひょっとしたら、ゆなに繋いでくれとってか?)
(なら、おいも、格好よかとこ見せんといかんどい)

 次の瞬間、青島の気配が、すっと薄くなる。

「はじめ!」

 二人が立ち上がり、射位へ進む。

 二十射目。

 青島の姿は、より一層静かな空気の中へ溶け込んでいく。
 そこに立っているのに、まるで景色の一部のようだった。
 その一方で、後ろに立つ河瀬の気配はまるで違う。
 殺気のようなものが、さらに鋭く研ぎ澄まされていた。

(青島さんは)

 杏奈の中に、仄暗く、無限に広がる空間が現れる。

(存在が掴めない、空間そのもの)

 青島の矢が放たれ、迷いなく的を射抜いた。

(河瀬くんは)

 その空間の奥に、小さな一粒の光が灯る。

 河瀬が弓を引き分ける。

(河瀬清彦くんは)

 青白いその光が、凄まじい速さでこちらへ近づいてくる。

 会。

(彗星じゃ)

 放たれた矢が、光の尾をたなびかせたような錯覚だけを残し、真っ直ぐ的へ吸い込まれていった。

「河瀬くん、だいぶ余裕出てきとるよ」

「田澤さんがおってくれるからじゃ」

「河瀬くん?」

「ほじゃけの、どこまでも喰らいついたる言うとろう?」

「うん」

 二十一射目。
 
 両者的中。
 観客席には、静かなざわめきのあと、的中を讃える拍手が湧き上がる。
 そこにいる誰もが、もう射場の二人から目を離せなくなっていた。

 二十二射目。

 行射順は青島からだった。
 変わらず流れるように引き分け、会に入る。
 しかし杏奈は、そこにわずかな揺らぎを感じた。

(なんとなく、引き分けるのが、早くなっとりゃせん?)

 それでも会の形は崩れず、水平を保っている。

(気のせいじゃろか)

 放たれた矢は的中した。
 だが、黒点からわずかに外れた白の部分だった。

(いかん、焦っとうとじゃ)
(落ち着かんば)

 青島は椅子に腰を下ろすと、大きく深呼吸をする。
 続く河瀬の行射。
 対照的に、所作には何ひとつ乱れがない。
 静かに引き分け、深く会に入る。
 彼の視線の先で、的は揺らぐことなく、くっきりと輪郭を保っていた。
 矢は、口割(くちわり)の位置に正確に収まっている。
 そして河瀬の目が、さらに大きく見開かれた、その時だった。

(……え?)

 プツン。

 矢は真っ直ぐに的へ向かう。
 けれど、それは明らかに的中の音ではなかった。

 ピチぃっ!

 何かが弾けたような音。
 射場では、真ん中から切れた弦が二つに分かれ、ひらひらと床へ落ちてくる。
 河瀬の握る弓だけが、まっすぐに伸びたまま残っていた。
 河瀬は落ち着いて、作法通りに切れた弦を回収し、そのまま控えへ下がった。

「田澤さん、代え弦(かえづる」)

「これかいね」

 杏奈が差し出したのは、小さな竹細工のような輪だった。
 そこに巻き取られた弦を受け取り、河瀬は無言のまま張り直しにかかる。
 その間も、的中板の表示は動かない。
 的前審判が、確認のため安土へ走った。
 客席で、久島が天を仰ぐ。

「あの音は、どっちだ……?」

 瀧澤も身を乗り出すようにして言う。

「枠は捉えた、けど、あとは……」

 射場では、河瀬と青島がじっと的場の様子を見つめていた。
 杏奈は両手を重ね、祈るように唇を結ぶ。

「お願い、お願いします」

 やがて、審判の確認が終わり、判定板が、翻った。

 ×。

 同時に、場内アナウンスが響く。

「先程の河瀬選手の行射の結果をお知らせします」

「河瀬選手の矢は、的枠の内側から刺さってはおりましたが、そのまま枠を貫通し、矢尻が的の外側の安土に刺さっておりましたので、的中とは見なしません」

「以上を持ちまして、優勝は、東京都学連代表」
「央治大学、青島邦彦選手に決定いたしました」

 その瞬間、客席から割れんばかりの拍手が湧き上がった。
 軽く項垂れた河瀬の口から、息が漏れる。

(負けた……か)

 それでも、ゆっくりと顔を上げた。
 口元がわずかに緩み、河瀬は静かに拍手を始める。
 杏奈は思わず涙ぐんだ。

「そんな……そんな」

「そんな顔しなすんな」

「河瀬くん?」

「凄かろう? 青島」

 河瀬は杏奈と目を合わせて微笑む。

「田澤さんも、讃えてやりんさい」
「それに……」

 そこで少しだけ息をつく。

「そう簡単に負けられちゃ、こっちも面白うはないけぇの」

 杏奈は涙を拭いながら、小さく笑った。

「やっぱり、強いわ」
「河瀬くんは」

 やがて二人は立ち上がると歩み寄り、がっしりと手を握り合った。

「紙一重じゃっど」
「次の射やったら、正直自信なかったとじゃ」

 青島がそう言うと、河瀬は少し肩の力を抜いたように笑う。

「それなりに、成長しとったつもりじゃったが、やっぱり届かんかったわ」

「おいも、進化しちょっとよ」
「じゃっどん、おはんとやるんは、やっぱり楽しかよ」

 河瀬も、その手を離さないまま返した。

「次は、負けんけぇの」

「おう、おいもじゃ」

 客席の拍手は、なおも衰えることなく鳴り響いていた。

 大鳥居前のバス停。

「忙しいのに、遠くまですまんかったの」

 河瀬がそう言うと、杏奈は首を振った。

「そんなことないよ、凄いもの見せてもろうたけぇ」
「あの緊張感、お芝居にも生かせんか、考えてみるわ」

 河瀬は少し照れたように笑う。

「あ、バス来たの、ほじゃあ」

「明日の団体戦も、頑張りんさいね」

 バスの扉が開くと、杏奈はそのまま乗り込もうとして、ふと何か思い出したように振り返った。

「あと、ちゃんと喜びんさいよ」

「何を?」

「何を?って、準優勝じゃろう!」
「立派やないかいね」

 河瀬は一瞬きょとんとして、それからようやく柔らかく笑った。

「ふふっ、そうじゃな」

「ほいじゃあね」

 杏奈の乗ったバスは、夕日に照らされながら少しずつ小さくなっていった。

 久羽乃町では、いずみ亭の前に立つ志織は、入口のサルーンドアを見つめる。

「いいところじゃない……けど」

 スマホの画面をそっと覗く。

「二時間も前に来ちゃった」
「どうしよう」
「どこかで時間潰してこようか」

 その時だった。

「あの〜、うちの店に、ご用ですか?」
「お食事なら、いまやってますよ」

 声をかけてきたのは、女子高生だった。
 志織ははっとして振り返る。

「あ、あぁ、ごめんなさい」
「前に突っ立ってて」

 そして、その顔を見て目を見開く。

「うちの店、て言うことは……あなた、梨夏ちゃん?」

「はい、そうですけど、あなたは?」

 志織は少しだけ笑った。

「杏奈ちゃんから聞いたのよ」
「私は、あなたのお父さんの、昔の友達なんだよ」

── 第39章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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