第41話 好敵手
十五射目。
河瀬と青島、二人の矢は、当たり前のように的を捉えた。
射位(しゃい)を下がり、二人は再び控えの椅子に腰を下ろす。
河瀬は介添(かいぞえ)の部員から受け取った、ぎり粉(こ)という熱して固め、粉にした松ヤニを、弓懸(ゆがけ)の親指に擦りつけていた。
その手つきにも、無駄はない。
客席の杏奈は、依然として二人から目を離せずにいた。
「いつまで続くんでしょう」
杏奈が小さくこぼすと、久島が射場から目を離さないまま答えた。
「まだまだ余裕があるからな、あの二人には」
瀧澤が、気楽な調子で続ける。
「そもそも、大学弓道で使う星的(ほしまと)は特殊なんさ」
「目玉みたいに、白の真ん中に直径十二センチの黒点があるっしょ」
その言葉の最中、河瀬の弓がゆっくりと打ち起こされる。
「日頃から、その小さい黒点に狙いを定めてるから」
引き分け。
「的が小さくなろうが関係ない」
会。
瀧澤の声は続いているのに、杏奈は河瀬の姿に釘付けになっていた。
「特に、今のあの二人は、脳内物質がドバドバ出てる状態だから」
次の瞬間、矢が放たれる。
「ひょっとして、今日中に終んないかも」
パァン!当たり前のように的を捉える。
青島が手元に視線を落とすと、安積が話し始めた。
「河瀬はそうだろうね」
「黒点に意識を集中させてる」
「青島さんは違うんですか?」
その時、青島の打起しが始まる。
相変わらず自然だった。
まるで最初から、その空間の一部としてそこに在ったものが、ただ動き出しただけのように見える。
「邦は、そもそも狙いなんてつけちゃあいないよ」
引き分け。
「狙ってないんですか……?」
会。
「あいつの頭の中は、弓を引いてる時は空っぽだよ」
「だから、続けて全く同じ射形になる」
離れ。
安積は目を細めたまま、ぽつりと結んだ。
「邦は、そういう奴なんだ」
パァン!
青島の放った矢も、的の中心の黒点を捉える。
その瞬間、周囲がざわめき始めた。
「おいおい、十六射もあっさりかよ」
「八寸になってから十射だぞ」
「すげえな、あの二人」
「皆、よく見とけよ」
瀧澤が半ば呆れたように笑う。
「やれやれ、真面目に練習すんの、馬鹿らしくなってきたべや」
「あいつらほんと、バケモンだわ」
久島も苦く笑って頷いた。
「全くだよ、しかも、同じ世代に二人が一緒ってのがな」
その言葉に、杏奈は小さく首を振った。
「それは、違うと思います」
安積がわずかに目を向ける。
「田澤さん……」
杏奈は射場を見つめたまま、静かに続けた。
「河瀬くんは、青島さんがいたから、ここまで来たんだと思います」
その一言に、瀧澤の表情がふっと穏やかになる。
「杏ちゃん、わかってんじゃん」
「それ、やっぱもう付き合ってるべさ」
「違いますよ」
杏奈が即座に返すと、瀧澤は肩を揺らした。
「照れなくても良いべよ」
「もう、その辺にしてやれよ」
久島が苦笑混じりに割って入る。
その横で、安積はスマホの着信に目を落としていた。
【やっとバイト終わったとよ】
【お姉、邦はどげんね?】
安積はすぐにビデオ通話へ切り替える。
「ゆな、まだ続いちょるわ」
そう言ってスマホを射場へ向ける。
『相手はまた河瀬くん?』
「じゃっど、次は十七射目よ」
『十七!? そいはまた、わっぜか事やね』
安積は小さく笑い、さらにスマホの向きを整えた。
「まだまだ続きそなもんよ」
射場では、青島が静かに立っていた。
ただ自然に、景色の中へ溶け込むように弓を構えていく。
「あれ? 引く順番が変わってる」
杏奈が小さく声を漏らす。
久島は射場を見たまま答えた。
「二人になると行射(ぎょうしゃ)順が交互になるんだ」
「不公平にならないようにね」
その言葉の間に、青島の矢が放たれる。
十八射目も、迷いなく的中した。
安積が口元を緩める。
「今日の邦、凄かろ?」
『お姉、ないごて画面を戻しちょっと? ちゃんと射場を映してくい』
画面の向こうで、ゆなが声を上げる。
「あ、ごめんごめん」
安積がスマホの向きを直すと、弾んだ声が返された。
『きゃあ、河瀬くん』
『やっぱカッコよかねぇ』
「あんたらいったい、どげんなっちょるの?」
河瀬は静かに目を閉じていた。
呼吸だけが、深く整えられていく。
やがて、ゆっくりと瞼が開く。
その瞬間、眼光がさらに鋭さを増した。
ゆっくりと弓を打ち起こした。
長く息を吐く。
そして、ゆっくり息を吸い込みながら引き分けていく。
会に入る。
静まり返った道場に、きりきりと弦を引き絞る音だけが細く響いた。
すると久島が思わず呟く。
「……あれは」
次の瞬間、矢が放たれる。
パァン!
その乾いた音に、客席から思わず拍手がこぼれた。
『はあ、カッコよかねえ』
画面の向こうで、ゆながうっとりした声を漏らすと、安積が半ば本気で呆れたように返した。
「もう、呆れっとい、あんた」
しかし、久島の顔から笑いが消えた。
「瞬時」
低く呼ばれて、瀧澤もすぐに表情を変える。
「はい、これ先が見えたかも」
杏奈は二人を振り返った。
「どうかしたんですか」
久島は射場から目を離さないまま答えた。
「いつもより長いんだよ、河瀬の会」
「ほんの一秒弱だけど」
「そんなに違うものなんですか?」
瀧澤が静かに言う。
「迷いが出てんだべさ、離すタイミングの」
その言葉に、杏奈ははっとして射場の控えへ目を向けた。
椅子に腰を下ろす河瀬の肩が、わずかに上下している。
久島の声が、さらに低く落ちた。
「本来、離れってのは会の延長で、自然に出るもんだ」
「そのタイミングで、的中が左右される」
瀧澤が引き取るように続ける。
「それが、狂い始めてんだ」
射場。
河瀬は介添から渡された、ふで粉という灰色の粉を左手に受け、掌に馴染ませると、そのまま弓の握り革へ擦りつける。
(手汗が、止まらん)
(暑うもないのに、どうしてじゃ)
隣へ目をやると、青島は涼しい顔のまま的を見つめ、静かに腰を下ろしていた。
(あの時と、一緒じゃ)
ふいに、高校時代の夏が胸の奥に蘇る。
インターハイ個人決勝。
河瀬は荒い呼吸のまま、弓懸を弦へ挟み込む。
額にも背中にも汗がにじんでいた。
(あの時の)
打起しから会へ向かう流れの中で、何かが噛み合わない。
弓を押す左手も、弦を引く右手も、いつもの感覚からわずかにずれていく。
とくに右手だった。
本来なら肘で受けるはずの弦の重さが、感じたことのない手首のあたりへ乗ってくる。
(あの時の感覚)
そして放った矢は、的をかすめて安土へ突き立つ。
サクッ。
砂を刺す音だけが、むなしく響いた。
その音は、的を射抜いた時の乾いた響きより、ずっと大きく耳にまとわりついた。
(違う、違う)
「はじめ!」
審判の声で、意識が一気に引き戻される。
河瀬は射位に立ち、矢をつがえる。
ふと客席へ目をやると、杏奈が祈るように両手を胸の前で重ねたまま、じっとこちらを見つめていた。
(今日は……あの人がおるじゃろうが!)
河瀬はそっと目を閉じる。
唇が、かすかに動く。
「絶対に、負けんけぇ」
「田澤さん……」
(杏奈さん、俺は)
次の瞬間、河瀬は目を見開いた。
(勝つために、ここにおるんじゃけえの!)
その一射も、二人とも的中した。
客席では、周囲のざわめきが止まらない。
「おいおい、二十いったよ」
「どこまで続くんだ? これ」
「やばいな、鳥肌が」
杏奈は両肩を抱くように身を縮めた。
身体の震えも止まらない。
「もう、無理です」
「見ていられません」
杏奈の背中を安積が優しくさすり、久島が静かに言った。
「ここまで来たら、どっちが勝ちとか関係ないよ」
「二人ともよくやってる、出来すぎなくらいだ」
「怖いです、河瀬くん……青島さんに勝つためだけに頑張ってきたのに」
すると、瀧澤が口を挟む。
「だったら、勝っちまったら、そのあとどうすんべや?」
「え?」
「青島に勝っちまったら、目標なくなんべよ」
「だから、どっちに転んでも、しっかり見守ってやりなよ」
「そうですね」
安積が何かを思い出したように久島を見た。
「そういや了、介添って部員じゃなきゃいけない規定あったっけ?」
「ないはずだ」
「道着じゃなくてもいい、リボン付けてたら」
「よし、田澤さん、行くよ」
安積が杏奈の手を引いた。
射場の河瀬の掌には、またじわりと湿り気が滲んでいた。
収まる気配はない。
掌の湿りを取り、握り革をすべらせるために、河瀬は背を向けないまま左手を上げる。
差し出されたふで粉の缶に手を入れ、一握り。
灰の塊を何度か軽く握り直し、さらさらと砂時計のように缶へ戻していく。
ふと視線を上げた、その瞬間、河瀬の表情が固まる。
「え、なんで?」
そこに立っていたのは、杏奈だった。
「安積さんが、連れてきてくれたんよ」
思いがけない声に、河瀬の目がわずかに揺れる。
「ほうか、嬉しいわ、ここで見てくれよるんじゃの」
「うん、ほじゃから頑張りんさいよ」
その一言で、河瀬の顔がふっと緩む。
乱れていた呼吸も、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「やっぱり強いわ、あいつは」
杏奈はまっすぐ河瀬を見る。
「うちも見とった」
「けど、河瀬くんも凄いよ」
「うん、やってくるけぇの」
「やるしかないけぇ」
その横で、青島がちらりと二人を見た。
(よかね、そげな、わっぜもじょか子に……)
そこから客席へ目を向けると、安積がスマホを射場へ向けたまま誰かと話しているのが見える。
(ゆか姉……ひょっとしたら、ゆなに繋いでくれとってか?)
(なら、おいも、格好よかとこ見せんといかんどい)
次の瞬間、青島の気配が、すっと薄くなる。
「はじめ!」
二人が立ち上がり、射位へ進む。
二十射目。
青島の姿は、より一層静かな空気の中へ溶け込んでいく。
そこに立っているのに、まるで景色の一部のようだった。
その一方で、後ろに立つ河瀬の気配はまるで違う。
殺気のようなものが、さらに鋭く研ぎ澄まされていた。
(青島さんは)
杏奈の中に、仄暗く、無限に広がる空間が現れる。
(存在が掴めない、空間そのもの)
青島の矢が放たれ、迷いなく的を射抜いた。
(河瀬くんは)
その空間の奥に、小さな一粒の光が灯る。
河瀬が弓を引き分ける。
(河瀬清彦くんは)
青白いその光が、凄まじい速さでこちらへ近づいてくる。
会。
(彗星じゃ)
放たれた矢が、光の尾をたなびかせたような錯覚だけを残し、真っ直ぐ的へ吸い込まれていった。
「河瀬くん、だいぶ余裕出てきとるよ」
「田澤さんがおってくれるからじゃ」
「河瀬くん?」
「ほじゃけの、どこまでも喰らいついたる言うとろう?」
「うん」
二十一射目。
両者的中。
観客席には、静かなざわめきのあと、的中を讃える拍手が湧き上がる。
そこにいる誰もが、もう射場の二人から目を離せなくなっていた。
二十二射目。
行射順は青島からだった。
変わらず流れるように引き分け、会に入る。
しかし杏奈は、そこにわずかな揺らぎを感じた。
(なんとなく、引き分けるのが、早くなっとりゃせん?)
それでも会の形は崩れず、水平を保っている。
(気のせいじゃろか)
放たれた矢は的中した。
だが、黒点からわずかに外れた白の部分だった。
(いかん、焦っとうとじゃ)
(落ち着かんば)
青島は椅子に腰を下ろすと、大きく深呼吸をする。
続く河瀬の行射。
対照的に、所作には何ひとつ乱れがない。
静かに引き分け、深く会に入る。
彼の視線の先で、的は揺らぐことなく、くっきりと輪郭を保っていた。
矢は、口割(くちわり)の位置に正確に収まっている。
そして河瀬の目が、さらに大きく見開かれた、その時だった。
(……え?)
プツン。
矢は真っ直ぐに的へ向かう。
けれど、それは明らかに的中の音ではなかった。
ピチぃっ!
何かが弾けたような音。
射場では、真ん中から切れた弦が二つに分かれ、ひらひらと床へ落ちてくる。
河瀬の握る弓だけが、まっすぐに伸びたまま残っていた。
河瀬は落ち着いて、作法通りに切れた弦を回収し、そのまま控えへ下がった。
「田澤さん、代え弦(かえづる」)
「これかいね」
杏奈が差し出したのは、小さな竹細工のような輪だった。
そこに巻き取られた弦を受け取り、河瀬は無言のまま張り直しにかかる。
その間も、的中板の表示は動かない。
的前審判が、確認のため安土へ走った。
客席で、久島が天を仰ぐ。
「あの音は、どっちだ……?」
瀧澤も身を乗り出すようにして言う。
「枠は捉えた、けど、あとは……」
射場では、河瀬と青島がじっと的場の様子を見つめていた。
杏奈は両手を重ね、祈るように唇を結ぶ。
「お願い、お願いします」
やがて、審判の確認が終わり、判定板が、翻った。
×。
同時に、場内アナウンスが響く。
「先程の河瀬選手の行射の結果をお知らせします」
「河瀬選手の矢は、的枠の内側から刺さってはおりましたが、そのまま枠を貫通し、矢尻が的の外側の安土に刺さっておりましたので、的中とは見なしません」
「以上を持ちまして、優勝は、東京都学連代表」
「央治大学、青島邦彦選手に決定いたしました」
その瞬間、客席から割れんばかりの拍手が湧き上がった。
軽く項垂れた河瀬の口から、息が漏れる。
(負けた……か)
それでも、ゆっくりと顔を上げた。
口元がわずかに緩み、河瀬は静かに拍手を始める。
杏奈は思わず涙ぐんだ。
「そんな……そんな」
「そんな顔しなすんな」
「河瀬くん?」
「凄かろう? 青島」
河瀬は杏奈と目を合わせて微笑む。
「田澤さんも、讃えてやりんさい」
「それに……」
そこで少しだけ息をつく。
「そう簡単に負けられちゃ、こっちも面白うはないけぇの」
杏奈は涙を拭いながら、小さく笑った。
「やっぱり、強いわ」
「河瀬くんは」
やがて二人は立ち上がると歩み寄り、がっしりと手を握り合った。
「紙一重じゃっど」
「次の射やったら、正直自信なかったとじゃ」
青島がそう言うと、河瀬は少し肩の力を抜いたように笑う。
「それなりに、成長しとったつもりじゃったが、やっぱり届かんかったわ」
「おいも、進化しちょっとよ」
「じゃっどん、おはんとやるんは、やっぱり楽しかよ」
河瀬も、その手を離さないまま返した。
「次は、負けんけぇの」
「おう、おいもじゃ」
客席の拍手は、なおも衰えることなく鳴り響いていた。
大鳥居前のバス停。
「忙しいのに、遠くまですまんかったの」
河瀬がそう言うと、杏奈は首を振った。
「そんなことないよ、凄いもの見せてもろうたけぇ」
「あの緊張感、お芝居にも生かせんか、考えてみるわ」
河瀬は少し照れたように笑う。
「あ、バス来たの、ほじゃあ」
「明日の団体戦も、頑張りんさいね」
バスの扉が開くと、杏奈はそのまま乗り込もうとして、ふと何か思い出したように振り返った。
「あと、ちゃんと喜びんさいよ」
「何を?」
「何を?って、準優勝じゃろう!」
「立派やないかいね」
河瀬は一瞬きょとんとして、それからようやく柔らかく笑った。
「ふふっ、そうじゃな」
「ほいじゃあね」
杏奈の乗ったバスは、夕日に照らされながら少しずつ小さくなっていった。
久羽乃町では、いずみ亭の前に立つ志織は、入口のサルーンドアを見つめる。
「いいところじゃない……けど」
スマホの画面をそっと覗く。
「二時間も前に来ちゃった」
「どうしよう」
「どこかで時間潰してこようか」
その時だった。
「あの〜、うちの店に、ご用ですか?」
「お食事なら、いまやってますよ」
声をかけてきたのは、女子高生だった。
志織ははっとして振り返る。
「あ、あぁ、ごめんなさい」
「前に突っ立ってて」
そして、その顔を見て目を見開く。
「うちの店、て言うことは……あなた、梨夏ちゃん?」
「はい、そうですけど、あなたは?」
志織は少しだけ笑った。
「杏奈ちゃんから聞いたのよ」
「私は、あなたのお父さんの、昔の友達なんだよ」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。