第三章 首
いつもの時間、いつもの駅、いつもの車両の、いつもの場所に男は立った。
そして、2つ目の駅に電車が止まった時、彼は男の隣に立ち、黒いリュックを重たげに床へ下ろした。
男は目の端に彼の気配をとらえた。
彼が静かに立っていた。
長い手足を少し持てあまし気味に、つり革を不器用に握っていた。
男は口内に湧き出る唾液をごくりと飲み、ほんの少し視線を右にずらした。
汗を帯びた首筋が目に入る。
そこに、小さな汗の粒が一つ、すっと滑り落ちた。
汗の粒は首筋をなぞるようにすうっと下へ移動し、そのままワイシャツの中へと消えていった。
汗の粒が彼のどのあたりを這っているのか――想像しかけたとき、空調の風が鼻腔をくすぐった。
右側からふっと流れ込んだのは、汗と、シャンプーの匂いが混じった空気だった。
男は誰にも悟られないように、静かに深呼吸した。
口をほんのわずかに開き、鼻と口で深く息を吸った。
しっとりと湿った、わずかに酸味を帯びた匂いが肺の奥へと沈んでいった。
男は、口内に残る匂いを確かめるように、舌で上あごをゆっくりとなぞった。
彼はポケットから飴を取り出し、わずかに開かれた口へ長い指先で飴を滑り込ませた。
黄色い小さな飴玉が、ゆっくりと彼の唇の奥に消えていく。
車窓の向こうに映る彼の唇がかすかに動く。
男は耐えきれず、視線を滑らせた。
口の中で飴玉をコロコロと転がすと、彼は口内にあふれた甘ったるい唾液を飲み下す。
そのたびに喉のふくらみはゆっくりと上下した。
男は彼の中に眠っていた“男”の気配を感じ、つり革を握りしめた。
どくん……どくん……と、男の心臓が音を立てる。
それとともに下腹部がこわばり、つり革を持つ手に汗が滲む。
男は彼が唾液を飲み下すたび、その音がだんだんと大きく聞こえた。
耳に張り付いたその音は全身をざわめかせ、男は彼に触れたいという衝動に吞まれていった。
軽快な着信音が車内に響いた。
彼は慌ててスマホを取り出し、後ろを向き操作し始めた。
短く刈り上げた襟足と、うっすらと血管が浮かぶうなじがむき出しになった。
彼が体勢を変えるたびにうなじに筋が浮く。
そのいやらしくも無防備なうなじに男は息が上がった。
胸の奥にちりちりとした痛みが走った時、彼は振り向き周囲の乗客に頭を下げた。
彼の他人行儀な態度に男は戸惑った。
車内が揺れ、彼と男のつり革を持つ手が軽く触れた。
男は偶然の出来事を必然に塗り替え、
焦点を失った目を細め、ニヤリとした。
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