第四章 血判と沈黙の系譜
「潮結び」の前夜、祖父の古い書斎でさらなる記録を探していた。電球の紐を引くと、埃を含んだ黄色い光が机の上に落ちる。棚の奥から見つかった茶色く変色した一束の手紙――それは昭和二十年代、米軍占領下の「祖国復帰運動」で交わされた、生々しい血判状だった。
慎重に包みを解くと、紙の表面に無数の斑点が浮かび上がった。歳月を経て赤は暗い黒褐色へと変わっていたが、指先を押し当てた強さは、紙の窪みとしてはっきり残っている。
そこには祖父・徳蔵の名はもちろん、健介の祖父、里美の曽祖父の名前もあった。四十を超える名前が、几帳面な縦書きで並んでいた。
同じ束の底から、あの日記の続きが出てきた。ページの余白に、こう記されている。
「一九四六年二月二日。本日、マッカーサー司令部より通達あり。北緯三十度以南、日本政府より切り離さる。我らは一夜にして孤児となれり。だが、我らの言葉は未だ死なず。正しき言葉を紡ぎ続ける限り、この海の底に沈む歴史が潰えることはない」
思わず息が止まった。不意に耳の奥で祖父の声が蘇る。『言葉は、人が最後まで手放してはならぬ杖じゃ』
喉が塞がり、しばらくの間、声を発することができなかった。
流通を断たれ、ソテツの実の毒を抜いて飢えをしのぐ中、人々は夜な夜な集まり、無言で刃物を指先に当てた。
「これば、ずっと守ってきたわけじゃや、一樹」
背後で里美が静かに見つめていた。いつの間にか書斎に入り、肩越しに古い紙面を見つめている。
「ええ。祖父たちは、自分たちの血で『ここが私たちの境界だ』と叫んだのです」
「それ、おじいちゃんから聞いたことある。『血は冷たい海に流すと、すぐに消えてしまう。だから、白い紙に、消えんように深く染み込ませたんだ』って」
里美は窓の外の闇へ、じっと目をやった。紙面の斑点をなぞる指が、微かに震えた。
「……祖父たちは、どうしてここまで背負えたんでしょう」
声が、自分でも驚くほど小さく漏れた。長
く保ってきた標準語の背筋が、初めて音を立てて撓んだ気がした。里美は何も言わず、ただ隣に立った。
「うちたちが明日、あの海で結ぶ麻縄の結び目の一つ一つに、ひいおじいちゃんたちの血の匂いが残っていれば、それでいいわけよ。誰も見届けてくれなくても、うちたちが知っていれば、それで十分じゃん」
言葉は頑なな知性を優しく包み込み、溶かしていった。そのとき、健介が不意に書斎の敷居をまたぎ、部屋の隅で足を止めた。無言のまま、机の上に広げられた古い血判状をじっと見つめている。
日焼けした分厚い指が微かに震え、健介は何も言わずに自分の人差し指を、血判の斑点の上にそっと重ねた。長い、重い沈黙が部屋を満たした。指を重ねたまま、ただじっと目を閉じ、唇を強く嚙み締めている。
やがて健介は静かに指を離し、何も言わずに書斎を出ていった。廊下を歩く彼の足音が、
いつもよりずっと重く感じられた。
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