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迷子の天使

奥井晴弥

18,388 字

日常系連作短編、人生の機微、静かな発見

"街の片隅の花屋が、迷える魂たちにそっと手渡す、人生のささやかな花束。"

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   第四話 三十七年前の花束

ポストに、同窓会の案内が二通入っていた。
一通は自分宛。もう一通は、別の名前だった。
宮田修一はまず自分宛の封筒を開けた。県立第一高校第二十四期卒業生同窓会のご案内。
幹事は高橋。高橋はたしか測量の会社をやっている。四月の第三土曜日、会場は駅前のホテル、会費六千円。
出欠の返信葉書が入っていて、今どきそれは紙なのかと思ったが、考えてみると卒業アルバムの住所に送っている時点で紙以外の選択肢はないのだろう。
もう一通の宛名を見た。
吉井司。
宮田はしばらく、その名前を見ていた。住所は商店街の中だった。
中学の時、定期テストで学年トップを何度か奪われた相手だ。悔しかった。
自分は勉強ができる方だという自負があった。思春期の自負を揺るがせた、数少ない人間だ。
同じ高校に進んだ。二人とも成績は良かった。関東や関西の「一流」と呼ばれる大学に行ける範囲にいた。
宮田は東京の大学を選んだ。「当然の選択」だった。ためらいはなかった。
吉井は地元の国立大学を選んだ。当時はバブルの真っ只中で、実家の花屋は儲かっていた。
家業を継ぐために地元に残るんだろう、とみんなが言っていた。宮田もそう思った。
もったいない、とは思わなかった。人にはそれぞれの選択がある。ただ、自分とは違う選択だと、そう思った。
それから三十七年。
宮田は中央官庁でキャリアを積み、政策を書き、制度を設計し、日本を支える仕事をしてきた。してきたはずだった。
「失われた三十年」と、自分のキャリアがぴったり重なっている。経済が沈み、制度は疲弊し、それを内側から支えようとしてきた。
一方で「官僚」という言葉の響きが変わったのは肌で感じていた。天下り、忖度、文書改竄。自分がやったことではない。だが同じ名前で呼ばれる。
五十五歳。本省から地方の出先機関への異動。今年の一月にこの町に戻ってきた。高校卒業以来だ。
駅前は変わった。商店街は短くなった。でもアーケードはまだあるし、歩いていると知っている地名が出てくる。身体が覚えている道と、頭が覚えている道が、ときどき一致しない。
テーブルの上に、二通の封筒を並べた。同じ封筒、同じ印刷。
三十七年前に同じ教室にいた人間に、同じ手紙が届いている。
違うのは、一方は三十七年間ずっとこの町で受け取り続けていたのだろう、ということ。
もう一方は今年初めて受け取った、ということ。
宮田は吉井の実家の花屋の名前を記憶から探り当て、「花よし」と検索した。
スマートフォンの画面に店の名前と、商店街の地名が現れた。WEBサイトがあった。
トップページに店先の写真。見覚えのある商店街の一角に、バケツの花がはみ出している。「季節の花をあなたの暮らしに」というコピーの下に、店主の挨拶が載っていた。
小さな写真があった。エプロン姿の男性が、花の前で少し照れたように笑っている。五十代の顔だ。だが、目元に面影があった。
テストの答案が返ってきた時、満点でも別に嬉しそうにしなかった、あの顔だ。
挨拶文を読んだ。「父が創業した花屋を引き継ぎ」「生花は人の手から手へ届けるもの」「お客様のお気持ちに寄り添えるよう」。
官僚の文書ではおよそ使わない言葉だ。政策文書は個人の顔が見えないように、だが、漏らさないように書く。
この挨拶文は、一人の人間が、一人の客を想像して、書いている。
ECもやっていた。季節のアレンジメント、フラワーギフト、定期便。写真を撮って、説明文を書いて、決済システムを入れている。
吉井がこれを全部やっているのか。誰かに手伝ってもらっているのかもしれない。特商法の記載。株式会社花よし。しっかり、法人化している。
「父が創業した花屋を引き継ぎ」。あの頃、吉井の実家は商店街の中で花屋をやっていた。
考えてみると、宮田はその花屋に入ったことがない。同じ中学、同じ高校。六年間、ほぼ毎日顔を合わせていた。
テストの点数は知っていた。でも、あいつの実家の花屋に足を踏み入れたことは一度もなかった。
高校の卒業式の後、謝恩会があった。先生に渡す花束を、吉井が自分で作ってきた。他の花屋や父親に頼んだのではなく、自分で。
何種類かの花を組み合わせて、ちゃんとラッピングまでしてあった。クラスの誰かが「さすが花屋」と言った。吉井は少し照れくさそうに笑っていた。
でもその花束を先生に渡すとき、照れの奥に別の顔があった。自分が作ったものを差し出す、あの誇らしさ。テストで満点を取っても見せなかった顔だった。
宮田はサイトを閉じた。
吉井宛の封筒を手に取った。届けに行くべきだろう。場所はわかっている。商店街を歩いて、花よしを見つけて、「これ、間違えてうちに届いたんだけど」と渡せばいい。
それだけのことだ。だが、宮田はそれができなかった。
三十七年ぶりに顔を合わせて、何を話すのか。元気か、と聞くのか。花屋やってるんだ、と言うのか。俺は官僚やってた、地元に戻ってきた、と。
同窓会で会えばいい。同窓会という枠があれば、三十七年の空白は「久しぶり」の一言で処理できる。
だが二人きりで顔を合わせたら、空白は空白のまま目の前に広がる。
考えてみると、宮田が恐れているのは空白そのものではなかった。
吉井がこの三十七年間、ここで花屋をやり続けていたという事実と、自分が三十七年間、吉井のことを一度も考えなかったという事実を、同時に引き受けることだった。
宮田は封筒の表に「誤配達」と書いた。丁寧な字で、はっきりと。裏に、自分の住所は書かなかった。封筒を持って、近くのポストまで歩いた。
投函口に封筒を入れる前に、一瞬だけ手が止まった。
これは正しい処理だ。郵便局が回収して、正しい宛先に届け直す。制度を通して、制度が届ける。自分がやるべきことは、制度に戻すこと。
それが三十年、自分がやってきたことだ。
――封筒をポストに入れた。
帰り道、商店街のアーケードの下を歩いた。まだ明るい時間だった。花よしの前は通らなかった。
家に戻り、同窓会の案内をもう一度見た。出欠の返信葉書。出席に丸をつけるか、欠席に丸をつけるか。
宮田はペンを持ったが、判断を保留しペンを置いた。
考えてみると、自分はこの三十七年間、何を選んできたのだろう。東京を選んだ。官僚を選んだ。制度を選んだ。
だが、何を選ばなかったのかは、考えてこなかった。選ばなかったもの。この町。この商店街。あいつの花屋の前を歩く日常。
返信葉書をテーブルに置いた。まだ丸はつけられなかった。
窓の外に、三月の風が吹いていた。

── 第4章 了 ──

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