第四章 1991年・5月:白の静止
連休が明けた五月の図工室。南向きの窓から差し込む午後の光の中で、無数の埃が粒子となって踊っていた。夏目は、木床の軋みを殺しながら、五人の子どもの机の間を歩いていた。
大輔の前に、真っ白な四つ切りの画用紙があった。
授業時間が終わろうとしているのに、紙の上に線は打たれていない。
大輔は背筋を伸ばし、鉛筆を握ったままその白磁のような空間をただ見つめていた。
「……大輔くん。かっこいい車でも、昨日の夕ご飯でも。君が描きたいものを自由に描いてごらん。上手じゃなくてもいいんだよ」
夏目は、自らが信奉する寛容さを込めて、穏やかに声をかけた。
大輔は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、戸惑いではなく、夏目の臓腑の奥までを見透かすような、澱みのない拒絶だった。
「自由……ですか」
大輔が初めて、授業中に言葉を発した。
「自由に描いたら、先生はそれを見て、僕のことをわかったような顔をするんでしょ。……この線は優しいねとか、この色は寂しいねとか」
夏目ははたと気づいた。そして言葉に詰まった。
大輔が感じ取っていたのは、夏目が「自由」と呼んだものの底にある、無意識の支配欲だった。自分を「観察」し「理解」しようとする大人。
そしてこの村で、大人はすべて顔見知りだ。逃げ場のない世界。
「僕は、何も描きたくない。……見られたくない」
大輔はそう言うと、再び視線を真っ白な画用紙に戻した。
そこには、完璧な静寂があった。
夏目は、最後まで白紙のままだった大輔の画用紙を回収した。
指先に触れる紙の感触はひどく冷たく、そして重かった。
奥三河の山々が、夕闇に黒い影となって校舎を飲み込んでいく。
夏目は大輔という深い空洞を前にして、これまで築き上げてきた「寛容さ」への信頼が、あまりに脆く崩れていくのを感じていた。
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