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光と影の魔術師

奥井晴弥

14,352 字

芸術小説、歴史ドラマ

"魔術師の狂気を支え、闇に永遠を刻んだ職人の物語。"

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第三章 サスキアの光

アトリエの混沌の中に、その「光」は唐突に現れた。
私が地下の薄暗い作業場で、キャンバスに塗り込むための下地を練り上げていた時のことだ。階段を降りてくる衣擦れの音と共に、アトリエの荒々しい熱気が、一瞬にして華やかで、しかしひどく脆い芳香に塗り替えられた。

「──レンブラント、まだ根を詰めているの?」

柔らかな、だが芯に儚さを孕んだ声だった。 私が顔を上げると、そこには豪奢な毛皮を羽織り、真珠の首飾りを何重にも巻いた女性が立っていた。サスキア・ファン・アイレンブルフ。レンブラントの妻であり、彼が最も愛するモデル。
彼女がそこに立つだけで、煤けたアトリエの壁が、王宮の回廊のように錯覚された。窓から差し込む冬の斜光が彼女のブロンドを透かし、その肌を陶器のような輝きで満たしている。

レンブラントは、先ほどまでの獲物を狙う獣のような目を一瞬で解き、子供のような無邪気さで彼女へ駆け寄った。

「サスキア、見ろ、この影を。アントウェルペンから来た男が、俺に『崩れない闇』を運んできたんだ」

彼は誇らしげに、まだ絵具が滴るキャンバスを指し示した。サスキアは微笑んだ。
その微笑みには、熟しきって今にも落果する果実のような美しさと危うさがあった。私は、技術者としての冷徹な目で彼女を観察した。厚く塗られた白粉(おしろい)の下にある、透けるような皮膚の薄さ。時折、咳をこらえるために微かに震える指先。彼女が身に纏っている最高級のベルベットや真珠は、その落果の予兆を、隠しきれていない。

「まあ……とても深い闇。少し、寒気がするほどだわ」

彼女がキャンバスに近づき、私の練り上げた影を覗き込んだ。その瞬間、彼女の白皙(はくせき)の横顔が、泥のような黒の対比によって、この世のものとは思えないほど鮮烈に浮かび上がった。

レンブラントは、愛おしげに彼女の肩を抱き寄せた。だがその抱擁すらも、私には消えゆく光を引き留めようとする、執着の仕草に見えた。

「親方、奥方をあまり光の中に立たせない方がいい。その輝きは、あまりに強すぎて、影を焼き切ってしまう」

私は、自分でも驚くほど無愛想な声で言った。サスキアは私を見て、驚いたように目を丸くし、それから鈴を転がすような声で笑った。

「あら、厳しい職人さん。レンブラントがあなたのことを『岩のような男だ』と言っていた理由が分かったわ」

彼女は私に近づき、私の汚れた手に、温もりのない、しかし羽毛のように軽い手をそっと重ねた。

「お願いね、ヤン。この人の無茶を、あなたが支えてあげて。この人は、目に見えるものすべてを『永遠に続く物語』にしたがっているけれど……自分では、その方法を知らない人だから」

彼女の瞳の中に、一瞬だけ、すべてを諦めたような、深い悟りの色が過ったのを私は見逃さなかった。彼女は知っているのだ。
この楼閣を支えているのが、レンブラントの魔法という名の「虚」でしかないことを。

サスキアが階段を上がっていくと、アトリエは再び乾性油の重苦しい匂いと無秩序な喧騒に引き戻された。

「……見たか、ヤン。あれが俺の光だ」
レンブラントは、彼女が去った空間を呆然と見つめ、力なく笑った。

「あの光を、俺は失うわけにはいかない。たとえ神がそれを奪おうとしても、俺はこの布の上に、彼女を繋ぎ止めてみせる」

私は答えなかった。私はただ、彼女の手が触れた自分の掌に残る、かすかな白粉の跡を見つめていた。粉末のガラス、鉛、油――。私の作るものは、醜く、重く、そして決して美しくはない。だが、あのサスキアという儚い光を、彼女が恐れた「闇」から守り抜くことができるのは、レンブラントの魔法ではない。私がこのキャンバスに打ち込む、「本物の闇」だけなのだ。

私は再び、地下の暗がりへと戻り、重い練り棒を手に取った。魔術師が愛する光が消える前に。その残像を永遠の中に封じ込めるための漆黒を、私は作り続けなければならない。そう思った。

── 第4章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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