第3話 始まりへの終わり
馬運車車の扉の前に立つヘールボップを前にして、沖浜厩舎の面々は、誰ひとり言葉を発せなかった。
長旅の疲れを微塵も感じさせないその佇まいは、ただそこに立っているだけで空気を変えている。
万次郎が静かに手を差し出すと、ヘールボップはそれに応えるように一歩踏み出し、その手に額を預けた。
ゆっくりと目を細める万次郎。
その仕草は、あまりにも穏やかで、まるで旧知の間柄のようである。
洋平が、思わず息を漏らした。
「へぇ〜、優しい馬やねゃあ」
万次郎は、わずかに笑みを浮かべる。
「ふふ、ハンターによう似ちゅう。この性格かもしれんねゃ」
「勝てんなったがは」
万次郎が振り向くと、そこに広美が立っていた。
足を止めたまま、視線はただ一頭に向けられている。
「本当に……ヘールボップ」
信吾が、慌てて前に出た。
「また来た!」
「いかんですよ!無断取材は!」
「待てえ、信吾」
「もうこうして、うちに来たがや、隠す必要らあないき」
仁美は、ただ立ち尽くしている。
目の前の存在から、視線を外すことができない。
万次郎が、声を張った。
「洋平!写真ばあ、あの記者さんに撮ってもらえ。スクープや」
そして、ゆっくりと広美へ向き直る。
「どんな記事になるか、楽しみにしよります」
その言葉に、広美の表情がわずかに苦虫を噛み潰したように、奥歯を噛み締めた。
その夜。
静まり返った厩舎に、ひとつだけ足音が響く。
仁美だった。
手には、たっぷりと飼い葉を盛った桶を提げている。
「ご飯で、ヘールボップ」
吊るされた桶に、ヘールボップはすぐ顔を突っ込んだ。
迷いのない食べっぷりに、仁美の頬がふっと緩む。
「田舎のご飯、口に合うかえ?中央の厩舎で出るもんとは違う?」
問いかけても、ヘールボップは食べるのをやめない。
「良かった、よう食べてくれる」
仁美は馬房の柵に手をかけ、少しだけ身を乗り出した。
「ヘールボップ……ボップで良い? 呼び方」
その声に応えるように、ヘールボップがブルルルル、と息を鳴らす。
「良い子やね」
食事の合間に上がった黒い目が、じっと仁美を映していた。
「ん?気づいた?」
「ご飯終わってからで」
ポケットから、角砂糖を二粒取り出して見せる。
「あんたに、乗ってみたい」
「そうなれるように、頑張るきね」
食べ続けるヘールボップの首筋を見つめながら、仁美は小さく拳を握った。
「明日、絶対、初勝利するき」
翌日。
夕暮れ時の南海競馬場。
パドックでは、レースを待つ競走馬たちが輪乗りを続けていた。
その中に、スポイルクーラーに跨る仁美の姿がある。
あの調教で騎乗した馬だった。
広美は、柵越しにその人馬を見つめる。
「緊張は、してないみたいやね。馬の方は、ちょい太いかな?けど」
スポイルクーラーは、機嫌良さげに頭を上げたまま、まるでスキップを踏むように歩いていた。
「気配は、悪うないね」
二頭後ろの馬に騎乗する瀧越が、前を見やる。
「へえ、落ち着いたもんやねゃ」
「自信があるか、それとも……」
ニヤリと笑う瀧越。
「あれに気づいちゅうかな?」
「スポイルの、このメンバーじゃ飛び抜けちゅう、あの武器に」
点呼を合図に、各馬がいっせいに身を返した。
コースへ向かうため、輪乗りの流れを断ち切るように向きを変えていく。
スポイルクーラーもまた、スルッと淀みなく前肢の歩調を切り替え、そのまま自然な動きでコースへ向かった。
二頭の白馬に導かれ、八頭の競走馬が姿を現す。
スポイルクーラーは三頭目。
その背にいる仁美の赤い帽子が、夕方の光の中で小さく浮かび上がって見えた。
やがて各馬は軽く駆け出し、スタートゲートへ向かっていく。
観覧席には、万次郎と洋平が並んでいた。
コースを見つめたまま、洋平がぽつりと漏らす。
「八頭の中の六番人気、厳しいですかね」
万次郎は、表情を変えない。
「まあ、あのタイムにあの太さ、屋根は新米、仕方がないろう」
少し離れた場所では、広美が二人の様子をうかがっていた。
聞くつもりなどない顔をしながら、耳だけは確かにこちらへ向いている。
万次郎は、視線をゲートへ向かう人馬から外さないまま言った。
「仁美が、あれに気づいちょったら、話は変わってくるけんどねゃ」
洋平が、静かにうなずく。
「そうですね。スポイルの脚は、キレもノビもそれなりですき」
ゲートに全馬が収まる。
広美は、スタートゲートの様子をじっと見守っていた。
信吾はコース脇で、祈るような眼差しを前へ向けている。
仁美にとって、この日最初のレース。
C2クラス戦、一般協賛レース――邦栄丸大漁祈願特別。
スターターが旗を振る。
ゲートの中で、仁美の目はただまっすぐ前だけを見据えていた。
合図がかかる。
次の瞬間、扉が一斉に開いた。
『スタートしました。各馬きれいなスタートです』
砂塵を巻き上げながら、八頭が先行をうかがう。観覧席の前を駆け抜け、最初のコーナーへなだれ込んでいく。
その中で、一頭だけ気分良さそうに前へ出た。
『さあ、ここで体ひとつ抜け出したのはスポイルクーラー』
『鞍上の沖浜仁美騎手、悲願の初勝利なるでしょうか』
洋平が思わず身を乗り出す。
「あれ、おやっさん……」
万次郎は、口元をわずかに緩めた。
「仁美は、わかっちゅうねゃ」
その言葉に、広美がはっと視線を向ける。
次のコーナーを回ると、スポイルクーラーはさらに差を広げた。
二頭後ろを走る瀧越が、目を細める。
「へえ、気持ちよう走らせゆうやか」
向こう正面。
後続が一斉に襲いかかるように差を詰めてくる。
瀧越は左右をさっと見やった。
「さすがにみんな気づいたねゃあ」
「俺も行かんと」
手綱に力を込める。
「最後のコーナーの前に抜いちょかんと、誰も追いつけん」
迫ってくる足音が、少しずつ近づいてくる。
それでも仁美は、落ち着いていた。
「スポイル……ごめんで」
機嫌良さげに、相棒が首を上下させる。
「あの日も、走りたかったでね」
「今日は、もうちょっと我慢してよ」
三コーナーに差しかかる頃には、後続がほとんど団子状態で押し寄せてきた。
囲まれるような形になりながらも、スポイルクーラーはなんとか先頭グループに喰らいついている。
客席で広美が大きく肩を落とした。
対照的に、万次郎と洋平の表情にはまだ余裕がある。
仁美は巻き上がる砂煙をまともに浴びながらも、その目の力を失わない。
瀧越が歯噛みする。
「いかん、前に出れん!」
そして、最終コーナー。
スピードに乗った各馬は、わずかに外へ振られる。
その中で、スポイルクーラーだけが違った。
前脚の歩調が、スッと切り替わる。
そのまま、無理なく一馬身、前へ出た。
「いけっ!」
仁美が鞭を打つ。
「スポイル!!」
ガチィッ!!
ハミを噛んだスポイルクーラーの首の上下運動に、さらに力がこもる。
『さあ、スポイルクーラー先頭で抜け出した!』『後続からはリストクラッチ』
『瀧越真光が差を詰める!』
「行けーーー!!」
信吾の叫びが飛ぶ。
「いけ……!」
広美が、思わず漏らす。
「いけ!」
仁美もまた、前へ声を叩きつけた。
ゴール前、猛然と迫るリストクラッチ。
だがスポイルクーラーは、首の差だけそれをしのいでゴール板を駆け抜けた。
『スポイルクーラー!』
『勝ったのはスポイルクーラー!』
『沖浜仁美騎手、初勝利です!』
瀧越が叫ぶ。
「やったねゃ、仁美ちゃん……って、いかん!」
仁美は、ゴールを過ぎてもなお必死に追っていた。
このままの勢いで行けば、曲がり切れずラチに激突しかねない。
瀧越はすぐさま馬体を寄せ、仁美から手綱を預かり強く引いた。
ようやく速度が落ちる。
「仁美ちゃん! もうえい! もう終わった!」
砂にまみれた顔で、仁美が不思議そうに瀧越を見る。
「終わったって?」
「勝ったがよや、仁美ちゃんが」
「見てみい」
掲示板の一着表示には、はっきりと「3」の数字が灯っていた。
仁美の目が見開かれる。
「私が……勝った?」
観覧席で洋平が笑う。
「やりましたね、仁美ちゃん」
「おお、スポイルは脚の運びが器用なきねゃ」
「小回りは効く、上手う立ち回れたわや」
その声を聞きながら、広美は目を真っ赤に腫らしたまま、万次郎のもとへ歩み寄った。
「沖浜先生、お弟子さんの初勝利、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
万次郎はちらっと洋平を見る。
「洋平、信吾だけやったら記念写真も大変やろう」
「お前も行っちゃれ」
「わかりました」
洋平が駆け出して行った。
広美は、息を整えて問いかける。
「今のお気持ちをお聞かせください」
万次郎はコースの方を見たまま答えた。
「まあ、これでやっとスタートラインです。まだまだやらなければいけない事、覚えてもらいたいことは、たくさんあります」
「ありがとうございました」
「今後も期待してます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
だがその直後、広美の声色が変わった。
「けんど、思い通りにはさせんきね」
「仁美を、あんたの道具にはさせんきね!」
「お前は、何を……見ゆう、が……な……」
その瞬間、万次郎の視界が渦を巻くようにぐにゃりと歪む。
「ぐはっ!!」
さらに頭の奥を、金槌で殴られたような衝撃が走った。
(仁美……広美……)
(……明美)
万次郎の体が、その場でがくりと崩れた。
顔色を変える広美。
「あんた、どういたが?……」
「どういたが!?どうしゆうが!!」
声が裏返る。
「お父ちゃん!」
万次郎はその場に項垂れたまま、やがていびきをかき始め、広美の顔から血の気が引いて行った。
「いかん、これ、いかん……」
「救急車! 救急車呼んでください!!」
その頃、コースでは、鞍上で少しはにかみながら右手を掲げる仁美の姿がある。
その小さく上がった拳は、しっかりと初勝利の重みを掴んでいた。
中央競馬のターフコース。
大歓声も、周囲の蹄音も、何ひとつ聞こえない。
耳に届くのは、自分と、跨る馬の荒い息遣いだけ。
(またこの夢か)
芝を切り裂くように進みながら、やがてコーナーへ差しかかる。
(あれから、何十年経ったと思うちゅう)
コーナーを抜ける寸前、鞭を構える。
その瞬間――
(わしから、全てを奪うたあの時)
視界の外から、突然割り込んでくる影。
目前に、馬の尻が滑り込んだ。
驚いて、馬がいななき、前脚が浮く。
馬体が跳ね上がり、手綱が離れ、鞍が遠ざかり、自分の体だけが宙へ投げ出される。
(まったく……)
そこで、万次郎は目を覚ました。
(おおの……おぉ、頭痛かったわ。なんやったがな……)
ぼやけた意識のまま、目を開ける。
だが、そこに映った景色に、思考が止まった。
(ありゃ? なんで……なんでな)
見慣れたはずの場所。
それでも、何かが決定的に違う。
(なんでわし、馬房で寝よったがな)
体を起こそうと、柵に手をかけようとするが、腕が上がらない。
頭にかゆみを覚え、掻こうとするも、それすら、思うようにいかない。
(困ったねゃ……ん? なんじゃ?)
視線を動かした瞬間、違和感が一気に広がった。
(真横が……後ろが、見える?)
首を動かした覚えもないのに、目を動かすだけで、パノラマの景色が広がる。
仁美の勝利を見た、その直後。
そこから先の記憶が無い。
ゆっくりと、視線を落とすと……
そこにあったのは、自分の動かなくなった足ではなかった。
硬く締まった筋肉。
土を掴む蹄。
馬の、前脚だったのだ。
(なんなや……これは!)
しばらくすると、馬房に仁美が現れた。
涙を隠すこともなく、まっすぐこちらへ近づいてくる。
(仁美、どういたがな?)
(何を泣きゆうがな)
仁美は、震える声で言った。
「ボップ、お父ちゃんが……お父ちゃんが……」
(ボップ……どういうことな)
必死に声を出そうとする。
だが、喉から漏れたのは、いななきだけだった。
次の瞬間、仁美が万次郎……いや、ヘールボップの顔にしがみついた。
厩舎に、慟哭が響き渡る。
頬に伝う涙の熱も、肩の震えも、はっきりと伝わってくる。
(仁美……)
ヘールボップの顔を抱きしめたまま、仁美は喉が潰れそうになるほど泣き続けた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。