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食べてすぐ寝たら牛になるよ

梓星

35,365 字

現代ファンタジー、家族ドラマ

"娘が牛になった世界で、父は家族の形を問い直す。"

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第4章

X X X

 
 「お客さんっていうのは往々にして自分が本当は何を必要としているのか分かっていないものなの。そのニーズを察知してこちらから提案してこそのプロよ」
 そう言って私は自分で少し気恥ずかしくなる。以前だったらこんな使い古されたビジネス格言なんか口にしなかっただろう。
 昨年、妊娠出産に合わせて退職した会社に復帰。7年ものブランクがあったにも関わらず、自分でも驚くほど仕事は順調。今月も早くも新規契約を2件獲得している。
 4月に入社したばかりの新入社員の教育係も任された。それで、思わず柄にもないようなお説教をしてしまったというわけだ。
 時計を見る。終業時刻の6時を既に30分近く回っている。今日は久しぶりに大学時代の友人に会う約束がある。私は手早く机を片付けると約束のレストランへ向かった。
 「人は自分が本当に欲しいものが何かを分かっていない」
 少なくとも私はそうだった。あんなに自分が欲したものに自分が壊れる一歩手前まで追い詰められ、かつては倦んでいた仕事が今は生きがいになっている。
 ゼミが一緒で卒業後もよく遊んでいた沙織と恵美。出産後は疎遠になっていたが、離婚を機に付き合いが復活した。今日は金曜。一軒目で終わるわけもない。牛になってしまわないように食後ウォーキングエリアを30分歩き回ってから、バーへ移動して飲み続けた。
 「ところで娘さん、由奈ちゃんだっけ? 元気なの?」
 その瞬間、心臓がドクンとなる。私の腕に抱かれて顔を真っ赤にして泣く乳児期の由奈が一瞬、目の前に浮かぶ。あの時の泣き叫ぶ声が本当に聞こえたような気がする。
 「あ、うん。元気なんじゃないかな」
 そう答えるのが精一杯。
 「全然連絡とってないの?」
 「出ていった身だからね。変に声かけるとかえって迷惑かもしれないし」
 「そんなもんかー」
 気にならないといったら嘘になる。だけど、どうやって声をかけたらいいか分からない。ずっとそうだった。
 「ママ、見てー」と何が描いてあるのかまるで分からない絵を見せられてどう返事すればいいのか分からない。意味不明な設定のお人形遊びにうまく合わせられない。毎晩、同じ絵本を何回も読む気になれない。
 ある日、市のコミュニティセンターで、私よりずっと若いママが表情豊かに声色を使い分けて絵本を読み聞かせているのを見かけて衝撃を受けた。由奈も全く知らないそのママの読み聞かせを遠くから見て目をパチクリさせていた。みんなあんなことを当たり前のようにやっているのだろうか。
 バーで解散して、終電に飛び乗る。
 最初は抱っこするのも不器用だった夫は確実にできることを増やしていって、言葉が喋れるようになった由奈は何かと「パパがいい」と言い出した。
 「不妊治療にもつわりにも耐えてあなたを産んだのは私なのに。寝返りをうつこともできなかったあなたをベッドから落ちたり、牛になってしまうことがないように必死に守り抜いたのは私なのに」
 夫は非難するような目で私を見る。いや、それは私の思い込みで、そんな意図は全くなかったのかもしれない。でもその時の私にはどんな言葉よりも痛かった。
 電車を降りる。駅から歩いて7分の単身者用のアパート。まるで学生に戻ったような住処だが、結婚していたころよりもずっと心地よい。ここでは誰も私を責めない。
 机の上には由奈の5歳の誕生日、シンデレラ城の前で撮った写真が飾られている。私と夫の間で笑う由奈。その可愛らしい笑顔に、私は耐えられなかった。

X X X

 あの日以来ずっとそのままになっている由奈の部屋。私は週に一度だけ掃除のために入る。できればあらゆる物をあの日のままにしておきたいが、埃を払うため多少は仕方がない。
 まだ新しい学習机には5歳の誕生日の時に行ったディズニーランドで購入したアリエルのぬいぐるみが飾られている。小さな頃からの一番お気に入りのプリンセスで幼児向けに簡略化された絵本から始まって、アニメ映画も実写映画も何度も見た。
 妻はそれが気に入らないようだった。妻が好むのはアリエルのような恋に生きるプリンセスではなく、モアナやムーランのように自分の力で人生を切り開くプリンセスだった。
 それにしても、もし邪悪な魔女が声と引き換えに由奈を人間に戻してくれるのであれば、一瞬の迷いもなくその契約書にサインをするだろう。
 だが、今手元にある先日見学した養護施設の申請書にサインするか否か、私は一週間が経っても決められずにいた。
 そっとアリエルのぬいぐるみを手に取って庭に出る。私を認めた由奈がこちらを向いてゆっくりと近付いてくる。土曜の夕方。夏が終わり、だいぶ日が短くなってきた。
 私の前で立ち止まった由奈に「覚えてるか」とぬいぐるみを見せる。由奈はただ静かに動くことなくこちらを眺めているだけだ。
 牛化した人が人間だった頃と同じ知能、記憶、意識を持っているということはあらゆる研究で否定されている。由奈が牛化した直後にかなり専門性が高いものも含めて関連書籍を読み漁った成果だ。
 それが終わると、「牛帰りの弥太郎」、牛化から戻った男が高僧とともに仏典を求める旅をする中国の古典「西方仏宝記」、神々に強い力を持つ野牛として作られたが人間の娼婦と交わり人になった英雄が登場するシュメールの神話「アルガメッシュ叙事詩」まで読み込んだ。
 希望は得られなかった。
 私は生まれたばかりの由奈をおっかなびっくり抱っこしたときのように、アリエルのぬいぐるみを抱いていた。足の無いマーメイド状態のアリエルだ。
 アリエルは人間の世界に憧れ、海辺の国の王子に恋をして人魚から人間になった。人間になりたいという強い気持ちが牛から人に戻る鍵なのかもしれない。
 そんなことはあり得ない。牛化した者が人間に戻ることはない。分かっている。だが、施設に預けることは最後のダメ押しの絶望を由奈に与えてしまうことにはならないか。
 アリエルの父である海の王トリトンは最初、アリエルが人間の世界へ行くことを認めなかった。だが、最後は娘の幸せのために魔法の力で足を授け、王子との恋を後押しした。
 由奈が牛化したことは認め難い。だが、そうなってしまった以上、例えどんなに辛くても今の由奈の幸せだけを考えればいいのではないか。牛の寿命は人間よりずっと短い。私が由奈を看取ることになるだろう。その時まで由奈が幸せに生きられるように。
 私は少し笑った。あんなに読み込んだ文献よりも由奈と一緒に読んだプリンセスの物語にヒントがあるなんて。由奈にせがまれて絵本を読むまで「リトル・マーメイド」がどんな話なのかも知らなかったのに。
 私は由奈の顔をそっと撫でると、由奈の部屋に戻りアリエルのぬいぐるみを元の場所に置いた。そして施設の申込書を破いて捨てた。

── 第4章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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