第四章 大団円
第四章
一
世界は平和になった。終幕楽団は消え、委員会も消え、四千世界のあちこちで壊れたものが少しずつ直されていった。そうなると、コー・オウジは暇だった。暇を持て余した幸運王は、ある日ふと思い立ってビルを買い取り、また探偵社の看板を掲げた。大路ミラクル探偵社2nd、と。
声をかけたのは、昔の顔ぶれだった。
窓際のソファーでは、ローゲンが昼間から酒瓶を傾けている。オアシス会の一員として戦後処理をしていたが、昔の縁で顔を出している。本人に言わせれば「どうせ断っても何かの偶然で結局来ることになる」かららしい。
奥の机では、ラミア・クライス・カザハラが魔法陣を描いては消していた。
机の上には、砂時計が一つ置かれている。ラミアは砂が落ち始めると同時に指先を走らせ、光の線で小さな陣を組み上げていく。組み上がった陣を確かめ、砂時計を見て、眉をひそめ、陣を消す。そしてまた、砂時計をひっくり返す。
あの最終決戦の夜、ラミアは『大愉悦者』が指先一つで簡易ゲートを組み上げるのを、すぐそばで見ていた。ほんの十秒ほどの出来事だった。自分が同じものを組むのに、どれだけかかるか。戦争が終わってからも、ラミアはその十秒を忘れていなかった。
その横で、アロロア・マコト・カザハラがラミアのためにお茶を淹れていた。黒いスーツに、赤いネクタイ。ネクタイには金糸で『恐怖』と刺繍されている。
「ラミアさん、お茶が入りました。少し休みませんか」
「ありがとう、真君。もう一回だけ」
ラミアは陣から目を離さずに答え、それから顔を上げて、夫のネクタイが少しよじれているのに気づいた。黙って両手を伸ばし、整える。
「これでよし」
「ありがとうございます」
アロロアは、心から嬉しそうに笑った。ローゲンが、ソファーの上で聞こえよがしに溜め息をついた。
そして所長のコー・オウジは、事務所の真ん中の大きな椅子で、その全てを包み込むような山のような巨体を揺らしながら、静かに茶を啜っていた。机の上には、ドーナツが山のように積まれていた。
異変は、静かに始まった。
ローゲンが空になった酒瓶を置き、棚の新しい一本に手を伸ばした。その瞬間、棚板が音もなく外れた。並んでいた酒瓶が次々と床に落ち、砕け、水溜まりが広がった。ローゲンは伸ばした手をそのままに、しばらく動かなかった。
ラミアの砂時計が、あと少しで落ちきるところだった。今度こそ間に合う。最後の一線を引こうとした刹那、天井から漆喰の欠片が一つ、ぽとりと落ちてきた。欠片は陣の真ん中に落ち、描きかけの線を掻き消した。光の陣は、音もなく霧散した。
「……あら」
ラミアは天井を見上げた。ひびなど、どこにも入っていなかった。
「大丈夫ですか、ローゲンさん。代わりのお茶を淹れますね」
アロロアが、湯気の立つ湯呑みを持って、酒の水溜まりを避けながらソファーへ向かった。躓いてはいなかった。足元も確かだった。それなのに、湯呑みは宙を一回転して、ローゲンの頭の上に着地した。
「……熱ぃ」
ローゲンは、茶を滴らせたまま、ぼそりと言った。
「あれ。すみません。おかしいですね」
アロロアは、首を傾げた。
コー・オウジが、初めて湯呑みを置いた。
それから、自分の腹の肉をつまんだ。
「おや。少し、減りましたね」
福々しい丸顔が、ほんの少しだけ真顔になった。
「……これは、おかしいですね」
二
扉のチャイムは、鳴らなかった。
カイは、いつの間にか事務所の中にいた。応接用のテーブルの前に立ち、傍らには一人の少女を連れていた。
ローゲンが、茶を拭う手を止めた。ラミアが、消えた陣の跡から顔を上げた。
コー・オウジは、いつもの笑顔に戻っていた。
「こんにちは。コー・オウジ」
カイは言った。
「突然なんだけど、僕の依頼を受けてくれないかい」
「依頼ですか」
コー・オウジは、福々しい丸顔でにっこりと笑った。
「ぜひとも受けましょう。まあ、どうぞお掛けください。ドーナツもありますよ」
カイは、少女を先に座らせてから、その隣に腰を下ろした。
少女は十二、三才に見えた。どこにでもいる、何者でもない少女だった。ある町の外れで、カイが見つけた。名前のない誰かだ。だから……だからどんな物語でもすんなり通る。
カイは、その少女に一冊を降ろしていた。
理論上解けない呪いを受けた少女。
呪いを刻んだ呪術士は、とうの昔に墜滅している。解く鍵は、呪術士と共に失われた。呪いは少しずつ、少女から幸福というものを奪っていく。嬉しいという感覚を、楽しいという感覚を、一つずつ。少女は、カイストではない。記憶と能力は引き継げないが、一般人も転生を繰り返す。そしてこの呪いも、同時に転生を繰り返す。少女に永久に付きまとう。いつか呪いが少女の魂ごと虚無に溶かして消し去るまで。溶けてしまえば、何も残らない。
余白には、誰かの書き込みがあった。完璧な呪いのパクリじゃん、と。
カイは、その一行を読み流した。
そして、もう一冊。
この事務所の扉をくぐる前に、カイはコー・オウジにも一冊を降ろしていた。
もしも幸運王が、不幸運王だったら。
望むものが、必ず最悪の形で裏返る男の物語。
二冊を同時に降ろすのは、初めてだった。
一冊目が、少女の結末を閉ざす。二冊目が、幸運王の偶然を裏返す。どれほどの幸運が重なっても、理論上解けない呪いは解けない。そしてその幸運そのものが、今は不運に変わっている。
これなら、幸運王にも届く。
コー・オウジが皿ごと差し出したドーナツを、少女は表情を変えずに一つ受け取った。美味しいのかどうか、もう分からない顔をしていた。
「君はどんな"物語"でも、最終的にはハッピーエンドにしちゃうんだってね」
カイは言った。
「この少女にも、ぜひハッピーエンドを迎えさせてあげてほしい」
コー・オウジは、少女を見た。それから、カイを見た。何かを見抜いたような目ではなかった。ただ、にこにこしていた。
「ええ、お引き受けしましょう。ご心配なく。最高のハッピーエンドにしてみせますよ」
ソファーの上で、ローゲンが顔をしかめた。
嫌な予感がした。
ローゲンは、茶で濡れた前髪を掻き上げ、割れずに残っていた最後の一本を開けた。
三
「さて」
コー・オウジは、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。依頼書と書かれている。探偵社らしいことをするのが、どうやら楽しくて仕方がないらしい。
「まずはお嬢さんのお名前から伺いましょうか」
「さあ。名前は、ないんじゃないかな」
カイは、隣の少女を見もせずに答えた。少女は、手の中のドーナツを見つめたまま何も言わなかった。
「それは困りましたねえ。名前がないと、依頼書が書けません」
コー・オウジは、ドーナツを一つつまんで、少しの間考えた。
「ナン・ルーナックさん、というのも失礼ですし。……ルーナさん、でどうでしょう」
ナン・ルーナックとは、本名を名乗りたくないカイストが使う、決まりきった偽名だった。
少女は、ルーナ、と小さく繰り返した。表情は変わらなかった。
カイはその名前の響きに、ほんの一瞬だけ息を止めた。
コー・オウジは、依頼書の一番上に、大きな丸い字でルーナと書き込んだ。
「では次に。依頼人さんとルーナさんのご関係は」
「通りすがりだよ」
「なるほど、通りすがり。それから、期限はありますか」
「呪いは少しずつ進む。今はまだ、嬉しいとか楽しいとかが分からなくなってきたくらいだ。後一年もすれば、何も感じなくなる。そうなったらそこで死んで、また転生するだけだね。魂が溶けるのはまだまだずっと先さ。希望溢れる設定だろ」
「一年後、と」
コー・オウジは丁寧に書き込んだ。
「最後に、報酬ですが」
「君の好きなものを、なんでも」
「それは困りましたねえ。私、欲しいものは大体持っているので」
コー・オウジは、太い指で顎を撫でた。それから、にっこりと笑った。
「では、ハッピーエンドを見られれば、それで結構です」
カイは、少しだけ目を細めた。
「一つ聞いてもいいかい」
「どうぞ」
「君は、どうやってハッピーエンドにするんだい」
「さあ。私にもよく分かりません」
コー・オウジは、あっさりと言った。
「いつも、なんとかなるんですよ」
「なんとかならなかったら」
「一つ、と言いませんでしたか」
「いじわるするなよ」
「なんとかなるまで、やるだけです」
「その途中で誰かが不幸になっても、かい」
コー・オウジは、ドーナツを一つ口に入れた。ゆっくり噛んで、飲み込んでから答えた。
「途中のことは、あまり考えたことがないですねえ。最後にみんなが笑っていれば、それでいいじゃありませんか」
カイは、黙った。
耳の奥で、広場の歓声が鳴っていた。魔王が倒れ、勇者が姫と結ばれ、人々が拍手し、口笛を吹き、帽子に銀貨を投げ込む。最後にみんなが笑っていた。あの広場で、笑っていなかったのは一人だけだった。
「……そうだね。君は、そういう感じだよね」
カイは、それだけ言った。
ソファーから、ローゲンが立ち上がった。
茶で濡れたシャツのまま、応接テーブルの前まで歩いてきて、カイを見下ろした。
「おい。お前、カイストだな」
「そうだよ」
「何が目的だ」
「あれ、ディンゴから情報は降りてきていないのかい。まぁいいさ。依頼人だよ。それ以上でも、それ以下でもない」
ディンゴ、という名に、ローゲンの目つきが変わった。
聞いていた話が、頭の中で繋がった。雨の路地で獲物を守らされた八つ裂き王。針を止められた針一本。そういうことをやってのける、よく分からんカイストが現れた、と。その時のディンゴは珍しく、苦いものを噛んだような顔をしていた。
ローゲンは、しばらくカイの顔を睨んでいた。薄い男だった。我力の気配も、殺気も、何もない。それなのに、この男が入ってきてから、ろくなことが起きていない。
「……そうかよ」
それ以上何も言わず、ソファーに戻った。戻る途中で、床に残っていた酒瓶の破片を踏んだ。
ラミアは、砂時計を脇に寄せていた。
糸で吊るした水晶の六角柱を、少女の頭の上にかざす。水晶はゆっくりと揺れ、それから、ある一方向へ引かれるように傾いた。ラミアは目を閉じ、揺れの幅と向きを確かめていく。
「……見たことのない構造ね」
ラミアは、目を開けて言った。
「呪いの芯が、この子の魂の一番奥に食い込んでいる。表面からは触れられないわ。でも……」
ラミアは、少しだけ言い淀んだ。
「こんなの……まるで……」
カイは、何も言わなかった。
「それと、糸の端が一本、どこか遠くへ伸びているわ。呪いを刻んだ誰かの痕跡か、呪いの元になった何かか。辿れるかもしれない」
「おお、手がかりですね」
コー・オウジが、嬉しそうに手を叩いた。
その間、アロロアは少女の隣にしゃがみ込んでいた。
「ルーナさん。ピザもありますよ。冷凍ですけど、美味しいですよ」
少女は、アロロアの顔を見た。何も答えなかった。嬉しいとも、嫌だとも、分からない顔をしていた。
「あれ。おかしいですね」
アロロアは首を傾げ、それから、ふとカイの方を見た。
混沌から生まれた男の目が、カイの上で少しだけ止まった。
「この人、なんだか薄いですね」
「真君」
ラミアが、たしなめるように言った。
「あ、すみません。思ったことを言っちゃいました」
アロロアは素直に謝った。カイは、気にしていないというように肩をすくめた。
コー・オウジは依頼書を書き終え、満足げに眺めてから、机の上に置いた。
「では、まずはラミアさんの見つけた糸の端を辿ってみましょうか」
「私が行くわ。この糸は、私の水晶でしか辿れないもの」
ラミアは砂時計を鞄にしまい、それから夫の方を向いた。
「真君は残って。ルーナさんのそばにいてあげて」
「分かりました。頑張りますっ」
アロロアは元気よく答えた。何を頑張ればいいのかは、たぶん分かっていなかった。
「ローゲンさんも、一緒に来てもらえますか」
「……やっぱり俺も行くんだよな」
ローゲンが、天井を仰いだ。
「依頼人さんはどうされます」
「僕は、ここで待ってるよ」
カイは、応接の椅子に深く腰を沈めた。
「酒とか食べ物とか、適当にやっててもいいかい」
コー・オウジは、それを聞いてにこにこしていた。それから、立ち上がる前に、もう一度自分の腹の肉をつまんだ。
「おや。また少し、減りましたね」
誰も、その一言に何も言わなかった。
四
ビルを出たところで、ラミアが水晶を手から吊るした。
水晶は糸の先でしばらく迷うように揺れ、それから、東の空へ向かって傾いた。
「こっちね。かなり遠いわ」
「加速歩行で行くか」
ローゲンが言い、それから、隣に立つ所長を見た。
山のような巨体が、にこにこしながらローゲンを見ていた。
「……おい」
「よろしくお願いします」
ローゲンは、長い溜め息をついた。それから、所長の背中と膝の裏に腕を回し、ひょいと抱え上げた。
俗に言う、お姫様抱っこだった。
「笑うな」
「笑ってないわ」
ラミアは口元を押さえて、そっぽを向いていた。
ローゲンが、地面を蹴った。
一歩目で、足が地面を離れた。二歩目で、ビルの屋上を越えた。三歩目からは、もう何もない空を踏んでいた。踏むたびに速さが増し、街並みが足の下で小さくなっていく。隣では、ラミアが同じように宙を駆けていた。
本来なら、ここから先はもっと速い。加速歩行を突き詰めた者は、空気の壁すら無視して走る。ただしそれは、走る者自身の体にしか効かない。腕に抱えた者までは守れない。
コー・オウジは、我力で自分の体を守らない。全力で空を駆ければ、その巨体は風圧をまともに受けて、ひしゃげてしまうだろう。
ローゲンは、所長が潰れないぎりぎりの速さで空を駆けた。ラミアも、それに合わせた。所長の頬の肉が、風に煽られてぶるぶると震えていた。
空の旅は、ろくなことがなかった。
水晶が示す方角に向かえば、晴れていた空にローゲン達の行く手だけ雲が湧き、雷が鳴った。迂回すれば、どこからともなく渡り鳥の群れが現れ、正面から突っ込んできた。気流は三人の周りでだけ渦を巻き、真っ直ぐ進もうとするたびに押し戻された。そして雷雲の下を抜ける時、雹が降った。雹は、なぜか全部ローゲンの頭に当たった。
ローゲンは、黙って空を駆け続けた。
腕の中の所長は、どこから取り出したのか分からないが、ドーナツを齧りながら足の下を流れていく雲を眺めていた。
ローゲンの腕には、その重さがずっと乗っていた。
二百キロを超える重さだ。それが、ほんのわずかずつ、軽くなっていく。一歩ごとに、紙切れ一枚ほど。常人なら気づきもしない変化だった。けれど、刃の重さと敵の重さを腕で量ってきた戦士には、それがはっきりと分かった。
「所長。なんか、ずっと体重減り続けてるぞ」
「おや、分かりますか」
コー・オウジは、ローゲンの腕の中でのんびりと答えた。
「減っているうちは、まだ勝負がついていないということですねえ」
「……勝負って、何のだよ」
「さあ。私にもよく分かりません」
ローゲンは、それ以上聞かなかった。聞いても無駄だと知っていた。
三日目の夕方、ラミアの水晶が真下を指した。
眼下に広がっていたのは、草原だった。見渡す限り、なだらかな丘と、風に揺れる草しかない。
その真ん中に、遺跡があった。
黒い石を積み上げた、四角い建物だった。空の上からでも、それだけが周りの景色から浮いているのが分かった。緑の草原に、誰かが別の絵を切り貼りしたようだった。
三人は、遺跡の前に降り立った。
「なぁ……」
ローゲンは、所長を地面に下ろしながら言った。
「こんなところに、遺跡なんかあったっけか」
「なかったはずね……」
ラミアも、水晶を握り締めたまま、遺跡を見上げていた。
「少なくとも、この世界の地図にはどこにも載ってないわ。こんなの、見落とすはずがないわよ」
「おお、いかにもという感じですねえ」
コー・オウジだけが、嬉しそうに手を叩いた。
遺跡の中は、迷宮になっていた。
入口から階段を降りると、石の通路が四方に伸びていた。通路は分かれ、曲がり、また分かれ、ひたすら下へ下へと続いていた。壁には一定の間隔で松明が掛けられ、ローゲン達が近づくと、ひとりでに火が灯った。
埃が、一つもなかった。
古い遺跡のはずなのに、石の表面には苔も汚れもない。つい昨日、職人が仕上げたばかりのように新しかった。
壁のあちこちに、碑文が刻まれていた。ラミアが近づいて読み上げる。
「真実を求める者よ、闇の底へ降りよ。……読めるわ。普通に読める言葉で書いてある」
「親切な遺跡だな」
ローゲンは、心底気味悪そうに言った。
迷宮は、明らかに、誰かを奥へ招き入れるために作られていた。碑文は道を示し、松明は足元を照らし、どの分かれ道も、最後には必ず下へ繋がっていた。
それなのに、辿り着けなかった。
碑文の示す道を進めば、行き止まりだった。引き返せば、さっき通ったはずの通路が消えていた。下へ降りたはずが、気づけば一つ上の階に戻っていた。水晶の揺れは、どこへ進んでも、真下を指し続けていた。
迷宮が、奥へ招いている。そして何かが、それを片端から裏返している。
丸一日、三人は迷い続けた。
「……もういい」
何度目かの行き止まりの前で、ローゲンが言った。
目の前の壁の向こうに、水晶が真っ直ぐ傾いている。この壁さえなければ、底はすぐ目の前だ。
「ローゲン……それはちょっ……」
「ぶち抜く。迷ってる間に一年経っちまう」
ラミアが止める間もなかった。ローゲンは拳を引き、壁に叩き込んだ。
壁は、あっけなく砕けた。
砕けた壁の向こうの天井が、崩れた。天井の向こうの床が、抜けた。床の向こうの柱が、傾いた。一つの穴が次の崩落を呼び、崩落が次の崩落を呼び、あり得ない確率で、遺跡の全てが一斉に崩れ始めた。
「伏せろっ」
ローゲンは所長とラミアを抱え込むように覆いかぶさった。
轟音が、世界を埋めた。
どれくらい経ったのか、分からなかった。
ローゲンは、瓦礫の中から這い出した。全身が痛んだ。背中に落ちてきた何百トンもの石を、受け止めていたらしい。ただの石であればこの程度の重量、ローゲンにとっては何の問題にもならない。崩壊した瞬間、石は我力を付与された強化物質となったのだ。
ふざけやがって……なんでもありかよ、とローゲンは心の中で悪態をつく。
腕の中で、ラミアが咳き込んでいた。所長は、ドーナツの袋を大事そうに抱えたまま、埃まみれでにこにこしていた。
三人とも、生きていた。
顔を上げると、遺跡はなくなっていた。
代わりに、大きな穴があった。
草原の地面が、巨大な球の形に抉り取られていた。すり鉢などという生易しいものではない。地の底まで、まるで見えない球体を押し当てて、そっくりくり抜いたような、完全な丸い穴だった。
そしてその穴の、球の中心にあたる場所に、何かが浮かんでいた。
正四面体だった。
四つの三角形の面を持つ、この世で一番単純な立体。拳ほどの大きさのそれが、支えもなく宙に浮かびゆっくりと回っていた。
色が、定まらなかった。
面が一つこちらを向くたびに、違う色をしていた。赤だと思えば青に、青だと思えば見たこともない色に。見ているうちに目の奥が痛くなるような、極彩色だった。
ラミアが、震える手で水晶を吊るした。
水晶は、正四面体の頂点の一つを指した。そこから、細い糸が一本、どこか遠くへ伸びていた。事務所の方角だった。
「……あれが、呪いの芯ね」
ラミアが、かすれた声で言った。
ローゲンは、極彩色の四面体をしばらく睨んでいた。
「なあ。あれ、解呪した瞬間にバエスクが出てくるとかじゃないだろうな」
「そうなったら、真君頼りになってしまうわね……」
ラミアは、少しだけ苦い顔で笑った。
それから、深く息を吸って、鞄から砂時計を取り出した。
「糸を、ここで断ち切るわ。芯と、あの子を繋いでいる糸を」
ラミアは、穴の縁に膝をついた。砂時計を地面に置き、ひっくり返す。砂が落ち始めると同時に、指先が走った。
光の線は空中で陣となっていく。
事務所で何百回も繰り返した動きだった。線を引き、円を閉じ、文字を刻み、また線を引く。指先は、迷わなかった。
最後の一線を、引いた。
砂時計の砂は、まだ落ちきっていなかった。
陣が輝いた。光の刃が、極彩色の四面体と遠くの事務所を結ぶ糸へ向かって、真っ直ぐに伸びていく。
「……届いた」
ラミアが呟いた、その刹那だった。
空から、何かが落ちてきた。
音はなかった。気づいた時には、それは陣の真ん中を突き破っていった。陣は、音もなく砕け散った。光の刃は、糸に届く前に消えた。
ローゲンが、落ちてきたものを慌てて掴んだ。拳ほどの大きさの、黒く焼け焦げた塊だった。
ラミアは、しばらく動かなかった。
砂時計の最後の一粒が、落ちた。
「これは、なかなかですねえ」
コー・オウジが自分の腹に手を当てながら、穴の縁でのんびりと言った。
五
事務所は、静かだった。
カイは応接の椅子に深く沈み込み、アロロアが焼いたピザを勝手につまみながら、所長の棚から出してきた酒を飲んでいた。冷凍のピザは、どういうわけか、いくら焼いてもなくならなかった。
遺跡の様子は、ここからは見えない。
けれど、カイには分かっていた。頭の中の本棚で、二冊の本の頁が、一枚ずつめくれていく。不幸運王の物語は、空の上で雷を呼び、渡り鳥を呼び、雹を降らせている。頁の端に、雹が全部誰かの頭に当たった、と書いてあった。
三日目の夜、呪いの物語の頁がめくれた。
草原の真ん中に、黒い石の遺跡が建っている。地下へ地下へと延びる迷宮。真実を求める者よ、闇の底へ降りよ。
ああ、着いたんだな、とカイは思った。
ピザを一切れ、口に放り込んだ。
アロロアは、ラミアに言われたとおり、ずっとルーナのそばにいた。
朝になればピザを焼き、昼になればピザを焼き、夜になればまたピザを焼いた。ルーナの前に皿を置き、隣にしゃがみ込み、あれこれと話しかけた。空の色の話をし、ラミアの話をし、所長のドーナツの話をした。
ルーナは、何も答えなかった。
ピザを口に運ぶことはあった。けれど、美味しいのかどうか分からない顔のまま、ゆっくりと噛んでいるだけだった。
「あれ。おかしいですね」
そのたびに、アロロアは首を傾げた。そしてまた、次のピザを焼いた。
二日目の昼のことだった。
アロロアが、事務所の奥の棚を見上げて、首を傾げた。
棚の上に、赤い宝石が一つ置かれていた。大人の握り拳ほどの大きさで、小さな台座に据えられている。昨日まで、そんなものはなかった。
「あれ。こんなの、ありましたっけ」
アロロアは、しばらくそれを見つめていた。見覚えがあるような、ないような顔をしていた。
それから、ピザが焦げる匂いに気づいて、慌てて台所へ戻っていった。
宝石は、棚の上で黙っていた。
カイは、宝石の方を見なかった。
四日目の夕方、カイは暇つぶしに本棚を眺めていた。
アロロアの名が入った本を探した。何冊か見つかった。混沌から来た男は、それなりに人気があるらしい。
けれど頁を開くと、どれも文字が水に落としたインクのように滲んでいて、一行も読めなかった。
一冊だけ、読める本があった。
アロロアと『不死者』グラン・ジーの再会。
「カイさん、何を見てるんですか」
アロロアが、ピザの皿を持って、カイの向かいに座った。
「……よく何か見てるって分かったね。本だよ」
「本ですか。僕、そういうのよく分からないんですよね」
アロロアは、ピザを切り分けながら、のんびりと言った。
「昔のこともあんまりよく覚えていないんですよ。なんか、誰かと会った気もするんですけど」
カイは、頭の中で本を閉じた。
「そうかい。君は、忘れん坊さんなんだね」
「はい。よく言われます」
アロロアは、嬉しそうに笑った。
それから切り分けたピザを持って、またルーナの隣へ戻っていった。
「ルーナさん、焼き立てですよ」
ルーナは、皿を見た。手を伸ばさなかった。
アロロアは、ルーナの顔を覗き込んだ。何日も話しかけ、何枚もピザを焼き、それでも一度も変わらなかった顔だった。
「うーん。どうしたら、いいんでしょうね」
アロロアは、少しだけ考えた。
それから、ルーナの手を、そっと両手で包んだ。ラミアが、疲れた時に時々そうしてくれるのと同じように。
アロロアの指先の輪郭が、ぼやけた。
黒いスーツの袖口から、灰色のものが滲み出した。形のない、ドロドロとしたものだった。それがアロロアの指を伝い、ルーナの手の甲に、ほんの一滴だけ落ちた。
「あれ。うまくいかないですね」
アロロアが、首を傾げた。
ルーナの体が、びくりと跳ねた。
小さな口が、声にならない息を吐いた。見開かれた目から、光が一つ、すっと抜けていった。それまでかろうじて残っていた何かが、根こそぎ持っていかれたようだった。ルーナの体は、椅子の上で糸が切れたように崩れた。
「ルーナさん」
アロロアが、慌ててルーナを抱き起こした。ルーナは、目を開けていた。けれど、その目はもう何も映していなかった。
頭の中の本棚で、呪いの物語の頁が、大きくめくれた。
糸は、切られなかった。遠い遺跡の底で、誰かの陣が砕けていた。そしてこちらでは、混沌の一滴が、少女の魂の奥にある芯を揺り起こしていた。
カイは、ピザの最後の一切れを、ゆっくりと飲み込んだ。
六
遺跡組が戻ったのは、事務所を出発してから六日後の夜だった。
ローゲンは、相変わらず所長を抱えていた。空の上で雹を浴び、雷に打たれかけ、帰り道でも一度だけ渡り鳥に突っ込まれた。片手には、あの黒く焼け焦げた塊を、何かの手がかりになるかもしれないと握ったままだった。
扉を開けた瞬間、ラミアの視線が一点に刺さる。
応接用のソファーに、ルーナが寝かされていた。アロロアが、その傍らに膝をついていた。ルーナの手を両手で握ったまま、アロロアは振り返った。
「ラミアさん。……うまく、いかなかったです」
いつもの朗らかな声ではなかった。
ラミアは鞄を放り出して駆け寄り、ルーナの上に水晶をかざした。水晶は、ほとんど揺れなかった。糸の先で、力なく垂れ下がっているだけだった。
「これは……もう……」
ラミアの声が震えた。
「感じる、ということが、もうほとんど残っていないわ。この子の呪いは、何も感じなくなった時に……」
その先は、言わなかった。
「……今夜、か」
ローゲンが、低く言った。
カイは、応接の椅子に座ったまま、それを眺めていた。
あの穴の底の四面体と、ここに横たわる少女が、一本の糸で結ばれている。糸は、もうほとんど切れかけていた。
「では、皆で行きましょうか」
コー・オウジが言った。
「あの穴へ」
「……所長、それに何の意味が」
「さあ。私にもよく分かりません」
コー・オウジは、いつものようににこにこしていた。けれど、その丸い頬は、出かける前よりほんの少しだけこけていた。
「でも、そんな気がするんです」
誰も、それ以上は聞かなかった。
アロロアがルーナを抱き上げ、ローゲンがまた所長を抱え上げた。ラミアが水晶を吊るし、四人は夜の空へ駆け上がっていった。
棚の上の赤い宝石は、いつの間にか、なくなっていた。
カイは、誰もいなくなった事務所を見回した。
それから、もう一度、椅子に深く腰を沈めた。
依頼人として、最後まで見届けないとね、カイはそう心の中で呟く。
七
穴は、夜の中にあった。
草原に月の光が落ち、巨大な球形の穴の縁を、白く縁取っていた。その中心で、拳ほどの正四面体が、極彩色の光を明滅させながら回っていた。
四人は、穴の縁に降り立った。
アロロアが、腕の中のルーナをそっと地面に下ろした。ルーナは、目を開けていた。月も、穴も、四面体も、何も映していない目だった。
そして、いつの間にか、カイもそこにいた。
穴の縁の少し離れたところに、痩せた男が立っていた。どうやって来たのか、誰も聞かなかった。
ローゲンの腕の中で、コー・オウジの体重が減り続けていた。
一歩ごとに紙切れ一枚、どころではなかった。ローゲンの腕が、はっきりと感じ取れるほどの速さで、重さが抜けていく。所長の顔は、月明かりの下で、ずいぶん小さく見えた。
「ラミア。最初ここまで来るのにどのくらいかかった」
「……三日はかかったわね」
「どうなってんだ。まだ夜すら明けてねぇぞ」
「……もう何が起きても驚かないわ」
「おい、所長」
「ええ。なかなかですよこれは」
コー・オウジは、のんびりとした声のまま言った。額に、汗が浮いていた。
ルーナの呼吸が、浅くなっていく。
ラミアの水晶が、糸の先で、ぴたりと止まった。
カイは、それを見ていた。
耳の奥で、広場の歓声が鳴っていた。勇者が魔王を倒し、姫と結ばれ、人々が拍手している。その拍手の下に、名前のない娘が埋められている。
ほら。ハッピーエンドなんて、どこにもない。
頭の中の本棚で、呪いの物語の頁が、最後の一枚に近づいていた。
その時だった。
「……止まった」
ローゲンが、呟いた。
腕の中の重さが、減るのをやめていた。一歩ごとに抜けていった紙切れ一枚が、どこにも行かなくなった。
コー・オウジは、ローゲンの腕の中で、自分の腹に手を当てた。
「ああ。勝ちましたね」
カイの頭の中で、一冊の本が、音もなく消えた。
不幸運王の物語だった。
八
ローゲンの手の中で、黒く焼け焦げた塊が、熱を持った。
「うおっ」
思わず開いた掌から、塊が浮き上がった。塊は、ゆっくりと穴の中心へ向かって漂っていった。月明かりの中で、焦げた表面が剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、四面体と同じ、拳ほどの大きさの、何色とも言えない光だった。
塊は、回り続ける四面体の、一つの面に触れた。
四面体の回転が、止まった。
明滅していた極彩色が、一つの色に定まりかけて、揺らいだ。
ルーナの手の甲で、灰色の染みが、ぼんやりと光っていた。アロロアが落とした、混沌の一滴だった。その光が、ルーナの手から穴の中心へ伸びる細い糸を伝って、するすると昇っていく。
灰色の光は、四面体に届いた。
四つの頂点が、溶けた。
極彩色の面が、端から崩れていく。形のあるものが、形のないものに戻っていく。水に落とした砂糖のように、四面体は、音もなく混沌へ還っていった。
穴の中心には、もう何もなかった。
ルーナが、瞬きをした。
月が、その目に映っていた。
「……ばかな」
カイは、穴の縁で立ち尽くしていた。
「何が起きてるっ。どうやって解呪したっていうんだ。"理論上解けない呪いを受けた少女"、そんな物語を選んだんだぞ……」
頭の中の本棚から、また一冊が消えた。呪いの物語だった。
コー・オウジが、ローゲンの腕から降りた。見る影もなく、とまではいかない。けれど、出かける前の巨体を知っている者なら誰でも分かるほど、痩せていた。
「本人のプライバシーもあるので詳しくは言いませんが、本物の"理論上解呪できない呪い"は、こんなもんじゃありませんよ」
コー・オウジは、汗を拭きながら言った。
「まあ、どうやって解けたのかは私にも分かりませんが。今まで起きてきた"悲劇"に、何らかのトリガーがあったんじゃないですか。詳しくは知りませんが」
カイには、理屈は分からなかった。
けれど、見えてしまった。
迷宮が崩れなければ、四面体は闇の底に隠れたままだった。ラミアの陣を砕いたあの塊だって、そもそもなんで都合よく落ちてきたんだ。アロロアの混沌だって、あれは不幸にも失敗した結果だっただろっ。それがなければ、四面体を溶かす一滴はどこにもなかったんだ。
自分が差し込んだ不幸が、一つ残らず、この結末のために並べ直されていた。悲劇が深かった分だけ、結末が輝いていた。自分の持ち込んだ物語ごと、誰かの物語の第一章に組み込まれていた。
ルーナが、ゆっくりと体を起こした。
アロロアが、その肩を支えた。ラミアが、膝をついて顔を覗き込んだ。ローゲンが、少し離れたところで、大きく息を吐いた。
「おはようございます、ルーナさん」
コー・オウジが、にこにこしながら言った。
少女は、自分を呼ぶその名前を、小さく繰り返した。
「……ルーナ」
「もうルーナじゃなくていいですよ。本当の名前はおいおい思い出してくださいね」
そして、初めて笑った。
コー・オウジは、それを見て、満足げに頷いた。
「世の中には程々に悪いことがあって、程々に良いことがある。そのメリハリが大切なんですよ」
カイは、少女の笑顔を見ていた。
名前で呼ばれて、笑っている少女を。
あの広場では、娘の名は一度も呼ばれなかった。村の娘、とだけ歌われた。
「コー・オウジ……」
カイの声は、掠れていた。
「これじゃあ、お前が本当にこの世界の"作者"じゃないか……」
「私が作者ですか。それはちょっと言い過ぎですね。私はハッピーエンドの結末を迎えることしかできませんし」
コー・オウジは、カイの顔を見て続けた。
「まぁそうは言っても到底納得できないでしょうね。よく分かりませんが結局のところ、"この世界"はこういった結末の方が好きなのではありませんか。よく分かりませんけど」
「納得できるわけないだろっ。俺も、誰もがお前の掌の上で踊ってたっていうのかっ」
「あー、そうきますか」
コー・オウジは、困ったように頭を掻いた。
「残念ながら二番煎じですよ。ホンモノが同じようなことを言って世界で暴れ回った結果、結局消えていなくなりましたし」
コー・オウジの体重が、少し減った。
「それにあなたの方が、よっぽど作者っぽいことしてる気がしますけどねえ。ねえ、エルリアックさんもそう思いませんか。同業者が現れちゃいましたね」
コー・オウジは、穴の縁の暗がりに向かって言った。
いつの間にか、そこに彼女がいた。
細身の黒いスーツに、丸縁の眼鏡。胸の前あたりに、赤く光る宝石が浮いている。月明かりの下、女は静かに拍手をしていた。
「同業者、ですか」
女は、手を止めた。
「……ええ、いいわ。とても、いい。この方は、とても良い登場人物でしたわ」
カイは、その声を知っていた。
燃える村の上で、床下の暗闇の中で聞いた声だった。あの夜、妹の死を讃えた声が、今、自分の敗北を讃えていた。
観ていたはずの観測者は、自ら選んだはずのその役さえ、誰かの筋書きの一行に過ぎなかったことを悟り、消えた。
エルリアックは、コー・オウジにだけ届く声で話しかけた。よそ行きの丁寧さが、声から抜け落ちていた。
「なぁ、コー・オウジ。あいつの絶望って、私達全員にも降りかかるんじゃないか」
「おや。エルリアックさん、そんなこと考えちゃったんですか。別にいいんですよ。結末がハッピーエンドだったら」
九
数日後、大路ミラクル探偵社2ndでは、宴会が開かれていた。
すっかり元の福々しい姿に戻ったコー・オウジが、ドーナツを両手に持って、陽気に笑っていた。ローゲンは昼間から酒瓶を傾け、今日ばかりは溜め息もつかなかった。ラミアの机の上では、砂時計が静かに砂を落としていた。
アロロアが、焼き立てのピザを皿に載せて、応接のソファーへ運んだ。
「ルーナさん、焼き立てですよ」
少女は、一切れを手に取り、齧った。
「……美味しい」
アロロアは、心から嬉しそうに笑った。
所員達は、時々、陽気に笑う所長の横顔を盗み見た。初めて味わった本当の絶望と、それを覆した何か。その何かが、この福々しい笑顔のどこにあるのか、誰にも分からなかった。
『幸運王』『無手勝』『節目のカイスト』コー・オウジ。彼に対して各々が、改めて畏れに似たものを抱いていた。
(完)
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