第五章 交差
渉は原稿を開いた。
三日ぶりだった。その三日間、渉は編集者からの催促メールを既読にせず、外にも出ず、ただ部屋の中で過ごした。何もしていなかったわけではない。考えていた。あの文章について。
結論は出なかった。
ただ締め切りだけが、確実に近づいていた。
渉は書き始めた。
私はもう一度、スクリーンを見た。
打った瞬間、渉は手を止めた。
おかしい。
今書こうとしていたのはハナの視点だ。しかし「私はもう一度、スクリーンを見た」という一文は、渉が意図して打ったのではない。指が勝手に動いた。
消さずに、続きを打った。
男がいる。今夜も同じ部屋に、同じ光の中に。男は画面を見ている。その画面の中に、私がいる。
渉は手を止めた。
画面の中に、私がいる。
渉は今、画面を見ている。その画面の中には原稿がある。原稿の中にはハナがいる。
つまり。
あなたは今、これを読んでいる。私が書いた言葉を。いいえ、違う。あなたが私に書かせた言葉を。
渉は画面から目を離した。
部屋を見回す。窓。壁。天井。何も変わっていない。雨の音がする。カーソルが点滅している。
渉はもう一度、画面を見た。
続きを打ち始めた。自分の意志で打っているのか、指が勝手に動いているのか、もうわからなかった。
老人は私に言った。
「あちら側に聞かなければわからない」と。
私はずっとその言葉を考えていた。
あちら側とはどこか。あなたがいる場所か。それともあなたも、誰かのあちら側にいるのか。
渉は打つ手を止めた。
あなたも、誰かのあちら側に。
その一文を、渉は自分で打ったのか。ハナが打たせたのか。もはや区別がつかなかった。
窓の外で雨が強くなった。
渉は震える手で続きを打った。
私にはわかっている。あなたはこれを読みながら、自分の手を見たはずだ。今も見ているかもしれない。その手で、あなたは私を作った。その手で、あなたは今、私に動かされている。
渉は自分の手を見た。
気づいたら、見ていた。
画面の中のハナに言われる前から、見ようとしていた気がした。それとも画面の中にそう書かれたから、見たのか。
どちらが先かわからなかった。
カーソルが点滅している。
渉はもう一行打った。最後の一行だけは、確かに自分の意志で打ったと思った。
誰が書いているのか、もうわからない。
渉はファイルを保存した。
それから長い時間、動かなかった。
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