第六話 旦那様これをお召し上がりください それって、生体実験では?
「旦那様、少しよろしいでしょうか」
千草がいやに真剣な目で見つめてくる
「ど、どうしたのだ。何か問題でも起こったのか?」
その問いに、はっとした千草は、いつものおっとりした表情に戻る
「いえ、問題と言うほどのことでは、ございません。
先ほど持ち帰ったハナのお乳のことなのですが——」
「も、もしかして七色になったとか——」
「いえ、七色にはなっておりません」
「そ、そうか」
「七色になった方がよかったでしょうか?」
「い、いや、そんなことはない。乳は白色が一番だ。うん」
変なところで肯く祥吾を不思議そうに見る千草
「先ほど毒味を致しましたところ——」
「また、毒味をしたのか!?」
「妻の役目でございますから」
「いや、普通はちがうだろ」
「旦那様、今は普通ではございません。非常事態でございます」
その言葉にショックを受ける祥吾。
(軍人のくせに、俺は、なんと、戦況判断の甘い男なのだ。
妻に気づかされるとは!)
「お食事の材料が限られております。食べられるものは七色であろうと
なんでも食さねばなりません!」
「そっちか!」
霧散する祥吾の反省
「それで、毒味をした結果」
「どこか、具合が悪くなったのか?」
「いえ、その逆でございます。体調がすこぶる良くなりまして
これなら、屋敷中をお掃除しても大丈夫な——」
「いや、それはしなくても良い」
「そうですか」
残念そうな千草に、問いかける
「それで、最初に言おうとしてたことは何なのだ?」
「ああ、そうでございました」
「ハナのお乳が、そうであるなら、牛のお乳も同じではないかと思いまして
牛の乳も搾って試してみようかと。
それで、お手数ですが、ご一緒していただければと」
「もちろんだ、妻を守るのは夫の役目だ」
ここぞとばかり勢い込んで主張する祥吾
「ありがとうございます。ついでといってはなんですが、
他にもお願い致したいことがございますの」
「なんでも、言ってくれ。千草の言うことは一番に優先だ」
その言葉に、ぱあっと顔を輝かせる千草。
その笑顔が見られただけで、祥吾は心が浮き立つ
「これからは、毒味をご一緒していただけないでしょうか。
一人より二人の方が、より正確な記録が得られます
あっ、もちろん、まず私が毒味をして、安全を確かめた上で
旦那様に食していただきますので——」
喜び勇んで説明する千草を見ながら、
浮き立った心が急激に萎んだ祥吾はぼんやり思った
(それって、生体実験では?)
第七話 旦那様水でございます まて、外へ行くな、くそっ、なぜ、俺だけ出られないんだ!
牛舎へ向かう途中に屋敷の外を、改めて見る
周りが木々で覆われているので、森だというのは分かる
だが、屋敷のそばまで木々が迫っている訳ではない
木々は少し離れた場所から奥へと鬱蒼と茂っている
それらの木々は、祥吾の知る日本の森とは異なり
幹は奇妙な色合いを帯び、葉は不自然なほどに大きく
陽光すら吸い込むかのように鬱蒼と茂っていた
その奥からは、得体の知れない獣の鳴き声や
粘りつくような湿った土の匂いが漂い
薄暗い森全体が、まるで生き物のように蠢いているかのようだった
その真ん中に、ぽっかりと空間を切り取ったように、屋敷と敷地
そして、そのまわりに平地があり、そこから森へと続く
「こうして見ると、明らかに異常だな
なぜ、このようになったのか、さっぱりわからん」
「そうでございますか?」
千草の問いに、祥吾は驚く
「千草は分かっているのか?」
「地震のせいでございましょう?」
思わず脱力する
「いや、それはわかっている。問題は、地震でどうして、
我が家だけがこのようになってしまったかということだ」
「そうでございますねえ
ですが、
分からないことを、今思い悩んでも詮無き事
出来ること、必要なものを得ることこそが肝要でございます」
祥吾は何か言おうとして口をパクパクするが声が出ない
その時、千草が立ち止まり、真剣な顔であたりを見回す
目を閉じ、鼻を嗅ぎ、耳に手をやり何かを聞こうとしている
「千草?」
その声に、祥吾の方へ向いた千草の顔は、獲物を見つけた鷹にように鋭かった
「旦那様、水でございます!」
そう言うと、千草は、まるで獣のような素早さで走り始めた
その後を、いつの間にかついてきていた疾風が追う
その時になって、我に返った祥吾も、慌てて後を追う
だが、その頃には、追いついた疾風のたてがみを掴み、
鮮やかに馬上の人となった千草に、置いて行かれてしまった
祥吾も軍人である。千草と疾風が去った方へ、全力で走った
やがて、姿を捉えた祥吾は、そこで戦慄する
千草を乗せた疾風は、敷地の外へと出ていた
言葉にならない叫び声をあげ、祥吾もまた、全力疾走で敷地から外へ出ようとする
その瞬間、激しい衝撃をうけ、祥吾は意識を手放した
「旦那様、旦那様!」
激しく体を揺さぶられて、祥吾の意識は浮上した
目の前には、泣きそうな顔の千草がいた
「千草」
そう呼ぶと、千草は祥吾に抱きついてきた。
自分の頬に触れる千草の柔らかな頬と、涙で濡れた水気を感じた瞬間
祥吾の胸に、これまで感じたことのない温かい感情が満ちた
それは、軍人として培ったいかなる矜持よりも
夫としての未熟な自分を包み込む、純粋な愛情の重みだった
彼女の心配を少しでもはやく消し去ろうと祥吾は言った
「大丈夫だ。俺は軍人だ。このくらいのことでどうもしない」
そう言いながら、いまのは一体どれくらいだったのだと痛む全身で思った
祥吾から離れた千草は、地面に正座し、指をついて頭を下げた
「申し訳ありません、旦那様。私のせいでお怪我を
このお叱りはいかようにもお受けいたします」
「大丈夫だと言っただろう。気にせずともいい
それより、いきなり走り出したのは、どうしてだ?」
千草は、はっとして屋敷の外を指さした。
「川がございます。これで水の心配はなくなりました」
「どういうことだ、水なら敷地内の井戸でくめば——」
「井戸は涸れております」
「なっ!」
「地震の次の日に井戸を見てみましたが、涸れておりました。
幸い、何個かの瓶に水がたまっておりましたので、不自由はしておりませんでしたが
それも、少なくなっておりましたので」
祥吾の胸に依然と同じ、いや、もっと鋭い痛みが走る
(俺は、何をやってたんだ!)
「こちらでございます!」
千草は、祥吾の様子には気がつかず、敷地外へ出る
「ま、まて千草、敷地外に出るのは危ないと——」
言いながら、祥吾もまた敷地外へ出ようとする。
再び、頑丈な壁にぶつかったように弾かれ、倒れた。
「旦那様?」
不思議そうに見つめる千草。
その千草に向かって、祥吾の横を通り過ぎた疾風は、ゆうゆうと敷地外に出る。
(くそっ、なぜ、俺だけ出られないんだ!)
疾風の顔がやけに自慢げにみえる祥吾だった。
第八話 魔物ですわ、旦那様お逃げください 千草、君が逃げろ なんだ、入れないぞー!
祥吾は、結界に悪戦苦闘していた。
深呼吸して心を落ち着けて進む、はじかれる
座禅を組み無我の境地に入り、進む、はじかれる
やけになって、刀で切りつける。はじかれない
そのまま刀は空を切り地面まで切り、
その勢いで顔から地面に激突する
その橫を、鶏のタマたちも、山羊のハナも、牛たちも、
悠々と歩いて行く
「旦那様……」
千草の気の毒そうな視線が心に刺さる。
駆け寄ってきた千草が、
起き上がるの手助けしようと手を差し出してくる。
恥ずかしさに、手を取るのをためらうが、
心配そうな表情に、
己の誇りを押し殺し手を取り起き上がる。
「あら」
千草が驚いた声を上げる
何事かと見ると、千草が嬉しそうに言った。
「旦那様、お外に出られましたわ」
見ると祥吾は結界のすぐ外にいた。
「良かったですわ。これで、一緒にお出かけもできますわね」
両手で祥吾の手を胸元に寄せながら言う千草。
固まる祥吾
(て、手が、む、胸に近い——)
結界の問題は、あっさり解決してしまった。
千草と手を繋ぐ。疾風に乗る。
誰か(?)と触れていれば、祥吾も結界から出ることが出来た。
ただ、祥吾の心は複雑だった。
(俺は、幼子か!)
もはや、主どころではない、屋敷内のどん底にまで落ちてしまった
その証拠に、みんな自分で結界を出ることができるのに、自分はできない。
(こいつらの手を借りねばならん、この身がうらめしい!)
川は、屋敷の裏手側、森の少し奧を流れていた。
千草が、先程からしきりに首をかしげているのに気がついて
祥吾は尋ねた
「何か気になる事でもあるのか?」
「いえ、今回私が川に気付いた場所は、今までも何回か通った場所なのです
今まで気がつかなかったのに、今日ははっきりと分かりました
それが気になって」
千草自身も理由が分からないようだった。
ほほに手を当て考え込んでいたが、
不意に目を見開いて川縁まで近づいた
「まて、うかつに動き回るのは危険だ」
祥吾は急いで千草の元に駆け寄る
「……旦那様」
千草が、しゃがみ込む。
「見てくださいませ」
指差した先には、見たことのない草が生えている。
葉は半透明で、わずかに光っている。
「これは?」
問いかけに千草が答えようとしたときだった
ガサリ、と音がした。
振り向くと、大型犬を一回り大きくした四つ足の獣。
低く、唸り、姿勢を低くする。
千草を背にかばい、祥吾は前に出て刀を抜く。
獣が跳んだ。地を蹴る音で間合いを測り、
踏み込みながら横なぎに振るう。
だが経験不足か、間合いが甘く、刀は空を切った。
獣はその下を潜り抜けた。
(まずい!)
そのときだった。
「旦那様!」
背後から、千草が飛び出してきた。
前に出た、その身を引き留めようと手を伸ばすが届かない。
「千草!!」
獣に襲われる妻の姿が脳裏にひらめき、自分のとは思えない悲痛な叫びをあげる。
だが、千草は手にした何かを、獣めがけて投げつける
獣が、空中で体勢を崩し、地面に倒れる
「旦那様、お逃げ下さい!」
「何を言う、俺が引き留める。早く屋敷に戻れ!」
獣は、立ち上がり低く唸る。だが、襲ってはこない。
祥吾は千草をかばうように前に立ち、獣から目を離さず叫ぶ
「早く戻れ!」
その声の厳しさと、込められた願いに、千草は、思わず祥吾を見つめた
そして、すぐに身を翻し屋敷へと駆けだした。
(よし!)
その気配を察して、心の片隅でほっとしながらも、一編の隙もなく対峙する
やがて、獣は、低く唸りながら、後ずさり——去った。
祥吾は、しばらく警戒して構えを解かなかったが、気配が戻ることはなかった。
ほっとして構えを解くと、手がわずかに震える。
(情けない!)
思わず舌打ちをする。
屋敷に戻ると、塀の内で待っている千草の姿が目に入った
その安心して泣きそうな顔を見ると、先程の鬱屈が解けていく
思わず千草に駆け寄ろうとして、
祥吾はそこで結界に派手にぶつかりすっころんだ。
「旦那様!」
駆け寄ってくる千草を見ながら、祥吾は別の意味の鬱屈にさいなまれた。
(情けない……)
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。