第五章 引き潮の境界
夕食もそこそこに、三人で懐中電灯を手に浜へと向かった。夜の集落は、いつも以上に静まり返っている。老人たちの家の窓に灯る明かりだけが、点々と暗闇に浮かんでいた。坂道の途中、健介がふと足を止め、懐中電灯で側溝の暗がりを照らした。
「これ、覚えとる? 子どもん頃、ここで肝試ししたよな。里美ねえが一番びびって、途中で泣き出したんじゃ」
「泣いてなんかないし」
里美が横から口を挟んだ。三人分の小さな笑い声が、束の間、夜の緊張を和らげた。
浜に着くと、健介が黙って十二本の杭を一本ずつ確認して回った。この十二本の杭は、波打ち際から沖に向かって、一直線に伸びるように打たれている。最も遠い第十二杭は、浅瀬の急傾斜の直前――足の届かなくなる深
い暗闇の淵に位置していた。
里美は麻縄の束を丁寧に並べ直し、結び目の緩みがないかをひとつひとつ確かめている。誰に言われたわけでもないのに、それぞれが自分の役割を黙々とこなしていた。
満月に照らされて海は信じられないほどの静寂を湛えていた。月光が波間に砕け、無数の銀色の欠片となって漂っていた。
深夜一時四十分。潮は目に見えて引き始めていた。日中は海面下に隠れている鋭いリーフの背中が、あちこちで黒々と浮き上がってくる。
「潮結び」が始まった。私たちはそれぞれ、担うべき杭のスタート位置へと散った。本来であれば十二人の若者が一撃で十二本の杭に同時に縄をかける。それを三人でこなすため、配置と動線は特殊な形をとっていた。
私は第一杭に立ち、第四杭までを受け持つ。里美は腰まで海に浸かりながら中央の第五杭
から第八杭の前に構える。そして第九杭から第十二杭の前には、健介が立った。
それぞれが担当区画を素早く走り抜けて杭に縄を通し、中央の浅瀬へ持ち寄った縄の端を三角形に交差させ、最後に一つの大きな結び目を作り上げる。
手にする麻縄は、ソテツの灰汁で締め直され、ずっしりと重く、湿った土のような匂いを放っていた。
「一樹にい、里美ねえ、準備いいかいね」
健介が、静かだが、どこか張り詰めた声で私たちを呼んだ。彼の顔からは、あの格納壕で見せた焦りや迷いが消えていた。ただ、目の前の海を鋭く見つめていた。
「始めましょう」
合図のホイッスルを強く吹いた。鋭い高音が夜の静寂を切り裂き、遠くの崖に反響して消えていく瞬間、同時に冷たい海へと一歩を踏み出した。
「冷たっ」
里美が短く息を呑むのが聞こえた。引き波に足を取られ、踏み出すたびに海水が身体を押し戻した。
足元の砂が沖へさらわれる。足指で砂を掴むように踏ん張り、麻縄を握り直した。
健介は、膝から胸近くまで水に浸かりながら、水飛沫を上げて進んだ。泥とサンゴの破片を蹴り、杭から杭へと身体を運ぶ。月光に照らされた横顔は強張り、荒い息遣いが引き潮の低音に混じった。
指先の感覚は薄れ、麻縄のざらつきさえ遠くなっていた。
「健介、無理せんで!」
里美の悲鳴に近い声が響いた。第十二杭の手前で、健介の身体が大きく揺れた。それでも、健介は止まらなかった。
十本目、十一本目と、健介が杭に縄を絡めていく。残り一本というところまで来て、ようやく、束の間の安堵と静寂を覚えた。
第十二杭に最後の縄をかけた瞬間、大きなうねりが沖から押し寄せた。飛沫が視界を真
っ白に染める。
「あっ」
健介の足が水中の岩にとられた。張り詰めていた麻縄が、その手から滑り落ちかける。
そのとき、里美が動いた。自分の縄を左腕に巻き付け、身を沈めるようにして、右手で健介の縄を水面すれすれで掴み取った。
「健介、持ちよ!」
里美の声には、これまで聞いたことのない力強さがあった。健介は再び歯を食いしばり、彼女の手から縄を奪い返すようにして掴み直した。
二人はそのまま浅瀬へと泳ぎ戻り、私もまた中央の合流地点へと駆け寄った。三人の影が交差する中央の浅瀬で、それぞれの縄の端を持ち寄る。三本の太い麻縄が、三角形の頂点で巡り合う。
波の谷間、わずかに訪れる静けさを見計らい、無言のまま冷たい海の中で手を伸ばし合い、最後の結び目を作った。三人の手が重なり合い、麻の繊維が互いに強く擦れ合い、きしむ音がはっきりと聞こえた。
その刹那、波と波の間に、ほんの短い凪が訪れた。風も止み、三人分の荒い息遣いだけが、静まり返った海の上に残された。
結び目を締め終えた瞬間、張り詰めていた
何かが切れたように、健介がその場に膝からくずおれた。水面に顔を伏せたまま、肩を大きく震わせている。
「わん……わん、怖かった」
健介の声は、あの格納壕で聞いたときと同じ、覆いを失った生の声だった。
「沖に流されると思った瞬間、頭に浮かんだのは、工場のことでも、本土のことでもない。一樹にいと里美ねえを、この島に置いて、わんだけ死ぬんかち思うたら……怖くて、怖くてたまらんかった」
かける言葉が見つからなかった。ただ、冷たい海水に濡れた健介の背中の震えが収まる
まで、里美と私は、黙ってそこに立ち尽くしていた。
やがて健介の呼吸が落ち着き始めると、里美が無言のまま、自分の上着を脱いで彼の肩にかけた。潮の匂いと汗の匂いが入り混じった夜気の中、三人分の息遣いだけが、いつまでも波打ち際に残っていた。
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