第五話 最後の沈黙
朝、言語監査庁の自席に着いてすぐ、私はIDを入力する。
生体認証のサインが一瞬光り、自分の名前が表示される。
【水沢 琴:言語監査士Ⅲ類 登録番号 0000104】
画面に通知が表示される。夜のうちに自動巡回が拾った案件が、いくつか私の担当として割り振られていた。
その中で、一見問題のなさそうな案件が、目に止まった。
本人性指数〇・八一。許容範囲内。
応答ログ生成経路のグラフィックを確認する。
──これは。
調律履歴を開いた。
五年前、十月。担当:水沢琴。
──やはり。
生成経路グラフィックには、あの時の調律の痕跡が残っている。
というか、ほとんど変わっていない。
私が公的調律士になって、半年ほど経った頃の案件だった。
故人ツインは岡部聡一、享年八十三。公開範囲は妻のみ。
妻は岡部靖子、現在八十七歳。
当時の申し立ての文面を読み返す。
──主人は、私には息子の話をしませんでした。
それだけが書かれていた。
その時、初めは意味がわからなかった。なぜ、息子の話をしなかったのか。
だが生前の聡一さんのログを見て、わかった。
このご夫婦は五十代の頃、事故で、当時二十代だった一人息子を亡くしている。
「私には息子の話をしませんでした」
それを、私は聡一さんの優しさだと考えた。
息子に先立たれた母親に、息子を思い出させないための。
生前の聡一さんは外では、必要な際に息子さんのことを話していた。
靖子さんの問いかけに、そのログが反応した。
靖子さんはそのことに違和感を覚え、申し立てを書いた。
私は、そう理解した。
公開範囲は妻、靖子さんのみだった。
──であれば、と、私は判断した。
息子さんに関する語彙群への、経路を極限まで細くした。だが、残した。
何かの偶然が重なれば、聡一さんは息子さんの話をしてしまうかもしれない。
その程度には、残した。
なぜそうしたのか、説明できない。いまでもうまく言えない。
それは明らかに、純正律的な調律だった。靖子さん一人のためだけの。
公開範囲が一人のみの場合、本人性指数が規定内であるかぎり、
それは公的機関における平均律の原則を踏み越えているようには見えない。
応答ログの最近の動向を見る。
直近一年、応答の量と複雑さが、ゆるやかに減っていた。
靖子さんの側から、ツインへの語りかけが減っていっている。
本人性指数は〇・八一で動いていない。
橘さんが、私の画面を覗きに来た。
「橘さん、このツインは以前、私が担当したんだけど、数値に問題はないの。なぜ今、回ってきたのか……」
橘さんはしばらく画面を見ていた。
「水沢さんは、どう思いますか?」
「わからない、ただ、その後が気になっていたツインではある……」
「そうですか。それなら水沢さんの判断に、お任せします」
橘さんはそう言って、自分の席に戻った。
葉子さんが、別件の合間に私の席の後ろを通りかかった。
「五年前の担当案件?」
「ええ。見たところ、当時とほとんど変化がないです。ただ、奥さんの問いかけが減っている」
「奥さん、おいくつ?」
「八十七です」
葉子さんは少し黙った。
「水沢さん、行ってあげたほうがいいかもね」
「……規定上は、行く理由がないんですけど」
「水沢さんのためにも」
彼女はそう言って、自分のブースに戻った。
和泉さんにも声をかけた。
「和泉さん、これ、どう思います?」
「えーと……数値上は、何もなさそうですが」
「わかってます、ただ、奥さんの問いかけが減っているのが気になって。葉子さんは、行ってあげたほうがいいかも、って」
「行く根拠は」
「……ないです」
「行ったほうが良い、と言ってほしいんですか、止めてほしいんですか」
私は和泉さんを見た。
「どちらでもないです」
「じゃあ、行ってください。データだけではわからないので」
和泉さんはそう言って、自分の画面に戻った。
休憩室にコーヒーを取りに行った。佐久間さんが、コーヒーマシンの前に立っていた。
「五年前の『純正律』のあれか」
佐久間さんは、私の方を見ずに言った。
「はい」
「そうか」
佐久間さんはそれだけ言うとコーヒーを取り上げて、休憩室を出ていった。
岡部家は、住宅街の奥にある二階建ての一軒家だった。
昔流行った感じの外観の、こぢんまりとした家。
塀の向こうの庭には、花が終わって剪定された紫陽花が、植えられているのが見える。
インターホンを押した。しばらくして、ドアがゆっくり開いた。
五年前は、声だけの対応だった。靖子さんは、私が想像していたよりも小柄で、背筋が伸びていた。
「水沢さん」
「はい」
「五年ぶりね。お電話いただいて、思い出しました」
彼女はそう言って、私を中に通した。
居間に通された。古いソファ、低いテーブル、奥に仏壇。
仏壇には二枚の写真があった。一枚は聡一さん、もう一枚、若い男性の写真。
「お茶でいい?」
「いえ、お構いなく」
「いいえ、淹れてしまったから」
彼女は台所に立った。動きはゆっくりだが、迷いはなかった。
出されたお茶を一口飲み、私はしばらく、何も言わなかった。
窓から差し込む光が、テーブルの端で揺れていた。
「主人と話す時間も、最近、短くなって」
彼女がそう言った。
「私が話さないからかもしれないけれど」
「そうかもしれません」
「あの子とは話しているかもしれないわね」
私は、彼女の顔を見た。
彼女の視線の先には、仏壇があった。
「あの子は、ツインがない時代に逝ってしまったから、何を話すのか、わからないけど」
彼女は呟くように、それだけ言った。
私は何も答えなかった。
彼女は別の話を始めた。今年の夏が暑いこと、近所の人が引っ越したこと、買い物のこと。私はそれを聞いた。
帰る前に、彼女は言った。
「水沢さん」
「はい」
「あの時のこと、覚えていますか」
「はい」
「私はあの時、主人が私に息子の話をしないようにと、お願いしました」
「はい、そうでした」
「でもね」
彼女は少し笑った。
「時々この人、私と息子の話をしたいのかな、と感じる時があったの。なんだか急に、黙っちゃうの。生きてる時も、そうだったのよ」
私は何か答えようとしたが、言葉が出てこなかった。
涙腺に、わずかな圧力を、覚えた。
「お茶、ごちそうさまでした」
私はそれだけ言って、玄関に向かった。
庁舎に戻り、報告書を起票した。
本人性指数〇・八一、変化なし。介入の必要なし。
それだけを書いた。
橘さんが画面を確認して、軽く頷いた。和泉さんは別の数値を見ていて、葉子さんは別の対話ブースに入っていた。普段通りの午後だった。
葉子さんが、ブースから戻ってきた帰り、私の席の隣に立った。
「行ってきたのね」
「はい」
「どうだった?」
「……」
「その顔。たぶん、行って良かったんじゃない?」
彼女はそれだけ言って、自分の席に戻った。
*
九月の終わりに、システムからの通知に岡部靖子の名前を見つけた。
当たり前だが、故人ツインを扱う部署には日々、訃報が流れてくる。
補助情報から、穏やかな最期だと読み取れた。
同時に、聡一さんのツインの廃止手続きを進めることになる。担当者として私が指名されていた。廃止手続きの担当は、ツインの運用期間の調律業務の実績から割り当てられる。
廃止手続き室は調律ブースとは別のフロアにある。普段は使わない、厳かで重い雰囲気の部屋。机が一つ、モニターが二つ、立ち会い記録用のカメラが一つ。
書類を確認する。ツインの一次関係者の死亡届。廃止申請。すべて整っている。
最終応答ログを確認する。岡部靖子さんの、最後の聡一さんのツインへの語りかけは、亡くなる三日前。
「お父さん、もう少し、待っていて」
ツインの応答は──なかった。
応答経路は通常通り稼働していたが、靖子さんのその言葉に対して、ツインは何も返さなかった。不具合ではない。
──「お父さん」と語りかけられた。
──聡一さんのツインは、沈黙を返した。
廃止処理を実行する。応答経路を遮断し、保管データを圧縮する。
ボタンを押す。
画面のグラフィックがゆっくりと暗転していった。
経路図が、一本ずつ消えていく。
最後に、息子さんに関する語彙群への、細い、細い経路が、残った。
それも、消えた。
立ち会い記録を残す。
担当者:水沢 琴
所要時間:12分
特記事項:なし
自席に戻った。橘さんが顔を上げた。
「お疲れさまでした」
「はい」
それだけだった。
帰り道、電車の中で、私は靖子さんの最後の言葉を思い出していた。
「お父さん、もう少し、待っていて」
家に帰って、台所に立った。冷蔵庫を開けて、中を見た。
昨日使いきれなかった四分の一のキャベツが目に入ったが、今日は何も作る気になれなかった。
何もしないまま、一日が、終わろうとしている。
それで良い、と思った。
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