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迷子の天使

奥井晴弥

18,388 字

日常系連作短編、人生の機微、静かな発見

"街の片隅の花屋が、迷える魂たちにそっと手渡す、人生のささやかな花束。"

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   第五話 簡単なパズル

カブのエンジンをかけると、世界が少しだけ遠くなる。ヘルメットの内側は自分だけの場所で、風の音とエンジンの振動だけがある。局を出れば、誰とも話すことはない。郵便受けに手紙を入れる。インターホンを押して書留を渡す。郵便です。ハンコかサインをお願いします。それだけの言葉を一日に何十回か繰り返して、夕方には局に戻る。
藤原颯太は、この仕事が嫌いではなかった。だけど、好きかと聞かれたら答えに詰まる。
大学を出て、地元の大企業に入って三年ほど経った頃、友人の立ち上げたスタートアップに誘われた。面白そうだと思った。友人は言っていた。これからは地方の時代だ、この街から新しい価値を発信するんだ、と。
最初はうまくいっていた。地元の課題を、地元の目線で解くプロダクト。少しずつ軌道に乗って、「地方発スタートアップ」として注目されるようになっていった。
東京のVCが視察に来る。アクセラレータープログラムに採択される。気がつけば、友人はピッチイベントのために月に何度も上京するようになった。
帰ってくるたびに友人の言葉が少しずつ変わった。PMF、スケール、バリュエーション、バーンレート、ランウェイ。
友人もたぶん、好きでそうなったわけではない。金を集めるためにはビジョンが要る。ビジョンを語るためにスライドを作る。
スライドのための仕事が、東京の言葉が、いつの間にか藤原の仕事の大半になった。ピッチ用のデモ。投資家向けの数字。見栄えのいいプロトタイプ。
この街の課題を解くはずだったものが、変わっていた。ついていけないわけではなかった。
だけど、これに何の意味があるのかという静かな疑念が拭えなかった。
辞めた。引き止められることはなかった。
だけど、社会から完全に降りる勇気はなかった。どこかに属していたかった。巨大で、安定していて、自分の判断が要らない場所。
面接で志望動機を聞かれたとき、何と答えたかは覚えていない。たぶん、何か適当なことを言った。
相手に合わせた脚色には慣れていた。だけど、どう脚色したかは覚えていない。
最初の数週間は本当に楽だった。決められたルートを走り、書かれたとおりの場所に届ける。配り切る達成感は多少、ある。
セラピーだと思った。
だけど、一ヶ月が過ぎた頃から、別のものが混じり始めた。担当エリアの配達ルートを最適化した。どの順番で回れば最短か。当然、郵便物は毎日違う。それはパズルを解くようで、最初は少しだけ、楽しかった。
だけど、すぐに解法のパターンに慣れた。その簡単なパズルを、明日も明後日も繰り返すだけだ。
能力を持て余している。その自覚がある。だけど、その能力を何に使えばいいのかがわからない。
スタートアップにいた頃には使い道はあった。だけど、虚しかった。今は使い道そのものがない。だけど、手放すのは怖い。
カブで走りながら、街を見ている。配達先の家の表札、庭の手入れ、車の車種、洗濯物の干し方。そこから住人の生活を推測する。あの家は共働きで子供が二人。あの家は一人暮らしの高齢者。あの家は最近引っ越してきた。当たっているかどうかはわからない。わかる必要もない。
ただ、観察していると頭が動いている感じがする。
頭が動いていると、自分がまだ生きている気がする。
だけど、何も変えていない。何も動かしていない。
退職した日、同僚が小さな花束をくれた。素敵な花束だった。花のことは何もわからなかったが、色の組み合わせと、ラッピングの質感が良かった。花束についていたタグに店の名前があった。花よし。配達員になって、担当エリアの地図を覚えていく中で、その名前を見つけた。商店街の中。毎日、その前を通る。何度かポストに郵便物を入れた。それだけだった。
だけど、退職の時にもらった花束の記憶が、店先のバケツの花を見るたびにうっすらと戻ってきた。
ある日、仕事帰りに私服でその花屋に寄った。近くの配達員だということは言わなかった。最近仕事を変えた、気分を変えたくて、部屋に花を飾りたいと思って。そう言った。
店主は五十代くらいの男性で、エプロンをして、手が濡れていた。花の手入れをしていたのだろう。藤原の話を聞いて、少し考えてから、チューリップとスイートピーの投げ入れを提案してくれた。ガラスの花瓶も一緒に買った。
花瓶にチューリップとスイートピーを挿して、テーブルに置いた。部屋の空気が少し変わった気がした。気に入っていた。淡いピンクのスイートピーとオレンジのチューリップが、殺風景なワンルームの中で明るかった。
三日後に、彼女が来た。付き合っていた。大企業からスタートアップに移ったことも、そのスタートアップを辞めたことも、郵便配達員になったことも知っている。最初は「自分のペースで頑張れ」と言ってくれていた。だけど、最近は連絡が減っていた。
彼女はテーブルの上の花を見た。
「え、花なんか飾ってんの」
「うん。ちょっと気分転換に」
「感傷に浸って花飾るとか、ダサくない?」
その言い方で、今日の用件がわかった。だけど、わかっていても聞くしかない。
用件は、別れ話だった。
彼女が帰った後、藤原はテーブルの上のスイートピーを見た。
淡いピンクの花弁が、さっきまでと同じように明るかった。何も変わっていない。花は何も知らない。スイートピーの花言葉を調べた。「門出」「別離」「優しい思い出」。
門出と別離が同じ花に入っている。どちらの意味で店主が選んだのか。たぶん門出だろう。最近仕事を変えたと言ったのだから。
花屋のせいではない。わかっている。
あの店主は、藤原の話を聞いて花を選んだ。気分を変えたいと言った藤原に対して、チューリップとスイートピーを組み合わせた。それだけだ。
だけど。わかっている。わかっているけど、毎日あの店の前を通る。毎日、店先の花を見る。毎日、あの店主が花を選んでいるのを見る。客と話しているのを見る。笑っているのを見る。
ある日、配達の束の中に花よし宛の郵便物を見つけた。何の変哲もない封筒だった。手に取って持ったまま、少し走った。花よしの前を通り過ぎた。
――別の郵便受けに入れた。
大したことは起きない。郵便以外の通信手段はいくらでもある。
届くのが一日遅れるか、届かないか、別の形で届くか、誰かの家に間違って届くか。花屋が困ることはほとんどない。困ったとしても、藤原にはわからない。
だけど、パズルの解に、一つのバグがある。それを自分は知っている。
月に一通か二通。誰にも気づかれない程度に。これが何なのかは、藤原自身にもよくわからない。復讐というには小さすぎる。いたずらというには暗すぎる。
だけど、あの花屋に対して、自分だけが知っている何かを持っている。その感覚が、停滞した日常の中で、唯一自分が何かを選んでいるという実感を与えてくれる。
今日も、カブのエンジンをかける。ヘルメットの中は自分だけの場所。配達の束の中に、花よし宛の郵便物があるかもしれない。ないかもしれない。
三月の風が、ヘルメットの隙間から入ってくる。少しだけ暖かくなった。
だけど、まだ寒い。

── 第5章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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