第五章 1991年・5月:檻の鍵
五月の末、奥三河は本格的な雨の季節を迎えていた。降り続く雨は杉林を深い灰色に染め、木造校舎の廊下を湿った冷気で満たした。
放課後の図工室。夏目は明日の授業の準備を終え、忘れ物がないか机の間を見回っていた。一番後ろの大輔の机の下に、細長い銀色の物体が落ちていた。拾い上げると、それはステンレス製の定規だった。教材指定の竹製のものではない。エッジの鋭い、本格的な道具。定規の隅には、サインペンで小さく「後藤」と書かれていた。夏目はそれを拾って、寄宿舎へ戻った。激しい雨音だけが支配する自室で、夏目はデスクの端に置かれた定規を眺めた。あの大輔が、こんなにも「正しく」直線を引くための硬質な道具を持っていたことが意外だった。
──控えめなノックの音がした。
ドアを開けると、傘から滴る水に肩を濡らした大輔が立っていた。
「……定規、忘れました。学校、閉まってて」
「ああ。拾っておいたよ。入りなさい」
大輔は初めて、夏目の部屋に足を踏み入れた。
その時、他の子どもたちが騒いでいた画集やパレットにではなく、大輔の視線は一直線に、夏目の座卓の上に開かれたままの一冊の洋書に注がれた。
それは樋田先生に自分を重ね「野原の自由」を教えるようになった、夏目が封じ込めていたはずの、美大時代の遺物だった。
『Perspective and Proportion』──透視図法と比例基準。
図版には、消失点へと収束していく冷徹なグリッドと、骨格を幾何学的に解体した人体図が並んでいる。感情の入る隙など微塵もない、数学的な世界の統治法。
「……これ、何」
大輔の声が、これまでにない熱を帯びていた。
ページ上の消失点をなぞる彼の瞳に、吹雪の中に灯りのともる家を見つけたかのような、安堵と興奮の混じった光が宿っていた。
「パースだよ」
夏目は、自分の傷口を晒すような気分で答えた。
「世界を、檻の中に閉じ込める方法だ」
大輔が顔を上げた。その瞳には、かつて「自由」を提示された時に見せた拒絶の色はなかった。
「……教えてください。これなら、僕、描ける気がする」
夏目は、窓を打つ雨音を聴きながら、自分が重大な岐路に立っていることを感じていた。
樋田先生のように「野原」を大輔に与えることはできないーーならば。
「……わかった。ただ、これは厳しいよ。誰にも否定されない『正解』を目指す世界だからね」
大輔は、ステンレスの定規を強く握りしめ、小さく、強く頷いた。
その夜、寄宿舎の六畳一間で、二人の歪な授業が始まった。
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