第四章 商談の不協和音
アトリエに「商売」の風が吹き込んできたのは、湿り気を帯びた日の午後のことだった。
重厚な扉を押し開け、火縄銃手組合(クローフェニールスドゥーレン)の面々が足を踏み入れる。
先頭のフランス・バニング・コック隊長は最高級の黒ベルベットを纏い、首元の襞襟(ひだえり)は完璧な形状で鎮座していた。
私はアトリエの隅の大理石板に向かい、練り棒を握って油と顔料を押し潰していた。
石板の上でねっとりと絵具が練り上がる低い音が、男たちの饒舌な足音と交錯する。
「ファン・レイン。我が隊の肖像を、あの新しい広間の正面に飾りたいのだ。アントウェルペンの……そう、かのルーベンスのような、誰もが足を止める仕上げを頼む」
コック隊長の声には、古都アントウェルペンの「格」への劣等感と、それを金で買い叩こうとする、新興成金都市アムステルダムの傲慢さが混ざり合っていた。
その瞬間、イーゼルの前に座るレンブラントの背中が強張ったのを私は見逃さなかった。
彼にとって、ルーベンスの名は劇薬だ。この男はイタリアへも行かず、この北の街で己の深淵を掘り続ける魔術師だ。海を越えて王侯貴族に愛される「画家の王」は、呪うべき太陽のような存在だろう。私は一瞬、動きを止めて身構えた。
だが、レンブラントの背中に走った緊張は、それではなかった。彼の筆先が、止まった。止まったのは一呼吸にも満たない。私が石板の上で練り棒を回す音の方が、よほど長く尾を引いた。
彼が投げかける視線が、コック隊長の襞襟に跳ねた光から、隊長の顔へ、背後に並ぶ男たちへと滑る。絵に先に「座席」を割り振っている。そういう目だ。彼の喉仏が、小さく上下した。
次の瞬間、彼は何事もなかったように鼻で笑った。
「ルーベンス、か。……あちらの絵は、人ではないものを讃えるためのものです。閣下」
それから、襞襟の白に吸い寄せられるように言葉を足した。
「──閣下。あんたが求めているのは綺麗な聖人の真似事か? それとも、歴史を動かす人間の、実体の物語か?」
「……もちろん、後者だ。誰も見たことのないものを。我々の栄光を。漏らすことなく残してほしいのだ」
「漏らすことなく」
レンブラントは、そこだけを舌の上で転がした。
「ご安心ください、閣下。望む以上の光を封じ込めてやりますよ」
彼は笑った。笑いながら、私が塗り上げた下地の闇へ視線を落とす。
「俺が描くのは、このアムステルダムの泥を蹴って進む、生きた人間の進軍だ。……誰も置き去りにはしない」
レンブラントは私が塗り上げた下地を、まるで宿敵の盾を叩くように強く打ちながら言った。
その言葉に、コック隊長たちは満足げに頷いた。
私は練り棒を止めなかった。──止められなかった。
レンブラントとコック隊長の言葉と期待に、微かなすれ違いを感じていた。
いや、私に分かるのは、重さだけだ。私は自分の影を練り棒の下に押し潰しながら、重く、確かな黒を練り続けた。
後日、私は独りでその場所へ向かった。
完成した巨大なキャンバスが飾られる予定の、クローフェニールスドゥーレンの広間。運河のすぐ脇に立つその豪奢な建物の内部に足を踏み入れた瞬間、私は顔をしかめた。新興都市アムステルダムの「正体」が、そこにあったからだ。
外観こそ石造りの立派な建築だが、広間の空気は、肺にまとわりつくような不気味な湿り気を帯びていた。私は窓際へ歩み寄り、漆喰の壁に掌を当てた。指先に伝わってきたのは、壁の奥から染み出している運河の冷気と、逃げ場を失った水蒸気の、しぶとい感触だった。
(……ここは、絵画の墓場だ)
冷たさが、皮膚の奥へじわりと染み込んでくる。指を離しても、しばらくそこに残るような冷たさだった。壁の内側から息が漏れている。そういう湿り方だ。
私は腰の袋から薄いナイフを抜いた。壁の隅、目立たぬ継ぎ目に刃先を当て、ほんの少しだけ削る。白い粉は乾いていない。指の腹に貼り付き、ゆっくりと溶ける。
私はその粉を親指と人差し指で潰し、匂いを確かめた。運河の冷気の匂いが混じっている。
(ここに掛けたら、膠の下地はまず、もたない)
そう思った瞬間、胸の奥で、別のものが小さく跳ねた。私は懐の小壺の輪郭をなぞった。革越しに伝わってくる、鈍い重さ。冬でもぬるまない冷たさ。ナイフを鞘に戻し、削った粉を指で払う。払っても落ちない湿り気。私は壁をもう一度だけ撫で、掌を握りしめた。私は広間の壁を一度強く叩き、決意を固めてアトリエへと引き返した。
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