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Win〜彗星は南から

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117,786 字

地方競馬ファンタジー家族ドラマ

"南国の風が運ぶ、魂の継承と家族の絆。彗星は、希望を乗せて南から来る。"

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第4話 コメットハンター

「急性脳出血?」

 思わず聞き返した広美に、医師は表情を変えず静かに頷いた。

「はい、お父様は元々、脳の血管に瘤がありました」
「非常に大きなもので、なんらかの形で血圧が上昇したことが原因と思われます」

 その言葉を聞いた瞬間、さっき見たばかりの、仁美のレースの光景が脳裏に蘇る。

(仁美の、レース……)

 医師は淡々と、だが一語ずつ区切るように続けた。

「血液の除去、そして、プラチナ製のコイルを瘤の部分に入れて閉塞し、再び血管が破裂するのを防ぐ手術を行いました」

 広美は小さく息を飲み、それでも気丈に頭を下げた。

「迅速に対応していただき、ありがとうございます」

 だが、医師の表情はなお厳しいままだった。

「ただ、一命は取り留めましたが、出血により、脳がかなりのダメージを負い、機能を失っています」

「それは、脳死状態と言うことですか?」

 わずかな沈黙のあと、医師はゆっくりと首を横に振った。

「いえ、脳死状態というのは、人間の生命活動を司る脳幹が機能しない状態です」

「お父様は、まだかろうじてその一部が生きており、呼吸も心拍も自発的に動いています」

 広美は乾いた唇を開いた。

「じゃあ、父の意識はいずれ回復するんですか?」

 医師は、わずかに間を置いて答えた。

「可能性はあります」 
「しかし、極めて低いと言わざるを得ません」

「植物人間、と言うことですか?」

 医師は表情を崩さないまま、静かに言った。

「その表現は本意ではありませんが、簡潔に申し上げますと、適切であるとしか言えません」

 広美は、病室に横たわる万次郎のそばへ歩み寄り、静かに腰を下ろした。

「仁美、すごい泣きよったね」

 返事の代わりに、規則正しい機械の信号音が響く。

「私は、よう泣いちゃれん」
「ごめんよ」

 万次郎の呼吸の音は、はっきり聞こえる。
 胸も、ゆっくりと上下していた。

「お母さんは、もうおらんのに」

「あんたは、また命拾いして」

 喉の奥が詰まりそうになるのを、広美は無理やり押し込めた。

「そんな姿で、また仁美に世話かけるがかえ?」

 責めるような言葉なのに、声にはもう力がなかった。

「まあ、それで良いかもしれんね」

「お母さんの所に行ったら、どうまた苦労させるろうし」

 広美はふっと記憶を辿った。

 台所で、車椅子に腰を下ろし、酒を飲む万次郎に、明美が和やかな笑顔で語りかけ、包みを掲げている。

「まんじさん、騎手の同期の皆さんから、またお見舞いが届いたで」

「その中でも、竹さんらあ、見て」
「銀座のあそこの高級メロンやって」

「やったあ! メロンメロン!」

 九歳の、まだ幼かった広美に、わずか三歳の頃の仁美が、首を傾げて口を開いた。

「メロン〜?」

「とーても、甘くて美味しいがで」

「ほいたら、切ろうかね」

「……うるさいぞ」

 ぴたりと空気が止まる。

「まんじさん?」

「亭主が、親父がこんな時に! お前らはなんな!?」

 明美は、万次郎のただならぬ雰囲気を感じ、広美に視線をうつす。

「広美、仁美連れて向こう行っちょり」

「ヘラヘラへらへら、何が嬉しいがな!?」

「広美、早う」

「どいつもこいつも、あいつらやって、喜んじゅうだけや」

「広美!」

「高級メロン?そうやろねゃ、竹も、わしがおらんなったら楽にリーディング取れるき」

 万次郎は明美を睨みつけた。
 その眼光の迫力に、広美は息を呑む。
 咄嗟に仁美の手を引き、そのまま慌てて台所を出た。
 明美は小さくため息をつき、それでも顔を綻ばせた。

「ごめんなさい、まんじさん」

「人の気も知らんと」

「けど、そんなに思い詰めたら」

「うるさいわや!」

 廊下に、ごすっという鈍い音が響いた。続いて、陶器の割れる音。
 子供部屋に仁美を残したまま、広美はそっとリビングを覗いた。

 呆然と明美を眺める万次郎。
 床に散乱した湯呑みの破片。
 酒を浴びて濡れた明美の服。
 その鼻からは、大量の血が流れていた。

「お母さん!」

「来たらいかん!」

 鋭い声に、広美の足が止まる。
 目にはもう、涙が溢れていた。
 明美は鮮血に染まった口元を手で覆いながら、それでも目だけは優しく広美に向けた。

「仁美に、ご本読んじゃってね」

 広美は強く頷くと、子供部屋へ戻っていく。
 万次郎は、血を流す明美を前に、青ざめた顔のまま立ち尽くしていた。

「明美、すまん」
「けど、どうして避けんかった?」

 自分で口にしてから、万次郎の顔が歪む。

「それより、救急車呼ばんと……」

 携帯電話をぱかっと開き、震える手で番号を押そうとする。
 そのときだった。
 明美が、口を開いた。溢れるように、それでいて不思議なほど淡々と。

「分かち合いたかったがよ」

「明美?」

「あなたの怒りも、苦しみも、絶望も、私らには分からん」
「分かったような気になることしか出来ん」

「もうえいき、俺が悪かったき」

「やったらよ、その気持ちを吐き出したらえい」

 明美は鼻から流れる血も拭わず、まっすぐ万次郎を見た。

「こんな痛みくらいじゃ足らんでしょう?」
「まんじさんの苦しみは」

「……すまん、もう、わかったき」

 血が、ぽたぽたと畳に落ちる。

「私は、解りたいがです」
「分かち合いたいがです」

 一度息を継ぎ、明美は静かに言い切った。

「私が好きになったがは、騎手のまんじさんやない」

「沖浜万次郎という、人間ながです」

 万次郎の手から、携帯が落ちそうになる。

「ごめん……すまん、本当に、すまんかった!」

 馬房では、まだ仁美がヘールボップの顔に縋りついたまま泣いていた。
 だが、乱れていた呼吸は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。

(仁美……)

 万次郎がそう呟いたつもりの声は、ぶるるるる……という低いいななきになって、仁美の耳に届いた。

 はっとして、仁美が顔を離す。

「ごめんで、長いこと抱きついて、苦しかったろう?」

 ヘールボップは、そっと顔を近づけた。
 鼻面が、仁美の頬に触れる。 
 涙を拭うような、やさしい仕草だった。

「あんた、優しいね、ありがとう」

(なんな、わし、まだくたばってないがか)

(けんど、なんで馬ながな? 乗り移ったいうやつか?)

(それか、一緒に石段落ちて、入れ替わった映画みたいに、あっちにボップがおるがか?)

 思案を巡らせても、答えは出ない。
 その間にも、仁美はそっとヘールボップの顔の流星を撫でていた。

「洋平さん、調教師免許もっちょったき」

 一度、言葉を呑む。

「厩舎を引き継ぐ手続きをはじめたき」

 万次郎の胸が、どくんと鳴る。

「それまでは、デビュー遅れるけど、我慢してよ」

 仁美は、もう一度だけ流星を撫でた。

「おやすみ、ゆっくり休んで」

 厩舎を去っていく仁美の背中を、ヘールボップはじっと見送っていた。

(言うても、わしが馬になって走るがか?)
(いくらダービージョッキーでも、そんな馬の足の運びらあ、分からんぞ)

 その時だった。
 どこからか、声が聞こえてきた。

「それは、心配ない」

(誰や?)

 次の瞬間、万次郎の意識は暗黒の闇の中へ引き込まれる。
 気がつけば、人間の姿の自分がそこに立っていた。
 両足で、しっかりと大地を踏みしめている。
 前方の闇に、小さな青白い光が灯る。
 それは次第に尾を引き、彗星のようにこちらへ近づいてきた。

「な、何な、こりゃあ」

 思わず身構える。
 だが、その光は万次郎の目の前でぴたりと止まると、ゆっくりと形を変えた。
 やがて現れたのは、一頭の美しいサラブレッドだった。

「ハンター……?」

 その馬は、静かに万次郎を見つめた。

「お久しぶりです、万次郎さん」

 万次郎は目の前の馬を見つめたまま、目を剥いた。

「お前、喋れるがか? それより――」

 落ち着かないようにあたりを見回す。

「ここは?真っ暗やぞ」

 コメットハンターは、静かに答えた。

「ここは、息子の深層心理です」

 青白い光をまとった栗色の馬体が、闇の中に淡く浮かぶ。

「暗黒なのは、ヘールボップが心を閉ざしてしまっているからです」

 万次郎は眉をひそめた。

「心を、閉ざす?」

 コメットハンターは、静かに続けた。

「息子は、私と違って心が繊細すぎる」

 青白い光が、わずかに揺らぐ。

「負けなしで制したGⅠでしたが、その次のレースで、不運に見舞われてしまった」

「不運?」

「落鉄です」
「レース中に蹄鉄が外れてしまったんです」

「そんなもん、ようあることやないか」

 コメットハンターは、ゆっくりと首を振った。

「そのレースで四着だった彼は、初めて浴びせられた罵声に、心を折られてしまった」

 次の瞬間、闇の中に声が響き始める。

「いくら突っ込んだと思ってんだよ!」

「金返せ、この野郎!」

「もう馬刺しにでもなっちまえ!」

 万次郎の顔が歪む。

「ボップは、人間の言葉がわかるがか?」

「何を言うんですか?」
「ちゃんと、わかりますよ」

「知りませんでしたか?」

 万次郎は、固唾を飲んだ。

「ヘールボップは、すっかり走る意味を見失ってしまっています」
「しかし、今レースから離れたとしても、この閉じた心は、生涯暗黒のままでしょう」

「だから言うて、わしに何をして欲しいがな?」

 万次郎は、苛立ちを隠さず言う。

「わしは人間や、馬の走り方らあ分からんぞ」

 コメットハンターが、低くいなないた。
 その音を合図に、闇の中に景色が浮かび上がる。
 芝のコース。観客席。風。

「これは、私の視点をこの空間に投影したものです」

 次の瞬間、コメットハンターの身体に、鞍と馬具が装着される。

「あなたの騎乗が、私を通して息子に伝わります」

 万次郎の目が、わずかに見開かれる。

「お前と……またレースができるがか?」

 コメットハンターは、静かに頷いた。
 しかし、景色は再び暗黒へと沈む。

「息子に、もう一度、この空間に景色を戻してやりたいんです」
「私と、あなたで」
「力を、貸してください」

 万次郎は、ぐっと拳を握った。

「よし、わかった!またやろう!」

 その声には、さっきまでの戸惑いはなかった。

「ところで、ハンター」

「どうしましたか?」

 万次郎は、少しだけ言い淀む。

「明美は、知らんか?」
「会えんがか?」

 コメットハンターは、すぐには答えなかった。
 一度だけ視線を落とし、静かに口を開く。

「まだ、その時ではありません」

「ハンター……」

 翌朝、まだ日も上がりきらないうちに、馬房の扉が開いた。
 白い息を吐きながら現れた信吾が、いつもの調子で声を張る。

「ほいたらみんなあ!朝の稽古始めるぞ」

 続いて、仁美と瀧越も姿を見せた。

「おはよう!ボップ」
「今日の調教、私が乗らせてもらうことになったき、よろしくね」

(そうか、お前が)

 仁美は手際よく馬具を装着し、手綱を取った。

「ほいたら、コースへ行こうか」

(よっ、ほっ、なんや、普通に歩けるやないか)

(ボップの体が覚えちゅうんやな)

 コースに出ると、時計を手にした洋平が表情を緩めた。

「仁美ちゃん!おはようさん」
「大丈夫?寝れたか?」

「大丈夫です」
「ご心配おかけしました」

「こんなことになってしもうて」
「けんど、稽古をせんわけにはいかんきねゃ、すまん」

「大丈夫ですよ」
「それに、ボップに乗れるがは、楽しみです」

 そう言って、仁美はヘールボップの首筋を軽く撫でた。

「師匠が目を覚まして帰ってきた時に、びっくりさせちゃらなあ」

 その声には、昨夜の涙を押し込めたぶんだけ、強がりと願いが滲んでいた。
 洋平がコースを見渡しながら声をかける。

「ほいたら、今日は軽めに一本流すだけでえい」
「コースに慣れて貰わんと」

「わかりました」

 仁美は短く答え、軽く手綱を整えた。

(ハンター、ハンターおるか?)

 万次郎は内側で呼びかける。

(お呼びでしょうか?)

(走るぞ、こっちこんがか?)

(申し訳ありません)
(私が行くのは、レースの時だけです)

(なんと)

(大丈夫です、息子の意識も残ってますから、身体は動きます)

 万次郎は、軽く鼻を鳴らした。

(難儀やねゃ)

── 第5章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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