第4話 コメットハンター
「急性脳出血?」
思わず聞き返した広美に、医師は表情を変えず静かに頷いた。
「はい、お父様は元々、脳の血管に瘤がありました」
「非常に大きなもので、なんらかの形で血圧が上昇したことが原因と思われます」
その言葉を聞いた瞬間、さっき見たばかりの、仁美のレースの光景が脳裏に蘇る。
(仁美の、レース……)
医師は淡々と、だが一語ずつ区切るように続けた。
「血液の除去、そして、プラチナ製のコイルを瘤の部分に入れて閉塞し、再び血管が破裂するのを防ぐ手術を行いました」
広美は小さく息を飲み、それでも気丈に頭を下げた。
「迅速に対応していただき、ありがとうございます」
だが、医師の表情はなお厳しいままだった。
「ただ、一命は取り留めましたが、出血により、脳がかなりのダメージを負い、機能を失っています」
「それは、脳死状態と言うことですか?」
わずかな沈黙のあと、医師はゆっくりと首を横に振った。
「いえ、脳死状態というのは、人間の生命活動を司る脳幹が機能しない状態です」
「お父様は、まだかろうじてその一部が生きており、呼吸も心拍も自発的に動いています」
広美は乾いた唇を開いた。
「じゃあ、父の意識はいずれ回復するんですか?」
医師は、わずかに間を置いて答えた。
「可能性はあります」
「しかし、極めて低いと言わざるを得ません」
「植物人間、と言うことですか?」
医師は表情を崩さないまま、静かに言った。
「その表現は本意ではありませんが、簡潔に申し上げますと、適切であるとしか言えません」
広美は、病室に横たわる万次郎のそばへ歩み寄り、静かに腰を下ろした。
「仁美、すごい泣きよったね」
返事の代わりに、規則正しい機械の信号音が響く。
「私は、よう泣いちゃれん」
「ごめんよ」
万次郎の呼吸の音は、はっきり聞こえる。
胸も、ゆっくりと上下していた。
「お母さんは、もうおらんのに」
「あんたは、また命拾いして」
喉の奥が詰まりそうになるのを、広美は無理やり押し込めた。
「そんな姿で、また仁美に世話かけるがかえ?」
責めるような言葉なのに、声にはもう力がなかった。
「まあ、それで良いかもしれんね」
「お母さんの所に行ったら、どうまた苦労させるろうし」
広美はふっと記憶を辿った。
台所で、車椅子に腰を下ろし、酒を飲む万次郎に、明美が和やかな笑顔で語りかけ、包みを掲げている。
「まんじさん、騎手の同期の皆さんから、またお見舞いが届いたで」
「その中でも、竹さんらあ、見て」
「銀座のあそこの高級メロンやって」
「やったあ! メロンメロン!」
九歳の、まだ幼かった広美に、わずか三歳の頃の仁美が、首を傾げて口を開いた。
「メロン〜?」
「とーても、甘くて美味しいがで」
「ほいたら、切ろうかね」
「……うるさいぞ」
ぴたりと空気が止まる。
「まんじさん?」
「亭主が、親父がこんな時に! お前らはなんな!?」
明美は、万次郎のただならぬ雰囲気を感じ、広美に視線をうつす。
「広美、仁美連れて向こう行っちょり」
「ヘラヘラへらへら、何が嬉しいがな!?」
「広美、早う」
「どいつもこいつも、あいつらやって、喜んじゅうだけや」
「広美!」
「高級メロン?そうやろねゃ、竹も、わしがおらんなったら楽にリーディング取れるき」
万次郎は明美を睨みつけた。
その眼光の迫力に、広美は息を呑む。
咄嗟に仁美の手を引き、そのまま慌てて台所を出た。
明美は小さくため息をつき、それでも顔を綻ばせた。
「ごめんなさい、まんじさん」
「人の気も知らんと」
「けど、そんなに思い詰めたら」
「うるさいわや!」
廊下に、ごすっという鈍い音が響いた。続いて、陶器の割れる音。
子供部屋に仁美を残したまま、広美はそっとリビングを覗いた。
呆然と明美を眺める万次郎。
床に散乱した湯呑みの破片。
酒を浴びて濡れた明美の服。
その鼻からは、大量の血が流れていた。
「お母さん!」
「来たらいかん!」
鋭い声に、広美の足が止まる。
目にはもう、涙が溢れていた。
明美は鮮血に染まった口元を手で覆いながら、それでも目だけは優しく広美に向けた。
「仁美に、ご本読んじゃってね」
広美は強く頷くと、子供部屋へ戻っていく。
万次郎は、血を流す明美を前に、青ざめた顔のまま立ち尽くしていた。
「明美、すまん」
「けど、どうして避けんかった?」
自分で口にしてから、万次郎の顔が歪む。
「それより、救急車呼ばんと……」
携帯電話をぱかっと開き、震える手で番号を押そうとする。
そのときだった。
明美が、口を開いた。溢れるように、それでいて不思議なほど淡々と。
「分かち合いたかったがよ」
「明美?」
「あなたの怒りも、苦しみも、絶望も、私らには分からん」
「分かったような気になることしか出来ん」
「もうえいき、俺が悪かったき」
「やったらよ、その気持ちを吐き出したらえい」
明美は鼻から流れる血も拭わず、まっすぐ万次郎を見た。
「こんな痛みくらいじゃ足らんでしょう?」
「まんじさんの苦しみは」
「……すまん、もう、わかったき」
血が、ぽたぽたと畳に落ちる。
「私は、解りたいがです」
「分かち合いたいがです」
一度息を継ぎ、明美は静かに言い切った。
「私が好きになったがは、騎手のまんじさんやない」
「沖浜万次郎という、人間ながです」
万次郎の手から、携帯が落ちそうになる。
「ごめん……すまん、本当に、すまんかった!」
馬房では、まだ仁美がヘールボップの顔に縋りついたまま泣いていた。
だが、乱れていた呼吸は、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
(仁美……)
万次郎がそう呟いたつもりの声は、ぶるるるる……という低いいななきになって、仁美の耳に届いた。
はっとして、仁美が顔を離す。
「ごめんで、長いこと抱きついて、苦しかったろう?」
ヘールボップは、そっと顔を近づけた。
鼻面が、仁美の頬に触れる。
涙を拭うような、やさしい仕草だった。
「あんた、優しいね、ありがとう」
(なんな、わし、まだくたばってないがか)
(けんど、なんで馬ながな? 乗り移ったいうやつか?)
(それか、一緒に石段落ちて、入れ替わった映画みたいに、あっちにボップがおるがか?)
思案を巡らせても、答えは出ない。
その間にも、仁美はそっとヘールボップの顔の流星を撫でていた。
「洋平さん、調教師免許もっちょったき」
一度、言葉を呑む。
「厩舎を引き継ぐ手続きをはじめたき」
万次郎の胸が、どくんと鳴る。
「それまでは、デビュー遅れるけど、我慢してよ」
仁美は、もう一度だけ流星を撫でた。
「おやすみ、ゆっくり休んで」
厩舎を去っていく仁美の背中を、ヘールボップはじっと見送っていた。
(言うても、わしが馬になって走るがか?)
(いくらダービージョッキーでも、そんな馬の足の運びらあ、分からんぞ)
その時だった。
どこからか、声が聞こえてきた。
「それは、心配ない」
(誰や?)
次の瞬間、万次郎の意識は暗黒の闇の中へ引き込まれる。
気がつけば、人間の姿の自分がそこに立っていた。
両足で、しっかりと大地を踏みしめている。
前方の闇に、小さな青白い光が灯る。
それは次第に尾を引き、彗星のようにこちらへ近づいてきた。
「な、何な、こりゃあ」
思わず身構える。
だが、その光は万次郎の目の前でぴたりと止まると、ゆっくりと形を変えた。
やがて現れたのは、一頭の美しいサラブレッドだった。
「ハンター……?」
その馬は、静かに万次郎を見つめた。
「お久しぶりです、万次郎さん」
万次郎は目の前の馬を見つめたまま、目を剥いた。
「お前、喋れるがか? それより――」
落ち着かないようにあたりを見回す。
「ここは?真っ暗やぞ」
コメットハンターは、静かに答えた。
「ここは、息子の深層心理です」
青白い光をまとった栗色の馬体が、闇の中に淡く浮かぶ。
「暗黒なのは、ヘールボップが心を閉ざしてしまっているからです」
万次郎は眉をひそめた。
「心を、閉ざす?」
コメットハンターは、静かに続けた。
「息子は、私と違って心が繊細すぎる」
青白い光が、わずかに揺らぐ。
「負けなしで制したGⅠでしたが、その次のレースで、不運に見舞われてしまった」
「不運?」
「落鉄です」
「レース中に蹄鉄が外れてしまったんです」
「そんなもん、ようあることやないか」
コメットハンターは、ゆっくりと首を振った。
「そのレースで四着だった彼は、初めて浴びせられた罵声に、心を折られてしまった」
次の瞬間、闇の中に声が響き始める。
「いくら突っ込んだと思ってんだよ!」
「金返せ、この野郎!」
「もう馬刺しにでもなっちまえ!」
万次郎の顔が歪む。
「ボップは、人間の言葉がわかるがか?」
「何を言うんですか?」
「ちゃんと、わかりますよ」
「知りませんでしたか?」
万次郎は、固唾を飲んだ。
「ヘールボップは、すっかり走る意味を見失ってしまっています」
「しかし、今レースから離れたとしても、この閉じた心は、生涯暗黒のままでしょう」
「だから言うて、わしに何をして欲しいがな?」
万次郎は、苛立ちを隠さず言う。
「わしは人間や、馬の走り方らあ分からんぞ」
コメットハンターが、低くいなないた。
その音を合図に、闇の中に景色が浮かび上がる。
芝のコース。観客席。風。
「これは、私の視点をこの空間に投影したものです」
次の瞬間、コメットハンターの身体に、鞍と馬具が装着される。
「あなたの騎乗が、私を通して息子に伝わります」
万次郎の目が、わずかに見開かれる。
「お前と……またレースができるがか?」
コメットハンターは、静かに頷いた。
しかし、景色は再び暗黒へと沈む。
「息子に、もう一度、この空間に景色を戻してやりたいんです」
「私と、あなたで」
「力を、貸してください」
万次郎は、ぐっと拳を握った。
「よし、わかった!またやろう!」
その声には、さっきまでの戸惑いはなかった。
「ところで、ハンター」
「どうしましたか?」
万次郎は、少しだけ言い淀む。
「明美は、知らんか?」
「会えんがか?」
コメットハンターは、すぐには答えなかった。
一度だけ視線を落とし、静かに口を開く。
「まだ、その時ではありません」
「ハンター……」
翌朝、まだ日も上がりきらないうちに、馬房の扉が開いた。
白い息を吐きながら現れた信吾が、いつもの調子で声を張る。
「ほいたらみんなあ!朝の稽古始めるぞ」
続いて、仁美と瀧越も姿を見せた。
「おはよう!ボップ」
「今日の調教、私が乗らせてもらうことになったき、よろしくね」
(そうか、お前が)
仁美は手際よく馬具を装着し、手綱を取った。
「ほいたら、コースへ行こうか」
(よっ、ほっ、なんや、普通に歩けるやないか)
(ボップの体が覚えちゅうんやな)
コースに出ると、時計を手にした洋平が表情を緩めた。
「仁美ちゃん!おはようさん」
「大丈夫?寝れたか?」
「大丈夫です」
「ご心配おかけしました」
「こんなことになってしもうて」
「けんど、稽古をせんわけにはいかんきねゃ、すまん」
「大丈夫ですよ」
「それに、ボップに乗れるがは、楽しみです」
そう言って、仁美はヘールボップの首筋を軽く撫でた。
「師匠が目を覚まして帰ってきた時に、びっくりさせちゃらなあ」
その声には、昨夜の涙を押し込めたぶんだけ、強がりと願いが滲んでいた。
洋平がコースを見渡しながら声をかける。
「ほいたら、今日は軽めに一本流すだけでえい」
「コースに慣れて貰わんと」
「わかりました」
仁美は短く答え、軽く手綱を整えた。
(ハンター、ハンターおるか?)
万次郎は内側で呼びかける。
(お呼びでしょうか?)
(走るぞ、こっちこんがか?)
(申し訳ありません)
(私が行くのは、レースの時だけです)
(なんと)
(大丈夫です、息子の意識も残ってますから、身体は動きます)
万次郎は、軽く鼻を鳴らした。
(難儀やねゃ)
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