第六章 書かれた通りに
翌朝、渉は原稿を開く前に、実験をしてみることにした。
メモ帳に手順を書いた。
①コーヒーを淹れる。②窓を開ける。③机に戻る。④原稿を開く。
それだけだ。いつもと少し違う順番にした。いつもは原稿を開いてからコーヒーを淹れる。窓は冬になってから開けていない。
渉はその通りに動いた。
コーヒーを淹れた。窓を開けた。冷たい空気が入ってきた。机に戻った。原稿を開いた。
末尾を見た。
今朝はコーヒーが先だった。それから窓を開けた。冬なのに。冷たかったでしょう。
渉は画面を見つめた。
手順を変えたのは今朝、起きてから決めたことだ。昨夜の時点では決めていなかった。それなのにハナは知っている。
渉は次の実験を考えた。
今度はメモに書かずに、頭の中だけで決めた。昼になったら、外に出る。三年間通ったことのない、駅の反対側の喫茶店に入る。
渉は昼まで原稿を書いた。ハナが老人に問い詰める場面。老人が初めて口を割る場面。渉の指は淀みなく動いた。不思議なことに、この三日間で一番よく書けた。まるで物語が自分で進みたがっているように。
昼になった。
渉はコートを着て、外に出た。雨は上がっていた。駅の反対側へ歩く。見慣れない商店街。見慣れない顔たち。三年分の埃が積もったような路地を抜けると、古い喫茶店があった。
入った。
コーヒーを頼んだ。窓際の席に座った。
三十分後に部屋に戻り、原稿を開いた。
末尾にあった。
駅の反対側の喫茶店。窓際。コーヒー。三十分。
あなたが頭の中だけで決めたことを、私は知っていた。おかしいと思うでしょう。
でも考えてみてください。
あなたが決めることを、私が知っている。
それともあなたは、私が知っているから、そう決めたのですか。
渉はコートを脱がないまま、椅子に座った。
どちらが先かわからない。
第五章でハナに言わせた言葉が、今度は渉自身に刺さっていた。
渉は震える手でキーボードに触れた。
ハナに聞きたいことがあった。小説の登場人物に、作者が問いかけるという、あってはならないことをしようとしていた。それでも打った。
ハナ。お前は今、どこにいる。
送信ボタンなどない。ただ原稿の中に打ち込んだだけだ。
渉はそのまま待った。
五分後。
十分後。
何も起きなかった。
渉は息を吐いた。やはり思い過ごしだったか。疲労と締め切りのプレッシャーが、正常な判断を狂わせていたのか。
立ち上がりかけたとき、画面が変わった。
末尾に、一行。
ここにいる。あなたが作った場所に。でも今、その場所が揺れている。
それから一呼吸おいて、もう一行。
あなたも感じているでしょう。足元が、少し、おかしい。
渉は自分の足元を見た。
何も変わっていない。フローリングの床。いつもの部屋。
しかし確かに感じた。
重力が、ほんの少し、傾いている気がした。
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