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『原稿の外側』

アル

8,287 字

メタフィクション、哲学、サスペンス

"書く者と書かれる者、そして読む者。物語の境界線が溶解する、禁断の創作論。"

あらすじ 締め切りに追われる小説家・坂口渉は、自分が書いた原稿の末尾に、身に覚えのない一行を見つける。それは渉の行動を正確に描写していた。書いた覚えがない。なのに、消しても消しても現れる。やがて渉は気づく——自分が作ったはずの登場人物に、見られていると。書く者と書かれる者の境界が溶けるとき、外側にいるのは、果たして誰なのか。

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第六章 書かれた通りに

翌朝、渉は原稿を開く前に、実験をしてみることにした。

メモ帳に手順を書いた。

①コーヒーを淹れる。②窓を開ける。③机に戻る。④原稿を開く。

それだけだ。いつもと少し違う順番にした。いつもは原稿を開いてからコーヒーを淹れる。窓は冬になってから開けていない。

渉はその通りに動いた。

コーヒーを淹れた。窓を開けた。冷たい空気が入ってきた。机に戻った。原稿を開いた。

末尾を見た。

今朝はコーヒーが先だった。それから窓を開けた。冬なのに。冷たかったでしょう。

渉は画面を見つめた。

手順を変えたのは今朝、起きてから決めたことだ。昨夜の時点では決めていなかった。それなのにハナは知っている。

渉は次の実験を考えた。

今度はメモに書かずに、頭の中だけで決めた。昼になったら、外に出る。三年間通ったことのない、駅の反対側の喫茶店に入る。

渉は昼まで原稿を書いた。ハナが老人に問い詰める場面。老人が初めて口を割る場面。渉の指は淀みなく動いた。不思議なことに、この三日間で一番よく書けた。まるで物語が自分で進みたがっているように。

昼になった。

渉はコートを着て、外に出た。雨は上がっていた。駅の反対側へ歩く。見慣れない商店街。見慣れない顔たち。三年分の埃が積もったような路地を抜けると、古い喫茶店があった。

入った。

コーヒーを頼んだ。窓際の席に座った。

三十分後に部屋に戻り、原稿を開いた。

末尾にあった。

駅の反対側の喫茶店。窓際。コーヒー。三十分。

あなたが頭の中だけで決めたことを、私は知っていた。おかしいと思うでしょう。

でも考えてみてください。

あなたが決めることを、私が知っている。

それともあなたは、私が知っているから、そう決めたのですか。

渉はコートを脱がないまま、椅子に座った。

どちらが先かわからない。

第五章でハナに言わせた言葉が、今度は渉自身に刺さっていた。

渉は震える手でキーボードに触れた。

ハナに聞きたいことがあった。小説の登場人物に、作者が問いかけるという、あってはならないことをしようとしていた。それでも打った。

ハナ。お前は今、どこにいる。

送信ボタンなどない。ただ原稿の中に打ち込んだだけだ。

渉はそのまま待った。

五分後。

十分後。

何も起きなかった。

渉は息を吐いた。やはり思い過ごしだったか。疲労と締め切りのプレッシャーが、正常な判断を狂わせていたのか。

立ち上がりかけたとき、画面が変わった。

末尾に、一行。

ここにいる。あなたが作った場所に。でも今、その場所が揺れている。

それから一呼吸おいて、もう一行。

あなたも感じているでしょう。足元が、少し、おかしい。

渉は自分の足元を見た。

何も変わっていない。フローリングの床。いつもの部屋。

しかし確かに感じた。

重力が、ほんの少し、傾いている気がした。

── 第6章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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