第五章 腰
いつもの時間、いつもの駅、いつもの車両、いつもの場所に男は立っていた。
2つ目の駅に電車が止まると、男の右隣に彼が来る。
雨に濡れた髪先から、雫がひと粒、またひと粒と滴り落ちる。
彼は黒いリュックを網棚に置きながら、両腕を頭上に伸ばす。
シャツの裾がわずかに浮き、白い締まったわき腹が一瞬、覗いた。
雨のにおいと、彼のシャンプーのにおいが車内の湿度と混ざり合い、男の全身をぬるく包み込む。
男は湿った甘い匂いに、静かに溺れた。
口元がわずかに開き、瞳はぼんやりと宙を彷徨っている。
ただ、親指だけが、つり革をそっと撫で続けていた。
男はゆっくり右を向いた。
男の動作に反応してか、彼が、首をすこし傾げて男を見ている。
……どちらかうつつか幻か、わからぬままに男が少し口角を上げ微笑むと、
彼は男に軽く会釈した。
つり革を撫でる親指の動きが止まった。
その刹那、静けさを裂くように、光が男の脳裏を横切った。
「そうか……彼も私を……。」
男から笑みが漏れる。
窓に映る彼を男はまるで恋人かのように、愛おしそうに見つめていた。
男は再び、親指でつり革を撫で始め、
彼は前を向き、スマホをいじり始めた。
少しうつむき加減の彼の髪から大粒の水滴が落ちた。
水滴は彼の鎖骨から胸元へと流れ落ちていく。
男は前を向きながら視線の端で、胸元へ滑る雫を捉えた。
男の視線は、胸元を越え、静かに腰へと落ちていき、彼の下腹部でぴたりと止まった。
……男はゆっくりと息を吐く。
男の背中に、甘やかな恐怖にも似た緊張が走った。
捕らわれるのを、無意識に願っているように……。
男はぎゅっとつり革を握りしめ、はっと短く息を吐いた。
わずかに体を震わせ、また浅い吐息を漏らす。
背中に彼の気配が触れるたび、呼吸は細くなり、熱を帯びた。
吸うたびに甘い痛みが胸に滲み、吐くたびに身体が蕩けていく。
幾度かの呼吸の果て、男は満ち足りたように、静かにため息を落とした。
男はゆっくりと右横に立つ彼に顔を向け、彼の耳元で「あとでね。」と伝えた。
彼の肩がビクリと動いた。
彼は瞳に驚きと恐怖の色を滲ませ、
「は?何ですか。」
と、訝しげに男を見上げた。
「……あっ……」
男は、彼の中に芽生えた怯えの気配を、ありありと感じた。
――その瞬間、男の背中に冷たいものが走った。
つり革を握る手は、感覚を失った。
目に映る風景には、色もなければ、音もなかったのだ。
男は息をすることさえ忘れ、歯を食いしばり、深い皴を刻んで、目を閉ざした。
重たい自責の念が、男の全身を押し潰していった。
彼は何事もなかったかのように、前を向いた。
男も窓の外を見る。
しかし、先ほどよりも離れた2人の距離が、確実に何かがあったことを物語っていた。
車内を漂う風に乗って、脳裏に刻まれた彼の匂いが甘く空ろな記憶を呼び起こす。
深い呼吸とともに、男は再びつり革を撫で始めた。
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