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残照の網を編む

夏久 遼吾

18,199 字

離島文学、青春群像劇

"残照の島で、絆と記憶を編み直す、静謐なる物語。"

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第六章 深く刻まれた境界

 夜明け前の海面は、まるで磨き抜かれた鋼のように冷たく光っていた。引き潮の後の静けさは、どこか重みを孕んでいる。空が白むにつれ、足元にある不格好な麻の結び目が、水面の下で黒々と揺れているのが見えた。
 防波堤の濡れたコンクリートに腰を下ろし、海風に吹かれる。海鳥が一羽、低く飛びながら鋭い声で鳴いた。すぐ隣では、健介が自身の指先をじっと見つめていた。先ほどまで冷たい海で、麻縄を手繰り、結び目を作り続けていたその手は赤紫に変色し、擦り傷からわずかに血が滲んで微かに震えていた。
「一樹にい」
 指先を見つめたまま、静かに囁く。
「この海、なんでこんなに冷たいわけ。わんきゃの先祖は、本当にこの『潮結び』だけで、荒波から島を守れると信じとったんかいね」
「守るためだけじゃないのですよ、健介」
 眼鏡を外し、ハンカチでレンズの曇りを丁寧に拭きながら答えた。口調から、いつもの頑なな壁は消え去っていた。
「あの血判状の意味を、あなたも書斎で見たでしょう。この麻縄には、それと同じものが結ばれているのです」
 健介の指先が、ぴたりと止まった。擦り傷を撫でていく潮風に、健介の眉がわずかに歪んだ。
「わんは、そこから逃げ出すわけじゃや」
潮風から身を守るように肩を窄めた健介の声は、引き潮の波の音に揉まれて消えそうだ
った。
「工場に行くわんは、この海のことも、結んだ縄のことも、いつか忘れてしまうんかもしれん。そう思うと、わんは、恐ろしいが」
 そう言うと、健介は顔を歪めて俯いた。
「その手で結んだ縄です。忘れても、解けはしません」
できるだけ静かに、そしてはっきりと言った。そのまま健介の赤く腫れた手を、そっと両手で包み込んだ。健介が顔を上げた。
「だから行け」
 健介は手を強く握り返した。大粒の涙が静かにこぼれ落ち、足元の濡れた砂に吸い込まれていく。少し離れた場所で、里美が私たちに背を向けて、濡れた麻縄を丁寧に束ねていた。
 束ね終えると、里美はゆっくりとこちらへ歩み寄り、健介の反対側の隣に、何も言わずに腰を下ろした。しばらくの間、三人は冷えた指先を息で温めながら、白み始めた海だけを見つめていた。
 誰も、何も言わなかった。ただ日常に戻っていく時間だけを待っていた。防波堤の遥か向こう、いつもの場所に、区長の小さな影が立っているのが見えた。
 彼がいつからそこにいたのか、何を見ていたのかは分からない。水平線の彼方が、ゆっくりと白から橙へと色を変えていく。その最初の光が届いた瞬間、区長は被っていた古い帽子をそっと脱いだ。深く頭を垂れたその姿は、まるで海そのものに向かって一礼しているかのようだった。
 遠くの港からやってくる朝一番のフェリーの霧笛が、山々に反響しながら、入り江全体に低く響き渡った。その音が消えた後も、三人はしばらくの間、その場から動こうとはしなかった。

── 第6章 了 ──

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