第六話 聞きたかった声
朝、言語監査庁の自席に着いてすぐ、私はIDを入力する。
生体認証のサインが一瞬光り、自分の名前が表示される。
【水沢 琴:言語監査士Ⅲ類 登録番号 0000104】
画面に通知が表示される。夜のうちに自動巡回が拾った案件の一覧。
優先対応案件の一番目を見る。
申立人:池上 修平。三十五歳。株式会社ヘルスシード代表取締役。
故人ツイン:真壁 直人。享年三十二。同社元取締役CTO。没後一年。
申立人の文面を開く。
──最近、彼の応答に違和感を覚えます。
それだけが書かれていた。
本人性指数〇・七一。許容範囲ぎりぎりの数字だ。
応答ログ生成経路のグラフィックを確認する。
細くなった経路は特にない。だが、ある種の語彙群への経路だけが、最近、急に太くなった形跡がある。
「迷い」「疲れ」「眠れない」「辛い」「ごめん」──疲労、感情と、内的な状態を表す語彙群。
生前ログと照らし合わせる。これらの語彙群は、生前の真壁さんの発話の中ではほとんど現れていなかった。
橘さんが、隣の席で軽く会釈した。
「水沢さん、池上さんの申し立ての件、どう見ますか」
「侵食型かも。経路の太り方が、不自然で」
「申立人は、来庁を希望されています」
「わかりました。お会いします」
橘さんは頷いて、自分の席に戻った。
午後。応接室に通された池上さんは、思っていたより若く見えた。三十五歳。痩せ型で、白いシャツ、紺のジャケット。落ち着いた声で挨拶をして、私の向かいに座った。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ。直接お話しできて助かります」
池上さんは、テーブルに置かれた水を一口飲んだ。
「真壁とは、大学の研究室で出会いました。私が二つ年上で、彼が修士に上がる頃に。会社を立ち上げたのは五年前です。医療現場の課題解決を目指したスタートアップで、彼が技術側の責任者でした」
「お仕事の中身を、少しだけ伺っても」
「臨床現場のデータの扱いに関わる事業です。守秘義務がありますので、これくらいで」
池上さんは少し笑った。
「真壁は、私が経営判断で迷う時、よく相談に乗ってくれました。技術の話だけでなく、人の話、組織の話、お金の話。彼は、判断ができる男でした。逃げずに、一つのポジションを取る。私は、何度も彼の判断に救われたし、意見が違えば議論ができた」
「ご病気か何かで……」
「突然死でした。過労です」
短く、池上さんは答えた。
「彼が亡くなって、一年になります。会社のことで迷う時、彼のツインに話しかけることがあります。彼の声を聞けば、判断の方向が、見えるような気がして」
私は頷いた。
「ですが、最近、彼の応答に、違和感が」
「具体例を、伺ってもいいですか」
「先月、ある臨床機関との契約を進めるかどうかで迷っていて。生前の真壁なら、たぶん、進めるべきだと言うはずだったんです。ですが、ツインの彼は、決めなかった。『うまく言えないけど、もう少し考えたほうがいいかもしれない』と」
「それは、生前の真壁さんとは違う、と」
「違います。彼は、迷わなかった。少なくとも私には、そう見えました」
池上さんは、両手を膝の間で組んでいた。
「他にも。最近の応答に、なんというか、感情が、混じるようになって。『大丈夫か』とか、『無理するな』とか。彼はそういう言葉を、少なくとも私の前では、使わなかった」
「お話、ありがとうございます。調査します」
「お願いします」
帰り際、池上さんは立ち上がってから、少し言いよどんだ。
「水沢さん。一つだけ」
「はい」
「彼を、戻していただけますか」
私は黙って、頷いた。
池上さんは礼を言い、応接室を出ていった。
自席に戻り、真壁さんのツインの公開範囲を確認した。
公開範囲は、池上修平と、ヘルスシードの役員、親族、親しい友人数人、そしてもう一人。
南野 沙織。三十一歳。続柄欄に「故人パートナー」と記載があった。
池上さんとヘルスシードの役員たち、それから親族と友人からの入力は、頻度、質、量とも一般的な範囲だった。
だが、南野さんの入力履歴は違った。
故人没後の半年は、ほとんど何も入力されていない。
短い「直人」とだけ書かれた入力が、二、三度、残っているだけ。
半年が過ぎた頃から、入力が増え始めていた。
最近の三ヶ月は、ほぼ毎日、何かが書かれている。
サンプルを開く。
──直人、最近どうしてる
──夢で会えた気がした、なんとなく嬉しかった
──本当に疲れてたんだよね、もう少し私も気づけたらよかった
──今日、仕事ちょっと辛かった
──ごめん、まだ部屋の片付け、終わってない
私的で、感情に近い、二人の関係に密着した語りかけ。
ツインの応答を、時系列で追う。
最初は短い。「うん」「そっか」「気にしないで」程度。
だが、徐々に、応答が長くなり、私的な含みを持ち始めていた。
──ごめんな、もっと、ちゃんと、言えばよかった──
こうした応答は、生前ログの中の真壁さんにはほとんど見られない。
それは南野さんへの私的な発言でもそうだ。
時折、「たしかに、少し疲れてるかもね」と冗談めかして言っていた程度だ。
だが、今はその応答経路が大きくなっている。
そして、池上さんの前にも、漏れ出している。
私は直観的に、これは一人では無理だ、と思った。
橘さん、葉子さん、和泉さんに声をかけ、打ち合わせの場を用意してもらった。
私は改めて案件の概要を説明し、生成経路グラフィックを画面に出した。
「公開範囲の中の一人──南野沙織さん──の入力傾向が、明らかに生前の真壁さんのログの傾向と違います。南野さんの入力が、ここ三ヶ月で急増しています。彼女の入力に対する応答経路が太り、その太り方が、池上さん側の応答にも漏れ出している」
「侵食型、ただ、スピードが異常ですね」
和泉さんが言った。
「はい。私の見立てですが、生前の真壁さんは、いわゆる『ストイックな人』だったのだと思います。意識的、無意識的に、『弱音を吐く』種類の語彙の出力、いやおそらく、それ以上に『入力』を遠ざけていた。その本人が亡くなったいま、新しい語彙が流れ込み、学習され、漏れ出している」
「つまり、南野さんの入力が、本人性喪失の原因だ、ということですか?」
和泉さんが尋ねた。
「はい、そのはずです。ですが……」
私が言い淀むと、葉子さんが声を上げた。
「池上さんと南野さん、お二人が、取り戻してほしい真壁さんが違うということよね?」
私は答えた。
「はい。ただ、うまく言えないのですが、南野さんの方は『取り戻してほしい』というのとは、少し違って……」
──しばらく、沈黙があった。
「──水沢さん、南野さんに、会いに行きませんか」
葉子さんが沈黙を破った。
「いや、規定上、申立人ではない方にこちらから会いに行くことは……」
「ええ、わかってます。でも、この案件は」
「葉子さん」
「水沢さん」
葉子さんの声は、いつもより低かった。
「水沢さんが行かないなら、私が行きます」
「葉子さん、それは」
「規定外です。でも、行きます」
葉子さんは、私から一切目を逸らすことなく、静かに言った。
「水沢さん。あなたの判断が、人を、死なせるかも、しれないの」
「橘さん。良いですよね」
橘さんは少し間を置いて、小さく頷いた。
葉子さんは立ち上がり、自分のブースに戻った。
和泉さんも、橘さんも、何も言わなかった。
葉子さんは翌日、年休を取って、南野さんを訪ねていった。
南野さんに連絡を取り、了解を得た上での訪問だと聞いた。
例外的に業務上の理由をつけられなくはなかった。
しかし、葉子さんは自身の判断で、個人的な時間を使って、南野さんを訪問した。
戻ってきた葉子さんは、私の席の隣に立った。
「南野さんは、お会いしてくれました」
「はい」
「直人さんと付き合っていたのは、亡くなる前の四年。一緒には住んでいなかった。彼が亡くなった日も、その少し前に会っていたそうです」
「……」
「彼女、葬儀の頃には一度、悲しいのは通り過ぎていたって。お通夜と告別式はただの儀式に見えた、そう言ってた」
「そうですか」
「その時池上さんから、一言、二言、声をかけられたって。目に涙を浮かべて、謝るような言葉だったって。でも、その時の自分は、彼の言葉を受け取る余裕も、受け取らない余裕もなかった、って」
葉子さんは、画面の方を見ていた。
「半年、彼女はツインに話しかけられなかった。話しかけたら、彼が本当にいないことをもう一度、認めてしまう気がしたって。最近、やっと話しかけられるようになったって。話しかけて、応答が返ってくると、少しだけ息ができる、って」
私は黙って聞いていた。
「それから」
葉子さんは少しだけ私の方を見た。
「この話は水沢さんに伝えていいって、許可をいただいた。これは、私の判断で、規定外の聴取として記録に残しています」
葉子さんはそれだけ言って、自分のブースに戻った。
調整候補を呼び出した。
補助ツールが、いくつかの候補を提示した。
最も妥当な候補は、典型的な「侵食型」相当の処理──急激に増えた、感情と内的状態を表す語彙群の生成経路を絞り、生前と同程度の発露にとどめる──というものだ。
これを実行すれば、真壁さんのツインは、「生前の話し方」に「戻る」。池上さんにとっても、南野さんにとっても。
──ただ、それはおそらく、今の南野さんが求める、真壁さんではない。
──別の方法はないか。
公開範囲を分ける。池上さんの前の真壁さんと、南野さんの前の真壁さん。それぞれを、別のツインとして保つ。民間時代にはよくやった手法だ。しかし、それは言語監査庁の倫理規定に反する。故人ツインの商品化を防ぐための、厳格な規定だ。
──私はいったん仮実行を行ってから、微調整を試みることにした。
典型的な調整候補を選んで、仮実行ボタンを押した。
画面のグラフィックが、ゆっくりと変化していく。「迷い」「疲れ」「眠れない」「辛い」「ごめん」──これらの語彙群への経路が、ゆるやかに、細くなっていく。
──完了。
仮実行状態の確認のため、ツインを呼び出した。
「真壁さん」
「はい」
「最近、お仕事のことで、何か気になっておられることはありますか」
「いえ、特には。次のリリースに向けての進捗も順調ですね」
声は低めで、迷いがない。生前の真壁さんの、池上さんの前での口調。
私は、もう一つ、問いを置いた。
「お疲れになっていませんか」
「いえ、大丈夫です」
短く、応答が返った。それだけだった。
本人性指数を確認する。
〇・七一→〇・八九。元に戻った、と言える数値だ。
そこから少しずつ、「弱音」を吐きそうな、そういう出力に、寄せていく。
池上さんの前では、その「弱音」を発露させない、その水際を狙って。
──私は、試行錯誤を繰り返した。気がついた時には、日付が変わっていた。
翌日、三つのドキュメントを用意した。
一、標準外対応(基準内)に関する報告
二、南野沙織氏と真壁直人氏ツインの対話ログ抜粋:参考情報として。
三、白瀬葉子言語監査士による個別聴取の概要:規定外の聴取として参考添付。
ボタンを押して、関係部署に報告書として回した。
数日後、鷹野さんがフロアにやってきた。
鷹野 千景。倫理監査部門の主任監査官。細いフレームの眼鏡、グレーのジャケット。私は彼女を見るのは三度目くらいだった。
「水沢さん」
「鷹野さん。お疲れさまです」
「真壁直人さんツインの件、報告書を拝見しました」
「はい」
「これについて、もう一度確認させてください」
鷹野さんは、私の隣の椅子に座った。タブレットを開いて、画面を私に向ける。
「南野沙織さんの入力履歴。申立人の要望と、故人ツインの本人性維持の観点からは、ツインの出力に発露させない処置が標準ですよね。ですが、今回は十分にその経路を絞らなかった」
「はい」
「それから、白瀬葉子さんの個別聴取記録」
「はい」
「これは、後日の再審査を意識した記録ですか」
私は答えに窮した。意識していたのか、無意識だったのか、自分でもはっきりしない。
「……すみません、即答ができません」
鷹野さんは、私の答えを聞いて、わずかに微笑んだ。
「わかりました。職務範囲は越えていないものと判断しますが、気をつけてください」
鷹野さんは、タブレットを閉じた。
「標準外の余地が、書類上残されている。それが何のためか、書いた本人にもわからないままに。私の仕事は、それを発見して消すことではない。記録することです」
鷹野さんはそう言って、立ち上がった。
「水沢さん、また、何かあれば、伺います」
それだけ言って、鷹野さんはフロアを出ていった。
帰りの電車の中で、私は、葉子さんの言葉を思い出していた。
「あなたの判断が、人を、死なせるかも、しれないの」
私は、規定の中で、できるだけのことをした。
おそらく真壁さんのツインは、南野さんの前では「弱音」を吐くはずだ。
だが、それは彼女が求める真壁さんではないかもしれない。
半年の沈黙の先に彼女が聞きたかった声はもう、聞けないかもしれない。
家に帰って冷蔵庫を開け、残っていた麦茶をグラスに注いだ。
ティーバッグが少し破れていて、こぼれ出した粒がグラスの中を舞って、沈んだ。
南野さんは、聞きたかった声を聞けているのだろうか。
聞けているとして、いつまで保てるのだろうか。
その考えが、止まらなかった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。