第六章 百姓の男
百姓の男が城に来たのは、隣国の書状から十日後のことだった。
男の名は与助といった。北の村の百姓で、齢は三十を越えたばかりだという。城の門の前に立ち、領主に申し上げたいことがあると言った。門番は追い返そうとしたが、与助は動こうとしなかった。男を門番が持て余しているところに、杉山が通りかかった。与助は杉山に同じことを言った。領主に申し上げたいことがある。隣国からの書状の件で。
「ここでしばし待っておれ」
杉山はそう言い残し、頼賢に男のことを伝えた。
頼賢は門まで出向き、与助の話を聞くことにした。
与助は地べたに跪き、頭を下げた。
「殿に申し上げたいことがございます。その前に、お咎めを受けることを承知で、申し上げねばならぬことがございます」
頼賢は黙って待った。
「私は、母を山に送っておりません」
空気が止まった。次の瞬間、門番が槍を持つ手を返し、傍に控えていた杉山が後ろ手に制した。
「母は今年、六十八になります。触れが出た年にすでに六十を越えておりました。私は……送れませんでした」
送れなかった。与助はそう言った。送らなかった、ではなく。頼賢はその言い方を聞き取った。
「五年の間、どうしておったのだ」
「家の床の下に穴を掘りました。昼は穴の中に。夜だけ出しておりました」
頼賢は与助の顔を見た。顔色は疲れ果て、痩せこけてはいたが、怯えてはいなかった。
「なぜ今、名乗り出た」
「隣国の書状のことが、村にも伝わっております。水のことと、山の道のこと。母がそれを聞いて、自分には話せることがあると申しました」
「そうか、ではすぐに、連れて参れ」
頼賢はそう言った。杉山が何か言いかけたが、頼賢は手で制した。
その日の夕刻、与助は母を連れてきた。
与助の母は、小柄な女だった。名をトキといった。六十八には見えなかった。五年の間、床の下で暮らした体は痩せていたが、目は濁っていなかった。
「水のことから話してよいですか」
トキは許しを待たずに話し始めた。頼賢は口を挟まなかった。
「あの川の水の分け方は、今の形になるまでに三度変わっています。最後に変わったのは、私の祖母がまだ、娘だった頃のことだと聞いています」
トキは語った。川の上流にかつて大きな淵があったこと。ある年の大水で淵が崩れ、流れが変わったこと。水が隣国の側に多く流れるようになり、こちらの田が干上がりかけたこと。その次の大水で、隣国の村に多くの被害が出たこと。両方の村の者たちが出て、堰を作り直したこと。今の水の配分は、その堰の位置で決まっていること。
「あの堰を動かせば、たしかに水は向こうに多く流れます。ですが、そうすれば大水のときに向こうの村が浸かります。今の形は、そうならないように向こうの村とともに作ったものなのです」
頼賢は黙って聞いていた。帳面にはない知識だった。文書にも残っていない。川の傍に住み、水と付き合い、祖母から母へ、母から娘へと伝えられてきた記憶だった。
「向こうの殿様に、そう伝えてください。水の配分を変えれば困るのはむしろ向こうの村だと。嘘ではありません。堰を見ればわかることです」
頼賢は自らの母と重ねた。与えられた領分の中で、聞くべきことを聞き、言うべきことを言う。
「山の道のことも、話してよいですか」
頼賢は頷いた。
「あの道は、私の祖母の、そのまた祖母が若かった頃にできたものです。もともとは別のところに道がありました。もっと南の、尾根の低いところだったと聞いています。それが崩れた。崩れたのは向こう側です。向こうの山肌が崩れて、道が埋まった」
トキは少し間を置いた。
「新しい道を切り開いたのは、こちらの村の者たちです。向こうの村は崩れの片づけに手を取られていた。こちらから人を出して、今の道を通した。そのとき、道の普請に出た者の名を記した石がどこかにあるはずです。こちらの村の者の名です。私の祖母が子供の頃に見たと聞いています」
頼賢は訊いた。
「その石は今もあるか」
「草に埋もれているかもしれません。ですが、石は腐りません」
頼賢は考えた。石が見つかれば、あの道がこちらの民の手で開かれたことの証になる。石が見つからなくても、経緯そのものを隣国に伝えることはできる。
「向こうの年寄りに、聞いてもらえば」
与助が口を開いた。頼賢は与助を見た。与助は続けた。
「年寄りの女に聞けば、誰かしら覚えている者がいるはずです。向こうの年寄りが覚えているなら、向こうの殿様も無理は言わぬでしょう」
頼賢は与助の顔を見た。この男とその母は、命を賭けてここに来ている。知恵を差し出すことで許されるかもしれないと、考えなかったわけではないだろう。
だがこの男は、村人の目を忍んで五年もの間、穴の中に母を匿い続けていた。
それに比べればおそらく、ここに母を連れてきて話をすることなど、造作もないこと。
頼賢はトキの顔を見ていた。小柄な、痩せた老女。五年の間、穴の中にいた女。この女が持っていた知恵が、藩を救おうとしている。
母は「至上の誉」と言った。トキは「話せることがある」と言った。言葉がまるで違う。だが二人とも、息子の側にいる。二人とも、息子が背負うものを軽くしようとしていた。
「与助」
頼賢は名を呼んだ。
「この度の話、誠に有り難いものであった。だが、母を匿っていたことについては、触れに背いたことになる」
与助は頭を下げた。覚悟していた顔だった。
「しかし──」
頼賢は言葉を探した。
触れに背いた。罰すべきか。罰すれば、この男の母が差し出した知恵を、この男を罰した上で使うことになる。知恵だけを受け取り、恩を返さぬのか。
褒めるべきか。褒めれば、触れに背くことを認めたことになる。他の者も母を匿ってよいことになる。
孝行と称えるべきか。いや、頼賢にとっては、親を山に送ることこそが孝行だった。自分が母を山に連れていったのは、母の「誉」を守るためだった。
だが、この百姓にとっては孝行や誉など、取るに足らないことなのだ。ただ、母に生きていてほしかったのだ。
「──この件は、おまえ個人の問題としては扱わない」
頼賢は言った。
「触れそのものについて、改めて考え定める。定めが決まるまで、おまえと母を咎めることはしない」
与助は顔を上げた。礼を言おうとしたのかもしれない。だが頼賢の表情を見て言うのをやめた。ただ、頭を下げ続けた。
頼賢の顔には深い迷いが、浮かんでいた。
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