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迷子の天使

奥井晴弥

18,388 字

日常系連作短編、人生の機微、静かな発見

"街の片隅の花屋が、迷える魂たちにそっと手渡す、人生のささやかな花束。"

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   第六話 優しい思い出

呼び出しを受けたのは、四月の初めだった。
小さな会議室。上司の係長と、総務の担当者が向かいに座っていた。
テーブルの上に、一通の封筒が置いてある。同窓会の案内。表に「誤配達」と丁寧な字で書かれている。
「藤原くん、この宛先は君の担当エリアだね」
封筒の宛名を見た。吉井司。住所は商店街の中。花よしの住所だ。
心臓が一度だけ大きく打った。表情は変えないようにして答えた。
「はい。そうだと思います」
「この地域で、最近、誤配が複数件あったという報告が入っている。把握しているか」
「すみません、把握していませんでした」
嘘だ。だけど、ここでは嘘をつくしかない。
結果、過失として処理された。厳重注意。始末書。郵便物の取り扱いについて再確認を受けた。それで収まった。
社歴の浅い配達員。住所が似ている、名前が似ている、番地を読み間違える。そういうことはよくあるらしい。
だけど、収まったのは手続きの話だ。藤原の中では何も収まっていなかった。
翌週、上司と二人で花よしに謝罪に行くことになった。制服で。郵便局の人間として。
商店街を通るのは毎日のことだったが、制服で花よしの中に入るのは初めてだった。
いつもはカブで通り過ぎる場所。
店先のバケツの花が並んでいる。四月。スイートピーやチューリップはもう、主役の座を開け渡していた。
「失礼します。日本郵便の者ですが」
上司が先に声をかけた。店の奥から吉井が出てきた。エプロン姿。手が濡れている。いつも見ている姿だ。だけど、今日は正面から見ている。
「このたびは、配達の不手際でご迷惑をおかけしまして」
上司が頭を下げ、藤原も頭を下げた。吉井は少し驚いた顔をしていたが、すぐに穏やかな表情になった。
「ああ、あの、同窓会案内の件ですか。いえいえ、大丈夫ですよ。特に困ったことがあったわけではないですし」
吉井の目が藤原を見た。一瞬、何かを確かめるような視線があった。だけど、それだけだった。
「何か届いていないお心当たりのあるものがあれば、お申し出いただければ調査いたしますので」
「いや、本当に大丈夫です。お気にならさず」
吉井はそう言って、少し笑った。あの笑い方だった。花を買いに来た時にも見た、少し照れたような、だけど相手を安心させる笑い方。
レジの横のコルクボードに、写真が並んでいるのが見えた。卒業式?おそらく何年分かの。たぶん、花を納めているのだろう。
壁には「季節の花をあなたの暮らしに」と書かれた小さなポスターが貼ってあった。ウェブサイトと同じコピーだ。その隣に、手書きの張り紙がある。「ご自宅用のお花の包装には古紙(新聞紙)を使っています」
カウンターの隅に、商店街のお店のショップカードがいくつか並べてあった。Coffee Roastery MURASE、理容サトウ、手打ちそば吉野、つくだ書店……全部、郵便を配った覚えがある店だ。
作業台の上に、途中のアレンジメントがあった。名前も知らない花が何種類か、バランスよく組まれかけている。吉井がさっきまで手を動かしていた場所。
藤原は黙って見ていた。この店の中にあるすべてのものが、一人の人間の仕事の蓄積だった。毎年の卒業式の写真。季節ごとに変わるバケツの花。途中のアレンジメント。商店街の店のショップカード。新聞紙。エプロンの汚れ。濡れた手。
この人に嘘をつき続けることはできない。
上司が形式的な挨拶を終えて、藤原と一緒に店を出た。アーケードを歩きながら、上司は「穏やかな人で良かったな」と言った。藤原は「本当にそうですね。ありがとうございました」と答えた。
その夜、藤原はアパートの部屋で天井を見ていた。
テーブルの上には何もない。あの時買ったガラスの花瓶は、棚の奥にしまってある。
嘘をついた。赦された。だけど、本当のことを言えば、この退屈な、だけど安寧な日々を、失ってしまうかもしれない。
だけど。
翌日の夕方、藤原は私服で花よしに向かった。閉店直後。吉井がシャッターを半分下ろしかけているところだった。
「すみません」
吉井が振り返った。制服ではない藤原を見て、一瞬の間があった。それから、目が少し開いた。
「やっぱり、あの時の」
「覚えて、いらっしゃったんですか」
「ああ、やっぱりそうだ。昨日来た時、どこかで見た顔だなと思って。でも制服だったから、確信が持てなかった。チューリップとスイートピーの」
覚えていた。
藤原はシャッターの前に立ったまま、しばらく言葉を探した。用意してきた言葉があったはずだ。だけど、出てこない。
「あの、昨日の件なんですけど」
「うん」
「あれは、間違えたんじゃないんです」
吉井は黙っていた。
「意図的にやりました。お店宛の郵便物を、何通か。わざと他のポストへ。故意でした」
言ってしまった。言ったら楽になるかと思ったが、ならなかった。
吉井は黙ったまま、藤原を見ていた。怒りでも驚きでもない、ただ静かな目だった。
「そうなんですね、また、どうして?」
「自分でもよくわからないです」
それは嘘ではなかった。だけど、全部でもなかった。
「あの時、花を買いに来たとき、仕事を変えた、って」
「はい」
「どうでしたか?」
藤原は少し黙った。
「気に入ってました。部屋に飾って、いいな、と思ってました。だけど、彼女と別れることになりました。スイートピーの花言葉のとおりです」
「ああ」
吉井は小さくうなずいた。何かを思い出しているような顔をした。
「花のせいじゃない、それはわかってるんです。たまたまそこにあっただけ……」
その顔を見て、藤原は思わずそう口に出したが、言い終わるかどうかのタイミングで、吉井は口を開いた。
「あの時、あなたに花を選んだ時のこと、覚えてます」
「覚えてるんですか」
「うん。仕事を変えた、気分を変えたい、って言ってた。だけど、ただ気分を変えたい人の顔じゃないなと思いました」
藤原は何も言えなかった。
「何かを手放した人の顔だった。何か大事にしてたものを、手放すしかなかった。そういう人の。だから。」
「門出、ですか」
「それもあるけれど」
吉井は半分下ろしたシャッターに手をかけたまま、言った。
「手放したものが、苦いだけの記憶にならないように。優しい思い出として残るように。そう思って選んだんです」
藤原はシャッターの前に立ったまま、あの日のテーブルの上を思い出していた。淡いピンクのスイートピーとオレンジのチューリップ。殺風景なワンルームの中で明るかった花。気に入っていた。あの花には、そういう意味があった。
「わかりませんでした、あの時は」
「ごめんなさい。あの時は、言葉にしない方が良い、と思ってしまったんです」
吉井は短い沈黙の後、言った。
「――ちょっとだけ、自分の話をしても、いいですか」
藤原はうなずいた。
「――花屋は、黒子なんです。華やかに見えても、主役にはなれない。花が届いた先の相手がどう受け取ったか。下手すると、ちゃんと届いているのか、それさえわからない」
吉井は店先のバケツに目を落とした。
「でも一度だけ、主役になれた時があるんです。高校の謝恩会で、先生に渡す花束を自分で作った。あの時だけは、自分が作ったものを、自分の、自分たちの想いを乗せて、自分の手で渡せた」
「お客さんからご相談を受けた時は、あの時の気持ちを、思い出すようにしてるんです」
吉井は少し照れたように笑った。
「ごめんなさい、関係ない話をしてしまって」
藤原は目を伏せた。涙が出そうだった。だけど、泣かなかった。
「あの、誤配のことは、局にも本当のことを話します」
「うん」
「それでどうなるかは、わからないです。最悪、解雇かもしれないです」
「そうか」
「すみませんでした」
「うん」
吉井はそれ以上、何も言わなかった。責めもしなかったし、許すとも言わなかった。ただ「うん」と言った。
藤原は頭を下げて、花よしの前を離れた。商店街のアーケードの下を歩いた。風が、頭に当たった。
ヘルメット越しではない風を受けるのは、配達員になってから初めてのような気がした。
明日、本当のことを話そう。その後のことはわからない。
だけど、今日、花屋に行った。嘘をやめた。それだけは、自分で選んだ。
アーケードを抜けると、空はもう暗かった。
だけど、暗さの底に、かすかに春の気配があった。
(完)

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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