第六章 1991年 夏:檻の設計図
土曜日の午後は、騒がしい自由と、それとは対照的な「沈黙の一点収束」が同居する時間になった。畳の上に新聞紙を広げ、翔太たちが「野原の自由」を謳歌している傍らで、大輔だけは夏目の座卓の端に場所を占めていた。
大輔の手元にあるのは、あのステンレスの定規と、芯を鋭く削り上げた4Hの鉛筆。翔太が「昨日見たカブトムシ」を自由に歪ませて描く中、大輔は夏目の美大時代のノートを広げ、ひたすら立方体のパースを、あるいは人骨の比例を、定規で測りながら書き写していた。
「まあ、大輔くん。これ、あなたが描いたの?」
ある日の図工の時間、田辺先生が感嘆の声を上げた。大輔が描いたのは、窓際にある使い古された掃除用具入れだった。木目の質感、取っ手の錆、そして床に落ちる影の濃淡。それは冷徹な観察と技術による、「再現」だった。
「夏目先生、すごいわ。あんなに頑なだった大輔くんが、こんなに才能を開花させるなんて。やっぱり専門の方の指導は違うのね」
職員室で田辺先生に賞賛され、夏目は曖昧に微笑むしかなかった。
──夏目は長久手の丘で出会った、吉良のことを思い出していた。
心の奥底にしまい込んでいたはずの、十九歳の記憶。
夏目は、自分が「絵の得意な少年」であることを疑わずに生きてきた。
写生大会では常に金賞だった。「神童」とも呼ばれた周囲の賞賛を誇りにして、美大の門をくぐった。
だが、十九歳の夏目の自信は、いとも容易く打ち砕かれた。
二つ年上の同期だった、吉良。
吉良は、アトリエの誰よりも早く登校し、誰よりも遅くまでイーゼルの前にいた。あいつにとって「基礎」や「理論」は、学ぶべき苦行ではなく、呼吸と同じ、無意識の反復だった。
吉良のデッサンを見たとき、夏目は己の浅はかさを知った。
夏目が感覚でごまかしていた線の裏側には、骨格という名の構造が欠落していた。一方、吉良の線には、一ミリの狂いもないカノン(比例基準)が、血肉となって宿っていた。
(──追いつかなければ。技術という階段を一段ずつ登れば、いつかあいつと同じ景色が見えるはずだ)
夏目は狂ったように理論を貪った。骨の名前を暗記し、ヴァルール(明暗の階調)を二十段階に描き分け、透視図法の数値を計算した。
一年をかけ、ようやくあの時吉良がいた場所に辿り着いた、と自負した朝。
夏目は吉良の新作を見て、筆を落とした。
吉良は、夏目が必死に習得した「正解」を、まるで使い古した雑巾のように投げ捨てていた。あいつは完璧な基礎を身につけた上で、あえてその骨を歪ませ、肉を裂き、理論を飛び越え、「野原」を駆けていた。
目の前でステンレスの定規を使い、一ミリの狂いもなく線を引く大輔。
夏目がかつて、吉良に追いつこうと必死に掻き集めた「正解」。それをこの少年は、外界と自分を遮断するレンガの壁として積み上げている。
夏目は自分がかつて超えられなかった「檻」の作り方を、教え続けた。
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