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Win〜彗星は南から

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117,786 字

地方競馬ファンタジー家族ドラマ

"南国の風が運ぶ、魂の継承と家族の絆。彗星は、希望を乗せて南から来る。"

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第5話 初めてのおんぶ、そして

 ヘールボップは、仁美に手綱を引かれながら、調教のスタート地点まで歩いていく。
 冷たい朝の空気の中、蹄の音が規則正しく響く。
 その内側で、万次郎の意識は、仁美の横顔を眺めていた。

(わしが歩けんなったがは、仁美が三つの時か……)

 ゆっくりと、過去が浮かび上がる。

(思えば、こいつと並んで歩いたこと、なかったねゃあ)

 明美が赤ん坊の仁美を抱っこ紐で抱え、小さな広美の手を引いて歩いていた。
 その時は、自分の足でしっかり手を繋いで歩いている。
 広美の笑い声は、遠くまで響いていた。

(あの頃は広美も、よう笑う子やったねゃあ)
(けんどわし、仁美と遊んだことあったか……?)

 やがて、調教のスタート地点に着くと、そこには信吾の姿があった。

「仁美ちゃん、手綱代わるき」

「お願いします」

 仁美は手綱を信吾に渡し、あぶみに足をかけた。
 勢いをつけ、そのまま鞍に跨る。
 信吾は、ゴール前で待機する洋平へ合図を送った。
 すぐには出さず、まずは円を描くようにゆっくり歩かせる。
 馬と呼吸を合わせるための時間だった。
 その揺れに、仁美が思わず声を漏らす。

「すごい、柔らかい」

 一方で万次郎は、背中に乗る仁美の重みを感じていた。

(おんぶか……これも、仁美にはしちゃれんかった……)

 その感覚に引かれるように、過去の記憶がふっと浮かぶ。

 自宅のリビング。
 三歳の広美が、割れんばかりの笑顔ではしゃいでいた。

「ほらっ! お父ちゃん、コメットハンターになったがぞ」

「きゃはは! こめっこ、こめっこ」

 広美は万次郎の背に跨り、きゃあきゃあと笑い続ける。
 その傍らで、明美が呆れたように、それでも嬉しそうに眺めていた。

「まんじさん、そりゃ速すぎるで」
「落ちたらどうするが?」

「大丈夫よねゃあ」
「広美、お前は沖浜万次郎の子供やき、落馬らあせんもねゃあ」

「きゃははは、らいじょうぶ、らいじょうぶ」

「もう」

  暖かい記憶の中で、万次郎は自分に問いかける。

(広美は、よう笑う子やったに、いつからや……)

 脳裏に、蘇るのは忌まわしい記憶の数々。

 落馬の瞬間。
 鼻から血を流す明美。
 土手を転がった時の感触。
 救急車に積まれていく明美。

(あんたのせいやきね)

 葬儀の時、頭から浴びせられた酒の匂い。

(仁美を、あんたの道具にさせんきね)

 昨夜、自分に向けられた厳しい言葉。
 憎しみのこもった眼差し。

(全部、自分のせいや。わしが悪かったがやねゃあ)

「ボップ」

 不意に呼ばれ、万次郎の意識は現実へ引き戻された。
 首は動かさず、馬は目の動きだけで、背中の仁美を見る。
 真後ろには死角がある。
 それでも、仁美の表情は見えた。
 まるで、これから楽しい遊戯でも始まるみたいに、頬を紅潮させていた。

「そろそろ行こうか」

(そうやねゃ)

 スタート地点に着く。
 ゴール前では、洋平がストップウォッチに指をかけていた。

(仁美、初めての、お父ちゃんとの……)

 その時、ふっと仁美の緊張が伝わる。
 信吾が旗を振った。

(お馬さんごっこや!)

 ヘールボップが、駆け出す。
 歩調は乱れない。
 冷たい空気が、頬を撫でるように心地よい。
 流れていく景色が、万次郎にかつての記憶を呼び起していった。

(二度とないと思うた)
(どうな?仁美、楽しいか?)

 意識を後ろへ向けると、仁美の表情は真剣そのものだった。

(そら、そうやねゃ、ほんなら……)
(これはどうな!)

 ぐん、と加速する。

「ありゃあ、速すぎんか?」

 ゴール前の洋平が、思わず声を漏らす。
 ヘールボップは、そのまま最後の直線へ。

(まだまだ行くぞ、仁美!)

 さらに加速。
 巻き上がる砂の量が一段と増える。
 視界を流れる景色は、もはや形を留めない。
 埒の白、木々の緑、ダートの薄茶色。
 それはただの色となって、後ろへと流れていった。
 そのまま、ゴール前を一気に駆け抜ける。
 洋平は、手元の時計に目を落とした。

「十二秒、切っちゅう……軽め、言うたよねゃ」

「鞭、入れてなかったよねゃ」

 直線を抜け、減速に入る。
 仁美は、ヘールボップの首をぽんぽんと叩いた。

「ボップ、凄い加速やったよ」
「凄い、あんた凄いで」

 笑顔で労うその声に、万次郎の心も弾む。

(はっは、楽しかったか?)
(お父ちゃんは、お馬さんやぞー)

 向正面に入っても、ヘールボップの足取りは軽いままだ。
 まるで弾むように、スキップするように走り、その背で、仁美も自然と笑顔になっていた。

「ヘールボップと仁美ちゃん、息ピッタリでやねえ」

 瀧越が声をかける。

「ああ、ありゃあ、ええコンビになるかもしれん」

「えー? 俺には乗せてくれんが?」

 意地悪く言う瀧越に、洋平がニヤリと口角を上げた。

「珍しいねゃあ、そんなこと言うらぁて」

 瀧越は、ふっと肩の力を抜く。

「わかっちゅうねえ、洋平さん」

 信吾に手綱を取られ、仁美は下馬した。
 そのまま、ヘールボップの鼻面を撫でる。

「ああいう、強い相手を見たら、燃えるがよ」
「おもしろう、なって来たやか」

 その後、ヘールボップは馬房へ戻された。
 万次郎は、さっき走った時の感触を確かめるように、静かに目を閉じる。

(視点は違うたが、やっぱりええもんや)
(それに――)
(あいつは、ちゃんと、わしの子やったがやねゃ)

 その時、また厩舎の扉が開いた。
 仁美と信吾が姿を見せる。
 続いて、金属のバケツが次々と運び込まれてきた。

「みんなあ! 朝ごはんで!」

 厩舎の馬たちの前に、手際よく飼い葉桶が置かれていく。
 当然、ヘールボップの前にも。

(飼い葉いうたら……)

 バケツを覗き込む。
 中には干し草に、刻んだリンゴや人参が混ぜられていた。
 万次郎は思わず、前に立つ仁美へ視線をむけると、仁美が不思議そうな顔をした。

「どういたが?食欲、ないが?」

 その眉間に、うっすら皺が寄る。

(おい、ボップ、お前もおるんやろう?)
(飯の時くらい、出てきたらどうなや?)

 しかし、返事はない。
 仁美の表情は、みるみる曇っていく。
 万次郎はその顔とバケツを見比べ、やがて腹を括った。

(しょうがない、難儀やねゃあ)

 そろそろと顔を沈め、恐る恐る口に運ぶ。

(……うまい)

 甘いとも辛いとも違う、初めての味が広がった。

(舌も馬になったがか?とはいえ……)

 ふと周りを見れば、ほかの馬たちは夢中で飼い葉に顔を突っ込んでいる。

(みんな、ええもん貰いよったんやねゃ)

「仁美」

 そんな時、広美が現れた。

「お姉ちゃん、お父ちゃんの容態は?」

「まあ、落ち着いちゅう、と言うべきかな?」
「寝ゆうだけやけどね」

 その時、広美とヘールボップの目が合った。

(……広美)

「今朝、なかなかのタイムやったんやって? ヘールボップ」

「うん、けんど不思議なが」

 広美は怪訝そうに眉を寄せる。

「コーナー曲がる時とか、加速の時とか、全部自分でやるが」
「指示してないに」

「へえ。やっぱり中央のGⅠ馬、賢いがやね」

「言うたち、全部わかっちゅうみたいで」

 広美は、ふっと笑って仁美に顔を向けた。

「落馬しても、自分で走ってゴールする馬おるやいか」
「あんながじゃないが?」

「そうやろうか」

 そこへ信吾が現れ、露骨に顔を顰めた。

「また来ちゅう」

「まあ、えいやいか」
「これから東京へ帰るがやき」

「妹に挨拶ばあさせてや」

 ヘールボップは、飼い葉を食べながら聞き耳を立てた。

(そうか、帰るがか)

「やったら、外でやってください」
「仁美ちゃん、ここはもうえいき、行ってきや」

「ほんまに融通が効かん、信吾くん」
「あんたやっぱりモテんやろ」

「関係ないき!」

 そのやりとりに、仁美がくすりと笑う。
 並んで厩舎の外へ出ていく二人を、信吾とヘールボップは見送った。

(気をつけてねゃ)

 すると、信吾がぽつりと呟く。

「しかし、綺麗な人やねゃあ」
「そう思わん? ボップ」

(はあ!?)

 厩舎の並ぶトレーニングセンターの門前で、広美は洋平と仁美に見送られていた。

「大変な帰省になってしもうたねえ」

「逆に良かったかも知れません」
「遠くにおって聞くよりかは」

 広美は小さくそうこぼすと、仁美を見た。

「変なこと言うて、悪かったね」

「お姉ちゃん」

 広美はもう一度、センターの奥へ振り返る。

「前は、あんたまだ六年生やったもんね」
「立派になったね」

 仁美は、照れたように視線を落とした。

「応援しよるきね、頑張りよ」

「うん、お姉ちゃんも頑張ってよ」

 そこへタクシーが到着する。
 広美は振り返ってふたりに手を振ると、そのまま乗り込んだ。
 空港の出発ロビーで、広美は膝の上にノートパソコンを置き、黙々と作業していた。
 やがて、小さく息をつく。

「これでよし」

 画面を閉じると、今度は携帯電話を取り出した。

「チーフ、今、沖浜騎手のインタビューを送りました」

『こちらでも確認したよ』
『しかもヘールボップなんて、特ダネだよ』

「ありがとうございます」

 電話越しの声が、少しだけ柔らかくなる。

『お父様のこと、大丈夫?』

「いつ目が覚めるか、わからないみたいです」

『そう、それは心配だね』 

 ロビーのざわめきの中、広美は携帯を耳に当てたまま、わずかに視線を落とした。

『これから搭乗?じゃあ、羽田、迎えに行くよ』

「大丈夫ですよ」

『気にすんなって』
『俺、早上がりだから飯食いながら、ゆっくり話聞くよ』

『今夜、一人になると心細いだろう?』

 広美は小さく息を吐いた。

「うん、ありがとう」

 東京。
 競馬ナイン編集部の入るビル。
 階段の踊り場で、編集者の上崎が通話を終えると、そのまま次の番号を呼び出した。

「あぁ、俺だけど、どうしても明日の朝までに校了しないといけない原稿があってさ」
「今夜は会社に泊まるから」

「うん、うん」
「大丈夫だよ、いつものことだろ?」
「すまないね」

 電話を切った直後、何かを思い出したように声を漏らした。

「あ、いけね」

 上崎は左手に目をやる。
 薬指で控えめに光っていた銀の指輪を、そっと外した。

 その夕刻。
 仁美は万次郎の病室を訪れ、静かに傍らへ腰を下ろした。

「師匠、ヘールボップに乗りました」

 眠ったままの父に、そっと語りかける。

「今までのどの馬よりも、速うて賢い馬でした」
「師匠にも、見てもらいたかったです」

 その言葉の奥に、ふと別の声が蘇る。

(操り人形やか、あの男の)

(違う、私は――)

 意識が、過去へと引き戻される。

 四年前、自宅。
 ヘルパーが帰ったあとの、静かな食卓。
 向かい合う万次郎と仁美の間に、箸の音だけが落ちていた。

「仁美、中学出てからの進路、決めたか?」

 仁美は、口元をきゅっと結んだまま黙っている。

「お前は成績も良いし、どこでも行けるろう。なんやったら、県外でもえい」
「お父ちゃんのことは心配するな」
「ヘルパーさんも来てくれる」

 その言葉を受けて、仁美はゆっくりと顔を上げた。
 震える声で、しかしはっきりと告げる。

「地方騎手の、競馬学校に、行きたい」

「騎手に、なる言うがか?」

 仁美は黙って頷いた。
 口元はまだ強く結ばれている。

「いかん」

「なんで?」

「なんでって……お父ちゃんの身体、見てみいや」
「命を落とすことやってあるがぞ」
「なんで騎手になりたいがな?」

「馬が好きやき」
「あと、私は知らんき」

「何をな?」

「お父ちゃんが走るところ、見たことないき」
「映像でしか、見たことないき」

 万次郎の手が、わずかに止まる。

「仁美……」

 仁美は、視線を逸らさず続けた。

「ほんなら私は、違う形で、お父ちゃんが騎手やった事を感じたい」

「違う形?」

「お父ちゃんが、馬の上から見よった景色が見たい」
「見たいが!」

 万次郎は、しばらく黙り込み、やがて、小さく息を吐く。

「……そうか」
「お前は、しっかりお父ちゃんの娘やったがやねゃ」

 万次郎の表情が、ふっと緩む。
 だが次の瞬間、顔つきが引き締まった。

「ただ、道のりは厳しいぞ」
「覚悟せえよ!」

「はい!」

 病室には、万次郎の生命を繋ぐ装置の音だけが響いていた。
 その頃、ヘールボップの深層心理の中で、コメットハンターはある一点を見つめていた。

「息子よ……」
「それが、お前が取り戻した、最初の景色か?」

 暗闇の一角が、わずかに色を取り戻していく。
 やがて、景色の輪郭が浮かび上がってきた。
 それは、仁美の笑顔だった。
 無間の闇の中に現れた、星屑ほどの景色。
 しかしそれは、確かに最初の一歩だった。

「先は、長いな」

(世話をかけるねえ)

「世話だなんて……」
「私こそ、万次郎さんのおかげで、次の世代に血を残せたのですから」

(まんじさんのことも、頼んだで)

「はい、力になれるかはわかりませんが」
「私に出来ることは、なんでもやります」 

「明美さん……」

── 第6章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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