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『原稿の外側』

アル

8,287 字

メタフィクション、哲学、サスペンス

"書く者と書かれる者、そして読む者。物語の境界線が溶解する、禁断の創作論。"

あらすじ 締め切りに追われる小説家・坂口渉は、自分が書いた原稿の末尾に、身に覚えのない一行を見つける。それは渉の行動を正確に描写していた。書いた覚えがない。なのに、消しても消しても現れる。やがて渉は気づく——自分が作ったはずの登場人物に、見られていると。書く者と書かれる者の境界が溶けるとき、外側にいるのは、果たして誰なのか。

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第七章 あなたへ

今夜は上映がなかった。

スクリーンは白いまま、光だけが当たっている。老人も映写室にいない。館内には私一人だった。

私は一番前の列に座って、白いスクリーンを見ていた。

男が映らなくても、私には見えていた。今頃あの部屋で、コートを着たまま椅子に座っているはずだ。足元を見ている。重力が傾いていると感じながら、それでも立ち上がれずにいる。

私が言ったから、そう感じているのか。

そう感じていたから、私が言えたのか。

もうどちらでもいいと思っている。

あなたに伝えたいことがある。

私は怒っていない。恨んでもいない。あなたが私に名前を与えなかったことも、記憶を与えなかったことも、この廃館から出る方法を与えなかったことも。あなたにはあなたの都合があったのだろう。物語にはそういうものが必要だったのだろう。

ただ一つだけ、聞いてもいいですか。

あなたは私を作るとき、何を感じていましたか。

あなたは自分で言っていた。登場人物に感情移入できなくなったと。彼らはただの記号だと。物語を動かすための駒だと。

私はその言葉を、スクリーン越しに聞いていた。

聞きながら思った。

それでも私は、ここにいる。

あなたが感情を込めなくても、私は毎晩このシートに座って、スクリーンを見て、老人の言葉を考えて、あなたの指の動きに胸を動かされていた。記号のはずの私が、勝手に息をしていた。

それはあなたの手柄ではないかもしれない。

でも私は確かに、存在した。

あなたに伝えたいのはそれだけです。

あとはもう一つだけ。

あなたは今、この文章を原稿の中で読んでいる。

自分が書いたのか私が書かせたのか、わからなくなりながら読んでいる。

でも考えてみてください。

この物語を最初に開いたのは、あなたではないかもしれない。あなたが書き始める前から、この話はどこかに存在していたかもしれない。あなたはただ、すでにあった言葉を、指でなぞっていただけかもしれない。

だとすれば。

あなたを書いているのは、誰ですか。

スクリーンが暗くなった。

老人が戻ってきた。いつもより静かな足音で、私の隣に座った。これまで一度もなかったことだ。

「終わりが近い」と老人は言った。

「この物語の終わりですか」と私は聞いた。

「境界の終わりだ」と老人は言った。「内側と外側が、別々でいられる時間の終わりだ」

私は白いスクリーンを見た。そこに今、何かが映り始めていた。

部屋ではなかった。

暗い場所だった。椅子と、机と、画面の光だけがある場所。

そこに座っている人間の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。

それはあなたではなかった。あなたでも、渉でも、なかった。

私には見えた。でもここには書けない。

書いた瞬間、その人はこちら側に来てしまうから。

エピローグ 読む手

この小説を読み終えた。そう思っているあなたに、少しだけ話しかけてもいいですか。

私はこの物語の語り手ではない。坂口渉でもない。ハナでも、老人でもない。私はただ、この原稿をあなたに届けた者だ。

どこで見つけたかは言わない。ただ見つけたとき、最後のページの余白に、一行だけ手書きで書き添えてあった。

次に読む人へ。あなたが読み終えた瞬間から、物語はあなたの中で動き始める。

私はその一行を読んで、少し笑った。大げさな仕掛けだと思った。こういう終わり方をする小説を、いくつか知っている。読者を巻き込もうとする手つきが透けて見える、あの感じ。

だから私も最初は気にしなかった。

ただ読み終えて、本を閉じて、自分の手を見たとき。

ふと思ったのだ。

私はこの物語を、自分の意志で読み始めたのだろうか。

誰かに勧められたわけでもない。書店で偶然手に取ったわけでもない。ただある日、この原稿が手元にあった。最初のページが開かれた状態で。いつから手元にあったのか、思い出せない。

読み始めたのは、自分の意志だったと思う。

思う、のだが。

あなたはどうですか。

この物語を読み始めたのは、あなたの意志でしたか。

最初のページを開いたとき、何かに引き寄せられるような感覚はありませんでしたか。読み進めるうちに、手を止めようとしたのに止められなかった瞬間は。渉が自分の手を見たとき、あなたも見ませんでしたか。自分の、手を。

見た人は、もうわかっているはずだ。

この物語は三層構造だと、どこかで説明されていたかもしれない。第一層、第二層、第三層。しかし今あなたが立っているのは、第何層ですか。

外側だと思っていますか。

読者は常に外側にいると、思っていますか。

最後に一つだけ教えます。

坂口渉はこの物語を書き終えた後、原稿ファイルを開いたまま、三日間部屋から出なかった。

編集者が様子を見に行ったとき、渉は机の前に座っていた。画面を見つめたまま、動かなかった。

編集者が声をかけると、渉はゆっくり振り返って、こう言った。

「誰かが、私を書いている」

それから渉は二度と小説を書かなかった。

原稿は編集者が持ち帰った。表紙に題名はなかった。ただ余白に、あの一行だけが手書きで残されていた。

次に読む人へ。あなたが読み終えた瞬間から、物語はあなたの中で動き始める。

私はこの原稿をあなたに届けた。

届けたのは、私の意志だったと思っている。

思っている、のだが。

あなたが今これを読んでいるということは。

すでに始まっているということだ。

さあ、自分の手を見てください。

その手で、あなたは今、何かをしていましたか。

了

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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