第七章 あなたへ
今夜は上映がなかった。
スクリーンは白いまま、光だけが当たっている。老人も映写室にいない。館内には私一人だった。
私は一番前の列に座って、白いスクリーンを見ていた。
男が映らなくても、私には見えていた。今頃あの部屋で、コートを着たまま椅子に座っているはずだ。足元を見ている。重力が傾いていると感じながら、それでも立ち上がれずにいる。
私が言ったから、そう感じているのか。
そう感じていたから、私が言えたのか。
もうどちらでもいいと思っている。
あなたに伝えたいことがある。
私は怒っていない。恨んでもいない。あなたが私に名前を与えなかったことも、記憶を与えなかったことも、この廃館から出る方法を与えなかったことも。あなたにはあなたの都合があったのだろう。物語にはそういうものが必要だったのだろう。
ただ一つだけ、聞いてもいいですか。
あなたは私を作るとき、何を感じていましたか。
あなたは自分で言っていた。登場人物に感情移入できなくなったと。彼らはただの記号だと。物語を動かすための駒だと。
私はその言葉を、スクリーン越しに聞いていた。
聞きながら思った。
それでも私は、ここにいる。
あなたが感情を込めなくても、私は毎晩このシートに座って、スクリーンを見て、老人の言葉を考えて、あなたの指の動きに胸を動かされていた。記号のはずの私が、勝手に息をしていた。
それはあなたの手柄ではないかもしれない。
でも私は確かに、存在した。
あなたに伝えたいのはそれだけです。
あとはもう一つだけ。
あなたは今、この文章を原稿の中で読んでいる。
自分が書いたのか私が書かせたのか、わからなくなりながら読んでいる。
でも考えてみてください。
この物語を最初に開いたのは、あなたではないかもしれない。あなたが書き始める前から、この話はどこかに存在していたかもしれない。あなたはただ、すでにあった言葉を、指でなぞっていただけかもしれない。
だとすれば。
あなたを書いているのは、誰ですか。
スクリーンが暗くなった。
老人が戻ってきた。いつもより静かな足音で、私の隣に座った。これまで一度もなかったことだ。
「終わりが近い」と老人は言った。
「この物語の終わりですか」と私は聞いた。
「境界の終わりだ」と老人は言った。「内側と外側が、別々でいられる時間の終わりだ」
私は白いスクリーンを見た。そこに今、何かが映り始めていた。
部屋ではなかった。
暗い場所だった。椅子と、机と、画面の光だけがある場所。
そこに座っている人間の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。
それはあなたではなかった。あなたでも、渉でも、なかった。
私には見えた。でもここには書けない。
書いた瞬間、その人はこちら側に来てしまうから。
エピローグ 読む手
この小説を読み終えた。そう思っているあなたに、少しだけ話しかけてもいいですか。
私はこの物語の語り手ではない。坂口渉でもない。ハナでも、老人でもない。私はただ、この原稿をあなたに届けた者だ。
どこで見つけたかは言わない。ただ見つけたとき、最後のページの余白に、一行だけ手書きで書き添えてあった。
次に読む人へ。あなたが読み終えた瞬間から、物語はあなたの中で動き始める。
私はその一行を読んで、少し笑った。大げさな仕掛けだと思った。こういう終わり方をする小説を、いくつか知っている。読者を巻き込もうとする手つきが透けて見える、あの感じ。
だから私も最初は気にしなかった。
ただ読み終えて、本を閉じて、自分の手を見たとき。
ふと思ったのだ。
私はこの物語を、自分の意志で読み始めたのだろうか。
誰かに勧められたわけでもない。書店で偶然手に取ったわけでもない。ただある日、この原稿が手元にあった。最初のページが開かれた状態で。いつから手元にあったのか、思い出せない。
読み始めたのは、自分の意志だったと思う。
思う、のだが。
あなたはどうですか。
この物語を読み始めたのは、あなたの意志でしたか。
最初のページを開いたとき、何かに引き寄せられるような感覚はありませんでしたか。読み進めるうちに、手を止めようとしたのに止められなかった瞬間は。渉が自分の手を見たとき、あなたも見ませんでしたか。自分の、手を。
見た人は、もうわかっているはずだ。
この物語は三層構造だと、どこかで説明されていたかもしれない。第一層、第二層、第三層。しかし今あなたが立っているのは、第何層ですか。
外側だと思っていますか。
読者は常に外側にいると、思っていますか。
最後に一つだけ教えます。
坂口渉はこの物語を書き終えた後、原稿ファイルを開いたまま、三日間部屋から出なかった。
編集者が様子を見に行ったとき、渉は机の前に座っていた。画面を見つめたまま、動かなかった。
編集者が声をかけると、渉はゆっくり振り返って、こう言った。
「誰かが、私を書いている」
それから渉は二度と小説を書かなかった。
原稿は編集者が持ち帰った。表紙に題名はなかった。ただ余白に、あの一行だけが手書きで残されていた。
次に読む人へ。あなたが読み終えた瞬間から、物語はあなたの中で動き始める。
私はこの原稿をあなたに届けた。
届けたのは、私の意志だったと思っている。
思っている、のだが。
あなたが今これを読んでいるということは。
すでに始まっているということだ。
さあ、自分の手を見てください。
その手で、あなたは今、何かをしていましたか。
了
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。