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恋するゾンビの殺し方

蓮海弄花

67,160 字

ダークファンタジー恋愛小説

"恋が成就すれば、私は死ぬ。それでもあなたを愛したい、私の欠陥だらけの愛しき怪物へ。"

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第五章

 氷鷹学園は進学校であるため、例年学園祭は七月の第一週の土日に行われる。中学・大学とも合同で行うため規模が大きい。旭も生徒会長として学園祭を回す立場であった。
 高等部の第一会議室よりも広い大学の会議室に、中学から大学までの実行委員が揃った。旭は体育祭のときとは違い、壁際ではなく、実行委員長の隣に座っている。体育祭とは規模が違いすぎるので生徒会も手伝うのだ。
 実行委員の中に静夜の姿を見つけ、気合が入る。旭はどんな人混みの中でも静夜を見つけることができるという特殊能力を身に着けていた。
「それでは学園祭実行委員長、着任の挨拶をお願いします」
 大学の学生自治会の会長がそう言うと、旭の隣の大学生が立ち上がった。

 それからは主に役割分担が行われた。高等部生徒会は予算の計算と当日見回り担当、生徒自治会は四方八方から飛んでくる要望書を捌き当日は高等部と共に見回り、中等部は高等部実行委員・大学実行委員からは切り離して自分たちだけで学園祭を回してみることになっている。ヘルプが欲しくなれば高等部生徒会に回ってくる。例年そうだった。
 生徒会は基本的に面子が変わらないので、中等部の一年や外部生を除き手際が良く、なれたものだった。
「旭会長、看板に使っていいベニヤ板って何枚まででしたっけ」
「予算内であれば何枚でもいいよ。あ、でも他の出店の邪魔にはならないように」
「旭先輩、書類の書き方がわかりません」
「んー? ああこれはね、こうやって書くんだよ」
 旭がさらさらと代筆して中等部実行委員に渡す。
「旭会長、ついでにこれも」
 自分に割り振られた仕事に就いていた旭は中等部実行委員や高等部実行委員、果ては大学の実行委員からも仕事が飛んできててんやわんやだった。
 結局質問された書類は旭がやった方が早いということになって、旭が処理する書類が倍になった。
 まあ他の人に任せるより自分がやった方が早いし、いいか。
 旭はどんどん回ってくる書類を次々に処理しつつ、そんなことを考えた。

「――みねさん、三峰さん」
 その声にハッとして顔を上げる。
「静夜さん! 気が付かなくてごめんなさい、どうしましたか?」
「もう八時半になりますよ。そろそろ帰りましょう、施錠されてしまいます」
「えっもうそんな時間なんですか? じゃあこの書類は持ち帰りだな」
「それ、全部三峰さんがやってるんですか?」
「え? はい、そうですよ」
 旭は書類を種類ごとにクリップでまとめてクリアファイルに突っ込んだ。
 静夜は眉をひそめた。
「量がおかしくないですか? 高等部生徒会は基本的に書類仕事は行わず、実行委員が行うはずですが」
「ああ、そうなんですけど、問い合わせが多すぎて対応に困った結果、わたしがやった方が早い、となり……」
「過労で倒れますよ」
「倒れませんよ、ゾンビなんですから」
「あなたはゾンビステータスを過信しすぎです。何の生態もわかってないんですからね」
「そうですけど」
「何かの拍子に死んでしまったらどうするんですか」
 それだけは無い。
「それは大丈夫です」
「なんでそんなに自信があるんですか?」
「黒魔術を使ったときに、そういう契約にしたんで」
「どういう契約ですか?」
「それは教えられません」
 教えたら恋か命が終わる。
「……まあとにかく、無理はしないように」
「はい、ありがとうございます」

 旭が夜の内に書類仕事を終わらせてくるので、段々周りが旭のことを頼りだした。
 頼られるのが嫌いではないし効率を考えると自分がやった方が早いと判断した旭は断らないので、どんどん旭の机に書類が積み重なってゆく。積み重なった書類を旭は断らずに持ち帰り、完璧に仕上げて持ってくる。
 それが三日ほど続き、どんどん旭の書類が増えていった。
 これはしばらく木村研には行けないなあ。
 実行委員が皆帰ったあとの会議室で一人、目の前で軽く山になっている申請書やらなにやらを眺めて、旭は一息ついた。
 静夜に言われたこともあるのでなるべく断りたいのだが、頼まれると否とは言えない。
 そのとき、いつの間に会議室に入ってきたのか隣に静夜が座った。
「手伝います」
「え゛っ」
「何か文句でもありますか?」
「いえ、静夜さんならありがたいです!」
「山を半分寄越してください」
「ありがとうございます」
 適当に書類の山をひっつかんで静夜にわたす。
 そのとき、突然旭の頭が自分の机に落下した。身体も脱力してしまっている。
「三峰さん? 大丈夫ですか?」
 かろうじて頭を静夜の方に向ける。
「おかしいですね、意識ははっきりしているのに身体が上手に動かないです」
「きっと過労ですよ。だから言ったのに」
「ゾンビって過労になるんですか!? ああでも、書類、わたしがやらなきゃ」
「三峰さん、それは傲慢です。あなたしかできない書類はこの山の中で数枚程度なんですよ。それを全部引き受けようとするからこうなるんです。もっと優秀になりたいなら人を使うことを覚えることです」
「傲慢……」
 その言葉に少しショックを受けた。まだわたしは傲慢だったのか。加えて、もっと優秀になれるという言葉にもちょっと引っかかった。自分は完璧じゃなかったのだという部分で。そこも傲慢なのだろうけれど。
「そこで傲慢を反省しながら少し休んでいてください。僕が書類を少しやっておきますから」
「はい……」
「明日には書類をちゃんともとの管轄に戻します。異論は認めません」
「はいぃ……」
「よろしい」
 それから旭が動けるようになるまで静夜は隣で静かに書類仕事をしていた。
 旭はそれをただ見ていた。
 ああ、なんだか今幸せかも。
 静夜の筆圧の強いシャープペンの音が響くだけの、静かな静かな会議室は、まるで世界で二人きりになったような錯覚を引き起こした。
 ねえ静夜さん、もしも世界で二人きりになったら何をしましょうか。
 約束した海にでも行きたいですね。
 静かで、心地がよくて、何の不安も心配も要らない世界だったらいいですね。
 二人で死ぬまで話がしたい。
 あなたが過ごしたあなたの部屋で、もし許されるなら床に寝転んで、
 そうして話をしてみたい。
 なんて。
 なんて、きっと叶わない夢。
 わたしの恋がどう転んでも、叶わない夢。
「三峰さん、一時間くらい経ちましたけど、起き上がれますか?」
 いつの間にか目を瞑っていたようだ。目を開けて、ぱちぱちと瞬きをする。
「えっ、もうそんなに経ちました?」
 旭はゆっくりと上体を起こした。
「起きれました」
「立てますか?」
 旭はゆっくりと立ち上がった。
 手を握っては開き、握っては開きを繰り返す。
「大丈夫みたいです」
「じゃあ帰りましょうか」
 その時、どくんと心臓と脳が大きく高鳴った。
「あ……?」
 自分の心臓とお腹の辺りを両手で抱きしめるように鷲掴む。
「三峰さん? どうしました?」
「わか、らな」
 静夜の問いに答えられない。これまで感じたことのないほどの強烈な感覚。指先がビクッと痙攣した。手のひらは攣る寸前まで開ききり、獲物をこの手の内に収めようと動いている。これまで全く気にならなかったのに、静夜の体臭がどんな香水よりも馨しく鼻腔を満たした。それは紛れもなく目の前の【捕食対象】に向けられたもの。ネイルのために伸ばしていた爪はこの瞬間凶器に変わった。止めようとしてもとめどなく口の端から涎が滴る。
 食欲。
 視線は静夜の首筋をひたと捉えている。
 心臓と胎の奥が動いている感触があった。本当はどうだか知らないけれど、この身体は求めている。この肉体が静夜の肉を求めている。この胎の奥の疼きを収めるためには人間を食べるしか無い。それしかないと身体が識っていた。
 旭は、静夜に乱暴に抱きつくような形で押し倒した。
「三峰さん? 様子が」
 旭は静夜の言葉を遮った。
「静夜さん、どうしよう、わたし、静夜さんを――食べたい」
 瞬きをしない旭の瞳はらんらんと光り、まるで怪物だった。急な身体の疲れがそうさせたのか、暴食の衝動があらわれた。
「三峰さん、正気に戻ってください。これ以上ゾンビ化しちゃだめです」
「戻りたいです、正気に戻りたい、人間に戻りたい、でも食べたくてしょうがないんです、あなたのその、ああ、肉体を――」
 静夜は首筋に噛みつこうとしてくる旭を跳ね除け座った。旭は四つん這いで背骨をくねらせ、静夜の首をまだ狙っている。
「妥協できませんか? 血を多少提供するくらいなら構いませんよ」
 旭は考える余地もないとばかりに答えた。
「血、血ですか、はい、それでいいです、早くください」
 静夜は押し倒されたときに床に落ちていたカッターで人差し指の先を自ら傷つけた。一センチほどのその傷はぷつぷつと血液が湧いて出てきた。
「三峰さん、はい、口を開けて」
 言われるが儘に口を開くと、静夜はその涎にまみれてなお麗しい口の中に指を突っ込んだ。静夜の指から流れ出るそれは甘美な液体が旭の口を湿らせた。もどかしい。足りない。もっと欲しい。もっともっと欲しい。あなたが欲しい。
 恍惚。旭は法悦を味わった。

 両手で顔を覆って、旭は恥じ入っていた。
「落ち着きましたか?」
「ごめんなさい……静夜さん。はしたない真似を」
「僕だったから良かったものの、他の人と一緒にいるときにこの症状が起こるのは困りますね」
「静夜さん相手でもほんとうはしたくなかったですよ︙︙」
「これから土日を除いて一日に一回、念の為に給血しておきますか」
「そ、そこまでお世話になれないです。友達とかに頼みます」
「……いえ、僕がやります。他の人にはこの役は務まらないと思うので」
「は、はぁ……そうでしょうか」
「そもそもあなたがゾンビであると識っている人間は少ないのですから」
 静夜は旭のスクールバッグを持って立ち上がった。
「あ、かばん……」
「さっきまで倒れてた人に持たせられませんよ」
「あっありがとうございます恐縮です……あ、家で片付ける書類だけ入れて」
「今日は課題以外しないでください。課題が終わったらベッドで横になって目を閉じているように。眠れなくても身体と脳が休まるそうです」
「調べてくれたんですか?」
「︙︙偶然知っていただけです」
「そうですか……」
 翌日、文化祭実行委員長から頼りすぎた旨の直接の謝罪と、書類の再分配が為された。
 おそらく静夜が何か言ってくれたのだと思う。
 そして、その日も放課後誰も居なくなった生徒会室で静夜と旭は密会し、吸血行為を行った。人差し指の先にかぶりつく旭は紛うことなく怪物だったが、どこか耽美さを纏っていた。

 とうとう学園祭の日がやってきた。この日まで無論吸血行為は続けられている。あの日のような強烈な食欲は収まっているが、毎日の吸血が無いと誰彼構わず襲ってしまいそうで怖かった。
 昨日の前夜祭は無事終え、本祭一日目である。生徒会の腕章をつけて高等部以上の生徒会は見回り業務を行う。申請と違う点はないか、危険はないか、営業中の展示や出店を確認して回るのだ。
 だから旭はクラスの展示には参加できなかった。これは一年の頃からそうだったので慣れてはいたが、旭のクラスはお化け屋敷をやるとのことだったのでちょっと顔を出してみようと思っていた。
 自分のクラスである三年三組をちょっと覗いてみる。
「おーい、ちゃんとやってるかー?」
「あっ旭だ!」
「会長休憩何時?」
 途端にクラスメイトが尋常じゃない様子で群がってきた。
「え? 午後二時からだけど」
「その時間うちのクラス来てよ! 生徒会長が出るお化け屋敷! これは売れる!」
「いや別に生徒会長は珍しいもんでもなんでもないでしょ」
「頼むよぉー」
「休みはきちんと取るように静夜さんから言われてるの。だからだめー」
「ケチ! 生徒会長!」
「はいはいケチですよー」
 旭は裏側に回って、脅かし役が危険な足場に立っていないか確認した。
「裏オーケー。じゃあ気をつけて、頑張って驚かしてね」
 書類にチェックをつけて、旭は教室を出た。
 その調子で自分の担当である棟を確認し終え、実行委員詰め所に報告に行った。
「高等部棟オーケーです」
「了解。放送流します」
 どうやら確認は旭が最後だったようだ。
 放送室に向かったのは高等部一年の放送担当委員である。
 数分が経ち、午前九時。放送が入る。
『只今より、氷鷹学園学園祭を開催致します!』

 文字通りお祭り騒ぎの校内を、生徒会の腕章をつけて歩き回る。美味しそうなたこ焼きやお好み焼き、わたあめなどを見るが旭には一般的な人間の食べ物に対する食欲が無い。美味しいんだろうなあ、と思うだけである。
「あの、すみません」
「はい?」
 声を掛けられ、旭は振り返る。
「三年三組の展示ってどこですか?」
 そこに立っていたのは旭の両親だった。
「お父さん、お母さん」
「旭は展示には参加しないの? 折角お化け屋敷なんだからゾンビでも貞子でもやればいいじゃない」
 背筋がヒヤッとした。ゾンビだってバレてないよね。
 旭は誤魔化すように笑った。
「ええ、やだよ。ピンク髪の貞子なんか出たら興ざめじゃん」
「えー、普通に出なさいよ。晴日のとこは焼きそばやってたわよ、慣れない手付きでコテ使ってて笑ったわ」
「お母さんは子供を笑いに来たの?」
「概ねそうね」
「んー、じゃあ二時半以降に三年三組に来て。休憩時間だけ潜り込めないか頼んでみるから」
「楽しみにしてるよ」
「ありがと、お父さん」
「あっ、十一時からの劇見に行きましょ」
「そうしようか。じゃあ旭、またあとで」
「はーい、楽しんでね」
 通りすがりの副会長、生田が尋ねてきた。
「今のって旭会長の父さんと母さん?」
「そうだよ。お母さんなんか貞子でもやれば? って言ってきたよ︙︙ピンク髪の貞子が居てたまるかって話だよね」
「ある意味ウケるかもな」
「怖がらせるなら怖がらせる方向に全振りしなくちゃ。あーあ、休憩時間が無くなったわあ」
「無茶すんなよ、こないだ倒れたって前会長が話してるの聞いたぞ」
「あー大丈夫、あれ以来身体に負荷がかかり過ぎるようなことはしてない」
 心配掛けてごめんね、と謝ると生田は全くだ、と返した。
「お前のこと心配してるのは前会長だけじゃないからな。俺とか、あと俺とか、――早見とか、秋田とかもみんな心配してる」
「そんなに頼りないかあ?」
「頼りがいがありすぎるから心配なんだよ」
「はは、ありがと」
「通じてんのか通じてないのか……」
 ため息をつく生田と別れ、休憩時間まで見回りを続ける。

 二時になり、腕章を外した旭は自分の教室に向かった。
「やってるかー?」
「旭! ゾンビ役やる気になったの?」
「なったよ」
「だよねー……え!? なったの?」
「今から三十分でメイクして。どこに出現するかはメイク中に打ち合わせよう」
「承知!」
「立看板に『美少女ゾンビが出るかも!?』ってコピー用紙に書いて付け足しておいて、わたしの休憩が終わる四時までの間だけ」
「自分で美少女言うのムカつくな。でもわかった、旭はこっちのカーテンの奥きて座って」
 言われるがままにカーテンの奥に座ると、そこは衣装替えスペースのようで、三年三組特殊メイク班の女子たちが待機していた。
「顔に縫い目模様描いていい?」
「いいよー」
「どこで出るかなんだけどさ、鬼火の演出の後にパリンッていう効果音を流すから、お客さんが振り返ったところを背後から近づいて、あーうー言ってくれたらそれでいいから」
「旭カーディガン脱いで、左袖だけ捲くって。縫い跡描くから」
 早見の言葉におとなしく従う。
「はーい」
 旭がメイクされながらもそもそ静夜のカーディガンを脱いでいると、メイク班の早見が言った。
「旭タイツも脱いで、確か左太ももに縫い跡の『メイク』あるでしょ」
「うえっあんたそれ言っちゃう!? てか友達の縫い跡把握してんの怖」
「普通友達に縫い目はないんだよな」
「えーん正論で殴るのやめて」
「旭顔動かさないで、そのきれいな顔を今めちゃくちゃにしてるんだから」
「進行形なの笑う」
「こんなにきれいなゾンビ、うちの会長くらいだろうなあ」
「旭、髪に血糊っぽいスプレーかけていい? お湯で落ちるやつ」
「いいよ、休憩上がったら三年三組の宣伝しつつ歩くから。カーディガンは着るけどね」
「助かる!」
「はいゾンビ旭の出来上がり!」
 タイツを脱ぐのを一旦やめて鏡を見ると、そこには顔の半面が焼けただれたようになっている自分が居た。
「くっそーこんなメイクしても可愛いの腹立つなー」
「ごめんね美少女で」
「さあスタンバって! 次のお客さんから行くよー」
「タイツまだ脱いでない、まって」
「早見、さっさと脱がせ」
 クラスメイトは非情である。
「ご無体な!」
 早見は旭のタイツを引き剥がし、無理やり立たせた。絶対パンツ見えてたでしょ今。
「立派なゾンビの出来上がり!」
 衣装スペースから出た旭は、パリンという効果音と同時に通路に姿を現した。裸足で、ゆっくり、ぺたぺたと、前を歩く人の後を追う。
「待、って、置い、て、行かない、で」
 右手を前に伸ばし、目を見開いてなるべく掠れた声でそう言うと、とんでもない悲鳴を上げてダッシュで客のカップルが逃げていった。
 暗幕の隙間から覗いた早見と目を合わせる。
「やりすぎた?」

 その後無事に父母も到来し、旭の出番は終了した。
「もうちょっとメイクナチュラルにしてもらえる?」
「そうだね、そのまま歩くと通報されちゃうかもね」
 もう一度メイク班のお世話になる。一旦メイク落としシートで焼けただれた部分をきれいにして、縫い目だけにする。
「はいさっきよりナチュラルなゾンビができあがり」
 左腕を接着して、静夜のカーディガンを羽織る。腕章をつけて、生徒会モードに切り替える。
「それじゃあ、これからも怪我のないように運営してね」
「はーい」
 それからは何事もなく一日目が終了した。
 午後五時に一日目終了のアナウンスが入る。
 午後六時に校内の見回りを手分けして行って、残っている生徒や父兄が居ないことを確認し、生徒会と実行委員も下校する。
 誰も居ない生徒会室で静夜を待つ間、ゾンビじゃなかったら告白の良いタイミングなのにな、と思いつつ、ゾンビじゃなかったら静夜とこんな特殊な関係になれなかっただろうなとも思う。
「遅くなりました」
「いえ、全然」
「じゃあ今日もしましょうか」
「よろしくお願いします」
 まるで当たり前になってしまったこの行為は旭を酔わせるには十分だった。アルコールが身体に回った人間はきっとこんな心持ちなのだろう。舌で人差し指を包み込むように舐める。吸う。恍惚。
 けれど、きっといつまでもこの関係を続けることはできないと思った。
 根拠はないが、不安が一滴静夜で満たされた心に落ちた。

 怒涛の二日間が終わり、後夜祭の運営を実行委員に任せて旭は中庭で一息ついていた。結局二日目もゾンビをやる羽目になり、大変だったのだ。
「疲れたあ」
「こんなところに居たんですか、三峰さん」
「静夜さん!?」
 完全に気を抜いていたので驚いてしまった。
「後夜祭には参加しないんですか?」
「そうですねえ、したかったんですけど少し疲れたので」
 こうして中庭にも響く後夜祭の音を聞いているだけで十分です、と答えると、静夜は頷いた。
「そうですね、ここにいるのも悪くないですね」
 悪くない。
 遠い喧騒も好きな人といれば悪くない。
 旭はそう思ってしまうが、静夜はどうなんだろう。
「静夜さん」
 旭はぽつりと口に出した。
「文化祭の代休の日、海に行くの、デートだと思っていいですか」
 旭は静夜を見ていなかったが、静夜は旭のことを振り返ったようだった。
「三峰さん」
「はい」
 静夜はまた視線を遠くに向けた。旭は静夜の横顔を向いた。
 彼がこっちを向いていないことが今はとても悲しかった。それは彼の心がこちらを向いていないことに等しく思えたからだ。
「物事には事実とそれを観測する観測者が居るのはわかりますね?」
「はい、わかります」
 答えに察しがついた。これ以上はオーバーキルだから聞きたくないような気がした。
「僕と三峰さんが海に一緒に行くのは事実です。それを三峰さんという観測者がデートだと思っていようが思っていまいが僕にとってはどうでもいいし、関係のないことです。ですが、僕という観測者はデートだとは思っていません」
「そうですか」
 どうでもいいし関係がない、という言葉がぐっさりと脳天を貫いた。
 どうでもいいのか。
 ああ、困ったな。
 困らせたくなっちゃった。
 今ならいいや。
 死んだっていいや。
「静夜さん」
「はい?」
「わたしは、おそらく、あなたのことが好きです」
 静夜はこちらを振り向いた。
 静夜と旭の視線が交錯する。
「それは、」
 静夜が口を開いた。
「それは、困りましたね」
 案の定困っている先輩に、わたしはへらりと笑ってみせた。
「わたしも困っています」
 死んでもいいや。
 今ここで死んであなたの心にわたしを刻むことができたなら。
 呪いのような浅ましさで旭は告げた。
「好きすぎて困っています。ただ、あなたの生活に介入してあなたの邪魔になりたいとは思っていません。読書の邪魔とか勉強の邪魔になるようなことはしたくないです」
 嘘つき、忘れられたくなんか無いくせに。常に心に刻んでおいて痛みがじくじくと疼き続けばいいと思ってるくせに。
 一転、まるで憎しみのような気持ちを抱いた。
 わたしに恋してわたしを殺してしまえばいい。
「それについては問題はありませんね。僕は四六時中本を読んだり勉強をしたりしているわけではないし、どちらかと言えばぼうっとしている時間の方が多いので」
「それなら良かったです。そしてこれも多分おそらくの形になるのですが、わたしはこれからもずっと静夜さんのことが好きだと思います。だから、先輩がどう思っているか聞かせてください」
 旭も静夜も人間や未来といったものに期待や信頼を抱いていなかったので、言い回しはどちらも迂遠であった。
「僕は、――僕は、きっとあなたと同じ感情を持っていないと思います。だから交際することはできません。それに、人の気持ちはうつろいゆくものです」
 その言葉に先程の憎しみにも似た激情は鳴りを潜め、違う旭が顔を出していた。
 人の気持ちはうつろいゆくもの? そんな理由で人を遠ざけているのじゃあ、あなたは誰のことも愛せないままじゃないか。誰からの愛も受け取ることができないじゃあないか。
 それはなんて寂しい生き方だろう。
 一人で生きていきたいとそう願っているのか。
 まるでカムパネルラのいないジョバンニだ。心の奥底では誰か<カムパネルラ>を求めているのに気づいていない孤独なジョバンニ。勉学だけが彼に寄り添って。
 ああ、だったらわたしはこの人の誰かになりたい。先にわたしがバラけて死んでしまったとしても、静夜さんが死ぬ間際に思い出してくれるような、そんな存在になりたい。旭は紛うことなくエゴイストだった。
「というか、僕なんかを好きにならせてしまって申し訳ないですね。取り柄と言えば勉強が少しできるくらいで、悪いところがたくさんあるのに。足も遅いし逆上がりはできないし泳げもしないし食べ物の好き嫌いは多いし」
 静夜がつらつらと述べるそれらは旭にとっては愛しいところでしかなかった。
「それに、人間は変化する生き物ですから、僕がずっと僕のままであるとは限りません。数年後は大学も辞めてお金がなくなって物乞いになっているかもしれない。だから三峰さんがそうやって、何年も後のことを自分の言葉で縛り付けてはいけないと思います。それに僕は何年も先も三峰さんが僕のことを好きだとは思っていません」
 一生好きだよ。出遭っちゃったんだもん。
「その点に関しては理解しているつもりです。人生は非連続的だし、わたしが静夜さんのことを好きなのはこの刹那だけの話だということもわかっています。けれど、その刹那が偶然連続しているからこそわたしは貴方に恋をしている状態にあるのです。そのため、わたしやあるいは静夜さんが変化することによってこの恋愛感情が失われることも想定内です。ですが、わたしは静夜さんに余程ひどいことをされない限り貴方のことを嫌いになる事はないと思います。それだけ貴方は魅力的な人間ですよ」
「そうですか。これまで女性に好意を持たれたことがなかった上にひとには嫌われることの方が多かったので三峰さんはマジョリティではありませんね」
 旭は少し笑った。
「それは、周りに見る目がなかったのだと思います」
 振られたことはわかっていたので、旭はどこか穏やかな凪いだ気持ちで口を開いた。
 もう自分の生き死になどどうでもよいことだと感じていた。このひとが孤独にならないことが自分の至上の願いなのだと思った。
「海に行くの、楽しみですね」
「そうですね」
「くらげは浮いているかしら」
「もっと夏の終りの方でしょう、くらげが海に漂う時期は」
 今後旭と静夜の関係がどうなるのかはわからないけれど、海辺を二人で歩けたら、それはこの上ないなと旭は思った。
 それから二人は、後夜祭が終わるまで、ずっと中庭に居た。
 二人だけで、ずっと居た。

── 第7章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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