第七章 残照の海、旅立ちの朝
「潮結び」を終えてから健介が島を発つまでの間、三人は不思議なほど穏やかな日々を過ごした。
健介は工場に持っていく荷物を少しずつ整理しながら、暇を見つけては物置に顔を出し、私と里美の作業を手伝った。壊れたままだった物置の戸の蝶番を直したのも、この間のことだった。
「せめて、これぐらいはやっとかんとな」と、健介は照れくさそうに笑っていた。
里美は相変わらず、寡黙に麻縄の手入れを続けていた。ただ、以前よりも口数が増え、時折、健介の新生活について、あれこれと世話焼きな質問を投げかけるようになっていた。
「向こうの寮、洗濯機はあんの?」、「自炊はできるわけ?」――普段の彼女からは想像もつかないほど、細々とした心配ばかりだった。健介はその度に「わんは子どもじゃねえど」と苦笑しながら、まんざらでもない様子だった。
そうして迎えた、健介が島を発つ日の朝。昨日までの雨が嘘のように上がり、港には抜けるような青空が広がっていた。港の待合所には数人の老人が集まり、言葉少なに、手作りの黒糖菓子やバナナを健介の小さな段ボール箱に押し込んでいた。
一番高齢のハツおばあが、皺だらけの手で健介の背中を何度も摩り、「元気でな、元気でな」とだけ繰り返していた。健介は何度も小さく頷き、涙を堪えるようにして視線を地面に落としている。段ボール箱からは、里美が持たせた乾燥わかめの匂いが微かに漂っていた。
私は里美とともに少し離れた防波堤の影に立っていた。手には一冊の古い文庫本があった。祖父の遺品の中にあった、かつてこの島で言葉を紡いだ作家の小説だ。それを健介に手渡すつもりだった。
港の隅では、区長が、網元だった健介の父親の遺影を小さな祭壇に飾り、線香を上げていた。老人たちの誰もが多くを語らなかったが、その沈黙の中には、悲しみを日々の営みの一部として静かに引き受ける術が滲んでいた。
区長は線香を上げ終えると、健介の前まで歩み寄った。日に焼けた掌で、健介の頭を一度だけ、ぐいと撫でた。
「行ってこい」
たった一言だった。健介は何かを言おうとして、結局何も言えず、深く頭を下げただけだった。区長はそれ以上何も言わず、また堤防の先端へと戻っていった。
健介は港に係留された数隻の小舟を一艘ずつ見て回り、それぞれの舳先にそっと手を触れていった。子どもの頃、これらの舟で一緒に何度も漁の真似事をしたのを思い出す。
タラップの前まで来た健介の足がふと止まった。段ボール箱を抱えたまま、立ち尽くしている。
「一樹にい」
振り返った顔には、これまで見たことのない不安げな色が浮かんでいた。
「わん、本当に行っていいわけ。向こうで上手くやれるかも分からん。それに、わんがおらんくなったら、この島はどうなるんかいち、今さら怖くなってきたが」
段ボール箱を抱え直す健介の手に、迷いがはっきりと滲んでいた。言葉が喉の途中でつかえた。近寄り、健介の肩に手を置いた。指先が微かに震えていた。
「自信のなさも、丸ごと持っていけ。それも、お前よ」
差し出した文庫本を受け取る健介の顔を、まっすぐに見つめた。
「ありがとう、健介」
声は、自分でも驚くほど掠れていた。
健介は一瞬だけ目を見開いた。そして、子どものように顔を歪めて深く頷いた。里美が健介の前に立ち、彼の白いシャツの襟を優しく整えた。
「健介、向こうで辛くなったらさ、この海の冷たさば思い出しなよ」
「うん。……里美ねえも、一樹にいも、元気でよ」
健介がタラップに足をかけたとき、里美が不意に声を上げた。
「健介、待って」
数歩駆け寄り、周りの老人たちには聞こえないほどの小さな声で言った。
「うちもね、本当は、高校に上がる前、一度だけ、この島を出たいって本気で思ったことがあるのよ」
思わず一歩、彼女の方へ踏み出していた。里美がそんな告白をするのを初めて聞いた。
「でも今は、ここにおりたいと思っとる。だから健介、あんたが島を出るんは、なんも悪いことやない。うちの分まで、外の世界ば見てきてよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の底から力が抜けた。その安堵を、私はすぐに、島のためだと言い換えた。
里美の瞳から、何かが少しだけほどけたように見えた。
船が岸壁を離れ、白い泡を立てて外海へと向かうのを、ただ静かに見つめ続けた。健介の振る小さな手が、青い海と空の境界線の中でいつまでも揺れていた。やがて船影は水平
線の彼方へと溶け込み、そこにはどこまでも青い海だけが広がっていた。
「うちらはこれからどうする?」
里美の問いに、すぐには答えられなかった。波の音が耳の奥でうるさいほどに響いていた。眼鏡を外し、指先で目頭を軽く押さえる。
「まずは、網元の物置に戻りましょう。次の『潮結び』のために、新しい麻縄を編み始めなければなりません」
声には、島の風に酷似した泥臭い響きが混ざっていた。
「そうだね。でも一樹、うちがさっき言ったこと、あんまり大げさに考えんでね。今は、ちゃんとここにおりたいと思っとる。それだけは、本当だから」
「分かっていますよ」
港を離れる前に、もう一度だけ水平線を振り返った。健介を乗せた船はもうどこにも見えなかった。でも、彼が最後に振っていた小さな手の残像だけは、まぶたの裏にしばらく焼き付いていた。
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