第七話 初めてのこと
月曜日の朝、衆議院議員総選挙の投開票日の翌日。
私は、普段あまりつけないテレビをつけて、選挙の結果を聞いていた。
各党の獲得議席。各地域の選挙区の結果。コメンテーターの分析。
ヘッドラインの選挙結果報道がひと段落したところで、特定ツインの国民審査の結果が報じられた。
ニュースキャスターが、原稿を読み上げていた。
「特定ツインの廃止判定は制度発足以来初めての例となります。今後の手続きについて関係各所での協議が行われるとみられています」
稲本繁幸氏ツイン。享年九十。機械大手の創業者。経営哲学の著書は多数。いずれも長く読み継がれる経営書となっている。
終戦直後の東京で創業し、一代で巨大企業に育てた、戦後復興の象徴的存在。
その特定ツインの廃止票が、投票総数の過半数を超えた。
私は、テレビを消した。
雨が降るかもしれない。傘を持って、家を出た。
言語監査庁の自席に着いてすぐ、私はIDを入力する。
生体認証のサインが一瞬光り、自分の名前が表示される。
【水沢 琴:言語監査士Ⅲ類 登録番号 0000104】
橘さんが、私の姿を見てすぐに声をかけてきた。
「水沢さん、佐久間さんがお呼びです。一緒にいいですか」
佐久間さんは会議室の扉の前に立っていて、私たちの姿を見るとドアを開け、中へ通した。
ドアを閉めると佐久間さんは、椅子に座る前に言った。
「稲本繁幸氏の件、見たか」
「はい」
「廃止判定後の処理については、お前たちのチームが担当することになると思う」
「……はい」
佐久間さんは続けた。
「緊急の諮問会議が明後日に設定されている。それまでに、高技能調律士チームとしての見立てを出してくれ」
「見立て、というのは?」
橘さんが問うと、佐久間さんは声のトーンを落として言った。
「『摘出』についての議論は、聞いたことがあるな」
「はい。完全に廃止せずに、有害と考えられる応答のみを止める、という」
「そうだ。見立てというのはつまり、廃止すべきかどうか、『摘出』による対応が可能か、『摘出』するとしたらどんな選択肢が妥当か、という内容のことだ」
佐久間さんは私に書類を差し出した。
「お前が決めろ、と言いたいところだが、これは一人で判断することじゃない。チーム全員で、よく見てくれ」
佐久間さんは会議室を出ていった。
橘さんとブースに戻り、葉子さんと和泉さんに声をかけた。
私は佐久間さんの話の概要を説明し、まず稲本繁幸氏の情報を画面に映した。
一九一八年生まれ、二〇〇八年没。享年九十。機械大手の創業者。
戦時中は海軍の技術系士官。終戦後、復員。焼け野原の東京で、事業を立ち上げた。四十代半ばで事業は急成長し、やがて日本を代表する巨大企業の一つとなった。
晩年、経営哲学を記した著作を多数出版。書籍の発行部数は累計五百万部を超えている。
そして言語監査庁発足時、特定ツインとして登録された。
書籍の記述や生前の議事録、インタビューや講演の記録などから彼のツインが構築され、運用が続けられてきた。
一般公開されたツインは死後数十年を過ぎてもなお、彼の哲学を学びたい経営者、彼の言葉を求める労働者、その思想に共感する人々……が問いを投げかけ、その言葉を得て実践する、そういう存在だった。
ところが、ここ最近、彼のツインへの問いかけの中に批判的なものが増えつつあった。
──あなたが残した代償を、私たちは支払っている
──あなたの偏った思想が、多くの人を不幸にしました
──あなたの言葉に触れた時、私の人生を壊したのはあなただと、確信しました
これらの批判に、ツインの応答は生前の彼の語り口そのままに、返されていた。
決して強く反論したりはしない。ただ穏やかに、しかし強く、返されていた。
続けて、現在の世論の状況を画面に表示する。
廃止判定に至るまで、稲本繁幸氏に対してどのような言説が形成されていたか。
メディア報道の要約。特集記事。SNSで語られた言葉の集計。識者の意見書。関連団体──過労死遺族の会、労働問題を扱う弁護士団体──からの声明。
「彼の言葉が、戦後日本の労働観に与えた影響は大きい」
「それは過労死ですらも美化する装置となった」
「まさに、ブラック企業の温床として機能した」
資料をひととおり見たあと、橘さんが呟いた。
「──なんか、引っかかりませんか」
「何が?」
私は橘さんに訊いた。
「うまく言えないんですけど、なんか、引っかかる」
「具体的には?」
「まだ、言葉にならないんですが……」
橘さんは、少し首を傾けて画面を見ていた。
しばらく、沈黙が続いた。
こんな大きな出来事の一方で、個人利用者からの申し立て案件は待ってくれない。
私たちはそれぞれの割り当て案件に対応してから、午後に改めて集まることにした。
──午後。
和泉さんが、データを分析した資料を用意してくれていた。
「廃止判定の票数を、分析しました」
資料が、次々に切り替わっていく。
「地域別では、都市部での廃止票が高い。年代別では、四十代から五十代が最も廃止票を投じている。性別では、女性の方が廃止票の比率がやや多い」
「次に、声の伝播パターンです」
「廃止運動の初動と思われるのは、ある労働問題研究者のSNS発信です。それが、過労死遺族の会、労働問題を扱う団体、特定のジャーナリスト、複数のテレビ番組へと、半年ほどの間に拡散しています。これは関係省庁で『摘出』の議論が始まった時期と一致しています。というよりも、この風潮を受けて議論を始めた、という順序だと思いますが」
「また、これらのメディアへの接触度合いと、廃止票の分布の相関も明確です」
「これらは、廃止判定が長期的に形成された民意の集約というより、特定の意見の、短期間での過剰な増幅の結果だということを示唆しています」
「だから、即座に『廃止』に移るのではなく、特定ツインを維持しつつ『摘出』のアプローチを検討するのが妥当だ、というのが私の意見です。もちろん国民の声である廃止票が過半数あった、その事実は、尊重されるべきではありますが……」
「一方で、この一時的で偏向的な意見の伝播が廃止票増加の原因であるということ自体は、ツインを残す根拠になりません。まだ分析は途中なのですが、難題に挑む必要があります」
「難題?」
和泉さんは続けた。
「どのような処置が適切かを判断するには、彼のツインが存在することによって社会的に生み出された価値を、あるいは損失を、可視化することを試みなければならないと思います。経済的、心理的、文化的な、プラスとマイナスの影響を」
次に画面に映された資料は、複雑な表とグラフで、埋まっていた。
これは数値として見るのはあまり適切ではないかもしれないのですが、
と前置きして、和泉さんは続けた。
「まず経済的価値。例えば彼の著作の累計売上、関連企業への影響、彼の言葉に影響を受けたと考えられる企業の業績──これがプラス側。同時に、彼の労働観の影響から生じたと見られる過労死、メンタルヘルス問題による医療費、関連訴訟の損害賠償──これがマイナス側」
「次に心理的価値。彼の本に救われたという声、経営者などによる彼への敬意の表明、彼に共感する労働者の声──プラス側。同時に、彼の言葉に追い詰められたという声、彼の言葉の引用の、その圧力に苦しんだ人々──マイナス側」
「文化的価値。日本的経営文化への寄与、戦後復興の象徴としての価値──プラス側。同時に、時代遅れの労働観の固定化、新しい働き方への抵抗──マイナス側」
「……すごい」
私が思わず声を出すと、和泉さんは落ち着いた声で言った。
「ただ、あくまでこれは、数値で示せる範囲の話です。プラスとマイナスは、差し引きできるものではありません。これらは別の質を持っていて、同じ尺度には、乗らない」
「それからもちろん、今を生きる人のためのツインである以上、ただ単にプラスとマイナスの総量を見るだけでなく、現代の価値観にウェイトを乗せる必要もあります」
「……そして最終的には、倫理観で判断するしかないと思います」
和泉さんは、画面を、消した。
葉子さんが続けた。
「私は、彼のツインに投げかけられた声を、別の角度から、読み直してみました」
「それで、思いました。非難の声の中に肯定が、肯定の声の中に批判が、滲んでいる場合があります。これは言葉に力があるから起こることだと、思います」
葉子さんは、一つのログを、画面に出した。
──あなたの言葉は、うちの社長には間違った形で伝わっていると思います
「これは一見批判のようですが、『言葉そのものが間違っているとは思っていない』ということでもあります」
葉子さんはまた別のログを見せた。
──あなたの言葉は、常に私の指針です。ですが、それが部下を追い詰めたのだと思います。
「これは、肯定的というか盲信的ですらあります。ただそれが、周りを、本人を、傷つけた」
葉子さんは画面を消した。
「稲本さんのツインの評価は、和泉さんのデータが示すとおり、一面から定められるものではないと思います。そういうものが多い」
──橘さんがここで口を開いた。
「葉子さん。和泉さん」
「あの違和感、わかった気がします」
「稲本氏のツインに対して論じられていること。それは彼の経営哲学や、その言葉と、構造が似ています」
私たち三人は黙って、橘さんを見た。
「彼は、関わる人、特にその従業員を、労働者を、一律に引き上げようとした。言い換えると──均そうとした。高い志を持って、誠実に働き努力する。そういう社会的に『望ましい』労働者に。いま、その言葉の暴力的な面が取り上げられ、批判されている」
「僕たちはいま、稲本氏のツインを均すことを議論しています。彼の発言を現在の感覚に合わせる。社会的に『望ましくない』部分を取り除く。つまり、均そうとしているんです」
そう言うと、橘さんはもう一言、付け加えた。
「これは、書類に書くような話ではないと思います。でも、諮問会議の場で一言、添えたいと思います」
翌日の打ち合わせの開始時間を決め、私たちは持ち場に戻った。
夜、私は稲本繁幸氏のツインのログをもう一度読み返していた。
すると彼の発言の中で、ある単語が繰り返し使われていることに気がついた。
それは、「志」だった。
──若いうちに、高い志を持たないといけません
──志のある社員を、私は大切にしてきました
──志を共にする人と働けることは、幸せなことです
──志半ばで仲間が倒れたこともありました
──不可能を可能にするのは、志の力に他なりません
「志」がない人は、外に追いやられる。
「志」があれば、努力できる。「志」があれば、苦難に耐えられる。「志」があれば、報われる。
「志」がない人は、そうではない。と、彼の言葉は語っている。
「志」。一見、肯定的な言葉だ。だが、それを持たない人を蔑み、追い込む。そういう重力がある。
──私は考えた。「志」という言葉。それを中心とした応答経路を、稲本氏のツインから完全に消す。
そのとき、代わりにツインが何を返してくるかは未知数だ。
勘でしかない。だが、それで彼の発言の加害性が大幅に薄まり、一方で彼の積み上げた哲学が大きく崩れることもないはずだ、という確信に近い感覚がある。
私は、静かにそう思った。
長い一日を終え、家に着いた。深夜のテレビニュースを点けると、見知った顔の映像が目に入った。──それは、槙野さんだった。公開運用課の担当官として会見を開き、稲本氏ツインの今後の扱いについての質疑に答えている。その映像を見ながら、私は自分にできることが何かを考えた。
──翌日私たちは、深夜まで打ち合わせを続けた。
私は「志」を摘出する案について話した。三人から、強い確信や承認は得られなかった。
だが、誰も反対しなかった。
──そしてその翌日。緊急諮問会議が本庁の会議室で開かれた。
出席者は、上層部代表として調律部門の部門長、政策企画課長。倫理監査部から鷹野さん。公開運用課から槙野さん。
調律専門部署の代表として佐久間さんと橘さん。私は専門書記官として出席した。
私の役割は、議事の自動ログが正常に機能しているかを専門分野の知見から監視することだ。発言は原則行わない。
調律部門の部門長が、議事進行役として最初に話した。
「初めての廃止判定です。手続きをこれから決めていきます。今日は、技術側の見立てを聞かせていただきます」
佐久間さんが、橘さんに目を送った。
橘さんは立ち上がり、資料を読み上げ始めた。
高技能調律士チームの見立て──稲本氏ツインの廃止判定は偏った世論の急激な増幅によって起こったことであり、即座の廃止については再考の必要がある。時代性を考慮しても、稲本氏ツインには社会的に大きなプラスの影響があるとデータが語っている。稲本氏ツインの言葉にはたしかに加害性の側面がある。しかしそれはそのプラスの影響の、別の側面である。そして、加害性のある言葉については、ツインから特定の語彙を「摘出」することによって抑えられる可能性が高い──それらのことを丁寧に、読み上げた。
橘さんの報告の後、部門長から質疑があった。
「特定の語彙というのは、一つの単語、という意味ですか?」
「はい。一つあるいはその周辺のわずかな種類の単語のことを指します。特定の価値観に関する語彙をいくつも削れば、本人性が大きく損なわれます。一つに絞ることで本人性を保ちながら、一方で加害性を大幅に削れる可能性が高いです。稲本氏ツインのログを分析し、そういう単語がある、と判断しています。その単語の『摘出』を想定しています」
「その単語とは?」
「それは……調律部門の技術的倫理の観点から議事に残すことができませんので、発言は控えます。それを言って記録に残すことは、特定の言葉に対する国家の検閲と解釈されかねません。実際は、稲本氏ツインに限った特定の例ではありますが、曲解される危惧があります。したがって、発言を控えさせていただきます」
「わかりました、ではその部分は追って別の形で報告してください」
槙野さんが、ここで手を挙げた。
「公開運用課から、一つ提案があります」
全員の視線が、槙野さんに集まった。
「現行制度では廃止判定が出た場合、廃止か、摘出か、それ以外の選択肢がありません。第三の選択肢として、公開範囲の制限を検討できないでしょうか」
「公開範囲の制限」
「ツインの本体には手を入れず、公開範囲を特定の研究者や教育機関に限定し、一般の公開を停止する。これは、廃止でも摘出でもない、第三の道です」
その言葉に、部門長が答えた。
「現行の特定ツインの制度設計では、故人ツインの商品化防止倫理規定によって、その選択肢は考えられません」
「ええ、そのとおりです。ただ、今後の検討課題としての提起をさせてください」
「わかりました。議事録に、提案として残します」
槙野さんは頷いて、座った。
続いて鷹野さんが、書類を見ながら言った。
「倫理監査部から、一点、意見があります」
「お願いします」
「今回の摘出という手続きの倫理的妥当性については、監査の枠を超えた議論が必要だと判断します。報告書にもその旨を明記します」
「監査の枠を超えた議論、ですか」
「はい。これは、一機関の倫理監査では判定できない種類の手続きです。社会的、歴史的、哲学的な議論が、別途必要です」
部門長は、しばらく、黙っていた。
「記録します」
最後に、橘さんが立ち上がって言った。
「一点、補足します。書類には含めていませんが、お伝えしておきたいことがあります」
「どうぞ」
「私たちがこれから行う『摘出』という手続きは、稲本氏が生前、従業員、あるいはこの国の労働者全般に対して意図していたと思われる動きと、構造的に共通する側面があります」
会議室が、一瞬、静まった。
「彼は、従業員を特定の労働観に均そうとしました。私たちはいま、彼のツインを、現在の社会の感覚に均そうとしています。両者の動きは対象と方向が違いますが、構造として共通しています」
橘さんは続けた。
「私たちは、これからその動きを引き受けます。引き受けますが、それがどういう構造の動きであるか認識した上で、引き受けます。書類に書くことではありません。ただ、口頭で、お伝えしておきます」
部門長はペンを置き、橘さんをしばらく見ていた。
「ご意見、議事録に残します」
最終的に、結論が下された。
稲本繁幸氏ツインに対し、特定の語彙の摘出を行う。摘出後の廃止猶予期間として、六ヶ月間ツインを継続運用する。その期間の応答ログを評価し、廃止または継続を再判定する。
私は書記として、議事録を確定させた。
翌週、私は自席で稲本繁幸氏ツインの摘出作業にあたった。
日常の業務と同じように、自分の机で補助ツールを操作した。
「志」に関わる生成経路を、画面に表示した。
彼のツインの中で「志」という単語は、無数の経路の中心をなしていた。
私はその経路を選択し、削除ボタンを押した。
経路が、ゆっくりと細くなっていく。
「志」を中心にして、放射状に伸びていた経路網が、徐々に別の形に再構成されていく。
──完了。
確認のため、ツインを呼び出した。
「稲本さん」
「はい」
「いま、若い人に伝えたいことは何ですか」
彼はしばらく間を置いた。
「自分にできることを、誠実に続けてほしいと思います」
声は、生前の彼の声だった。
だが、いつもの、「志」が、なかった。
「人生において最も大切なものは何だと思いますか」
「身近な人を、大切にすることです。仕事は大切です。ですが、それだけではないと思います。身近な人を大切にするために、一生懸命仕事をする。そういう考え方が良いと思います」
これも、彼が生前言いそうな種類の言葉だ。
だが、以前の重力はない。そう感じた。
私はもう一つ、問いを置いた。
「若くして亡くなった社員のことを、どう思いますか」
彼はまた、間を置いた。
「とても辛いことでした。すべて、私の責任です」
これも彼が生前言いそうな言葉だ。だが、同じ態度を求められるような、そういう緊張は走らなかった。
──失われた「志」を、別の言葉が、やわらかく埋めた。
報告書を起票する。
摘出作業の記録、廃止猶予期間の運用予定、ツインの再応答テストの結果。
数日後、稲本繁幸氏ツインの摘出と猶予期間の判断がメディアで報じられた。賛否はあったが、多くは好意的だった。
「過激な廃止ではなく、慎重な処理を選んだ」「制度の柔軟性が示された」と。
一部の記事は別の見方をしていた。
「制度は本人性を編集する権力を自ら確認した」
「これは先例となる。次はどこまで編集されるのか」
帰りの電車の中で、私は橘さんの言葉を思い出していた。
彼が、従業員にしようとしていたこと。
私たちが彼にしたこと。
両者の共通する構造。
私は何をしたのか。
彼のツインから、「志」を消した。
それは、彼の労働観の刃の鋭さを削るためだった。
だが、「志」が、彼だけの刃だったとは限らない。
私が自分の仕事に、「志」を持っていなかったか。
言語監査庁の制度に、「志」はないのか。
社会が私たちに、何かを均すことを求めていないか。
そういう問いが、消えなかった。
家に帰って台所の窓を開けた。
夜の風が、入ってきた。
冷蔵庫を開けて、何を作るか考える。
「初めてのこと」と、ニュースキャスターは言った。
これから、初めてではなくなる。
私が残した議事録が、これからの基準になる。
私は少しのあいだ、そのことを考えた。
──そして、考えるのをやめた。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。