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Win〜彗星は南から

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117,786 字

地方競馬ファンタジー家族ドラマ

"南国の風が運ぶ、魂の継承と家族の絆。彗星は、希望を乗せて南から来る。"

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第6話 最悪な勝利

 羽田空港に降り立った広美が到着ロビーを出ると、そこには笑顔で手を振る上崎の姿があった。

「お疲れ様。大変だったね」

「ありがとうございます」

 上崎は自然な手つきで、広美のトランクに手を伸ばした。

「妹さんの初勝利と、お父さんの危篤」
「天国から地獄みたいな経験だね」

「いえ、父のことは、もう縁を切ってますから」

 広美は淡々と答え、それから少しだけ表情を緩めた。

「妹は、すっかり大人になっていました」
「七年も会わなかったら、随分変わるものですね」

 上崎は口元を緩め、ふっと息をつく。

「そりゃあ、そうさ」
「妹さん、最後に会ったの、小学生だったんだろう?」

「それもそうですね」

「おいおい、今はお仕事モードは無しにしようや」

 広美は上崎の顔を見上げ、親しみを込めた微笑みを向けた。

「そうだね、ただいま」

「車、停めてあるから、一旦家に送るよ」
「荷物置いてから行こう」

 ふたりは並んで駐車場へ歩き出す。
 その手が、自然に重なった。

 だが、そのすぐそばのベンチには、新聞を広げたままスマートフォンを向ける男の姿があった。
 紙面の陰から、ふたりを盗み撮るように。

「調査対象者二人、そちらに向かった」
「行き先は、会話の内容から女の自宅だ、今から向かう」

「了解、今確認した」

 駐車場に停車している車の男が電話を切ると、その向かいの車の解錠を知らせるハザードランプが点灯し、上崎がトランクに広美の荷物を積み込む。
 その間に広美が助手席に乗り込んだ。
 やがて、上崎も運転席に乗り込み、二人はしばし目を合わせる。

「だ〜れが見てるかもわからないのに、まあ、楽な仕事で助かるわ」

 車の男が口角をあげる。
 上崎の車の中で、二人が唇を重ねた瞬間を逃さない。
 望遠レンズが二人を捉え、シャッター音が鳴り続けた。
 やがて、上崎の車が走り出すと、男が電話を始める。

「調査対象者、女の自宅に向かった」
「こちらも追跡する」

 数十分後、上崎の車が広美のアパートの近くにあるコインパーキングに止まる。
 広美は部屋の前で足を止め、上崎に向き直った。

「じゃあ、荷物置いてくるから待ってて」

「重いだろう? 持って行くよ」

「いいよ、すぐだから」

 すると上崎が、広美の髪をそっと撫で、そのまま顔を近づけた。

「いいだろう?しばらく会えなかったんだから、行く前にさ」

 広美は頬を染め、はにかむようにして小さくこぼす。

「もう……」

 やがて二人は腕を組んで階段を上り、そのまま揃って部屋へと消えた。
 下では、二人の男が見上げながら言葉を交わす。

「出てくるまでの時間、ちゃんと記録しとけよ」

「はい、けど一ヶ月も要りますかね、この調査」

 その時、上崎の車の隣に、先ほど空港で向かい合っていた車が並んで停まった。

「どうだ?」

 車を降りた男が、二人に声をかける。

「お楽しみ中のようですよ」

「ほんと、楽な仕事だ」
「奥さんも充分満足してくれるだろうな」

 三人はもう一度、広美の部屋の扉を見上げた。

 一週間後、洋平の厩舎引継ぎの手続きが完了し、沖浜厩舎は武政厩舎へと名を変えた。
 調教師室の机に立った洋平が、少し照れたように頭をかく。

「まあ、おやっさんがやって来たように出来るかは解らんけんど」
「宜しゅう頼みます」

「宜しくお願いします、師匠」

 仁美が頭を下げると、洋平はすぐに手を振った。

「俺にはそれはえいよ」
「それより、仁美ちゃん」

「なんですか?」

「今週の日曜、ボップのデビューや」
「それでな、仁美ちゃん、乗ってくれんか?」

 仁美は目を丸くした。

「え? 私ですか? けんど、あんな凄い馬、瀧越さんが乗るべきやと思いますよ」

「マサはもう騎乗馬が決まっちゅうき」

 横から瀧越が肩をすくめる。

「オーナーさん直々のお達しやき」
「それに、仁美ちゃんとボップは息ぴったりやいか」

「けんど……」

 言いかけた仁美に、信吾が声を重ねた。

「俺も、仁美ちゃんとボップなら、やると思うで」

 洋平が頷く。

「そう言うことやき、頑張りや!」

 仁美は一瞬だけ言葉を失い、それから強く頷いた。

「はい!」

 その様子を見ていた瀧越が、不敵な笑みを浮かべた。

(まあ、俺は甘うないきよ)
(強い相手とやるがが、生きがいやきねゃ)

「ボップ、ボップ!」

 興奮したように、仁美が厩舎に飛び込んできた。
 そのままヘールボップに駆け寄る。
 頬は紅潮し、目は爛々と輝いていた。

(お、どういたがな?なんか良いことあったかや?)

 ヘールボップの中の万次郎も、仁美の嬉しそうな様子に、少しだけ心が弾む。

「あんた、日曜日デビュー決まったで!ほんでね」

 一度息を吸い込んで、胸を張る。

「私が乗ることになったがよ」

(洋平も思い切ったねゃ、そらぁ楽しみや)

「宜しゅうね。私が、勝たせちゃうきね」

(大きゅう出たねゃあ)

 その言葉に、万次郎の脳裏へ幼い仁美の記憶が蘇る。

 装蹄の作業を見守る車椅子の万次郎と洋平のもとへ、小学生の仁美が嬉しそうに駆け寄ってくる。

「お父ちゃん、お父ちゃん!」

「何な?」

「見て!硬筆が県展で入選したが!」  

 仁美は、興奮を隠しきれない様子で、賞状を掲げた。

「そうか……そら良かったな」

「凄いやか、仁美ちゃん」
「おやっさんも喜んじゃってくださいよ」

 満面の笑みで讃える洋平とは対照的に、万次郎は作業から目を離さない。

「お父、ちゃん?」

 万次郎は心底面倒そうに、仁美に言葉を向けた。

「くだらん」
「こっちはそれどころやないがぞ」

 意識は、ゆっくりと現代へ引き戻される。
 目の前には、無邪気にはしゃぎ、声を弾ませる仁美の姿があった。
 その笑顔を見つめながら、万次郎はしみじみと思う。

(あの時もきっと、こんな顔をして来たがやろうねゃあ)

「ボップ!頑張ろうね!一緒にね!」

 その声が、まっすぐ胸の奥へ届く。

 一方その頃、深層心理の中では、コメットハンターが静かに目を閉じていた。

「どうですか?しっかり父親としての心が戻って来ているのではありませんか?」

 返ってきたのは、やわらかい声だった。

(まだやね)
(やっと元の姿に戻りかけゆうところよえ)

 少しだけ懐かしむように続ける。

(本来は、優しいだけくらいの人やったきね)

 コメットハンターは、わずかに目を細めた。

「人間の親心とは、難しいものですね」
「私達サラブレッドは、父が子供に会うことすらありませんから」

(それに――)
(広美とも、仲直りしてもらわんとね)

「そちらも、先は長そうですね」

 コメットハンターは、そう静かに呟いた。
 ヘールボップの閉ざされた心の中。
 その闇の一角に灯った、小さな光。

 仁美の笑顔。

 それを見上げるように、コメットハンターは目を細めた。

 金曜の競馬ナイン編集部。
 広美はデスクで資料をまとめると、上崎の元へ向かった。

「上崎チーフ、それでは高知に行って来ます」

「ああ、行ってらっしゃい」
「気をつけてな」

「ヘールボップの高知デビュー」
「しっかり記事にしてきます」

「うん、頼むよ」

 広美は一歩近づき、少しだけ声を落とした。

「あと、チーフ」

「なんだい?」

「近いうちに、ご同行いただきたいです」

 そう言って、そっとメモを差し出す。
 上崎は受け取り、目を落とした。
 そこには、

 ――妹に、紹介したいから。

 と書かれていた。
 上崎は、その文字を見て、ふっと微笑む。

「ああ、必ず“近いうちに”」

 その言葉に、広美も小さく頷いた。
 やがて広美は編集部を後にする。
 ビルの外へ出るその背中を、ブラインド越しに見送る上崎。
 広美がタクシーを止めて乗り込むと、その瞬間上崎の表情が変わった。
 軽く舌打ちをする。

「面倒くさいこと言い出したな……」
「水商売上がりのくせに、人並みなこと夢見てんじゃねえよ」
「お前の“血”しか、興味ねえんだよ、こっちは」

 日曜日。
 いよいよ、ヘールボップのデビュー戦。
 仁美とヘールボップはスタート地点のゲートに収まっていた。
 周囲にはすっかり夜の帳が下り、ナイター照明がコースを照らしている。
 一方、広美は客席で、モニターに映るゲート前の映像を真剣な表情で見つめていた。
 そこへ洋平が近づき、声をかける。

「広美ちゃん、すまんかったねゃあ」
「信吾にゃあ、ちょっとばあ許いちゃれ、言うたがやけんど」

 苦笑を浮かべながら、続ける。

「仁美ちゃんとも、会うてないがやろう?」 

  広美は視線をモニターから外さないまま、小さく笑った。

「信吾くん、真面目ながですね?」
「私を見つけたら、真っ先に噛みついてくるし」
「あればあ目を光らせちょったら、洋平さんも安心やないですか?」

「まあ、あいつの良い所でもあるがは確かや」

 広美は、そこでようやく洋平を見上げた。

「仁美、勝てるでしょうか?」

 洋平は、迷いなく答えた。

「勝つねゃ」
「馬のエンジンが違い過ぎる」

 その言葉に、広美は再びコースへ視線を戻す。

「お客さんも、多いですね」
「やっぱり中央のGⅠ馬ですもねぇ」

「気負いすぎんかったら、えいがな」

 ナイターの光の中、ゲートに収まったヘールボップの馬体が、ひときわ青黒く浮かび上がっていた。

 ヘールボップの深層心理では、馬具を装着したコメットハンターと、勝負服に身を包んだ万次郎が向かい合っていた。

「またお前に乗れる日が来るらあて、思いもよらんかったぞ」

「ダービーを、思い出しますね」

「頼んだぞ」

 万次郎がコメットハンターに騎乗した、その瞬間。
 周囲に、この日のヘールボップの視界、競馬場の景色が一気に広がった。

「さあ、始まるぞ」
「わしと仁美で、夢の続きや」

 スターターが旗を振ると、ファンファーレが鳴り響いた。

『さあ、第8レースC3昇格戦』
『個人協賛レース、田澤幸弘ローストビーフ作りすぎた特別』

 客席でモニターを見ていた広美が、思わず吹き出す。

「なんちゅうレース名なが?」

「まあ、この南海競馬ならではや」

 洋平が苦笑する。

『田澤幸弘さん、島根県久羽乃町で、洋食レストランいずみ亭を営んでらっしゃいます』
『いつも二人の小学生のお嬢様が大好きなローストビーフを作りすぎて、奥様に叱られている』
『という微笑ましいエピソードが添えられていました』

『ローストビーフ、きっと美味しいんでしょうね』
『皆様も、久羽乃町にお出かけの際は、是非、いずみ亭様へお立ち寄りください』
『ご協賛、誠にありがとうございました』

 広美の表情が、わずかに変わる。

「二人のお嬢さん……か」

 洋平は何も言わず、ますます苦笑するしかなかった。

『このレース、なんといっても注目は緑の帽子』『中央のGⅠを制したヘールボップと、沖浜仁美』
『沖浜騎手も初勝利から五勝を挙げて勢いに乗っています』
『人気は断トツ、単勝1.3倍』

 ゲートの中で、仁美がそっと首筋を撫でる。

「行くで、あんたの力を見せちゃりよ」

 深層心理の中で、万次郎が笑う。

「やっちゃろうねゃ、ハンター、ボップ」

 合図の声とともに、ゲートが一斉に開いた。

 すると!
 なんとヘールボップだけが、スコーンと大きく出遅れた。

 『おおっと、ヘールボップ、かなりの出遅れ!』

「うそやろ?」

 広美が思わず声を上げる。
 洋平は額に手を当て、天を仰いだ。

「何ちゅうこっちゃ……」

 ゴール前付近で見ていた信吾も、頭を抱えている。
 瀧越が苦い顔でこぼした。

「気負いすぎたんかな?こらあ、今日は無理やねゃあ、ボップ」

 一方で、万次郎は落ち着いていた。

「おいおい、ハンター、どういたぜ?」

「申し訳ありません」
「ちゃんとしたレースは二十年振りなので、まだ感覚が……」

「たしかに、おまん、ゲートは得意やなかったねゃあ」

「面目ないです」

「まあ、レース終わったら特訓やねゃあ」
「取り敢えず追いつくぞ」
「尻尾掴んだら、ペース合わせたらえい」

「落ち着いてますね」

「ボップの脚は、“身をもって”知っちゅうきに」

 その頃、仁美は完全に取り乱しかけていた。
 懸命にペースを上げるヘールボップを、なだめようとしても言うことを聞かない。

「どういたが? ボップ、今、脚を使うたらいかんちや!」

 だが万次郎の声は、内側で真逆だった。

「今、使わいでどうすらあや!」

 前との差を見据える。

「ここのコースの短い直線やったら、この位置からは追い付かん!いかにボップの脚でも、ねゃ」

 客席の前を通り過ぎ、一コーナーを回ったところで、ヘールボップは集団に追いついた。

「よっしゃ、ここで一速落とすか」

「了解です」

 ふっとペースダウンしたヘールボップに、仁美が目を見開く。

「息を抜いた?アクシデント?」

 それでも脚色は鈍らない。
 するすると他馬を交わし、中団後方まで押し上げてきた。

『おっと、出遅れたヘールボップでしたが、ぐいぐいと押し上げてまいりました!』

 先頭を行く瀧越が、舌打ちをする。

「ちっ、バレたか」
「スローにして脚を溜めたら、あのボップの脚でも追いつけんと思うたが」
「仁美ちゃん、やるねゃあ」

「洋平さん、あれは暴走やないですか?」

 広美が思わず問う。
 洋平は時計に目を落としたまま、首を振る。

「いや、ペースは一旦、息を抜いて落ち着いちゅう」

 一度コースに目をやる。

「ギアを下げても速いがや、ボップは」
「元々、レースの流れはマサが作ったスローペースやったきねゃ」

 そして、小さく笑った。

「しかし、血は争えんねゃあ」

「どう言うことですか?」

「おやっさんが得意やった、ああいうレース」

 広美は何も言わなかった。 

『さあ、第三コーナー過ぎて第四コーナーに入りますが、ここでヘールボップ、三番手から四番手にまで上がりました』

 最終コーナーを回った瞬間、仁美が鞭を構えた。
 しかし。

「そんなもん……いるかあぁーーー!」

 ぐん、と加速する。
 瞬く間に、瀧越の馬を交わして先頭に立った。
 前で運んでいた瀧越が、思わず声を荒らげる。

「なんやと!?こっちも脚を溜めてきたがぞ!」

 ゴール前では、信吾が身を乗り出して叫んだ。

「行けーーーっ!ボップ!」

 その光景を見つめる広美の唇から、思わず妹の名がこぼれる。

「仁美……」

 洋平は、無言で口元を緩ませた。

(おやっさん、早う帰ってきてください)
(俺には、あれは荷が重すぎますき)

 場内アナウンスがさらに熱を帯びる。

『先頭はヘールボップ、後続をグングン引き離す』
『7馬身、8馬身、これは勝負あり、ヘールボップ、ヘールボップです』
『今、一着でゴールイン』

 客席は、大歓声に包まれた。
 広美は目を見開いたまま、妹から視線を外せない。
 洋平は満足げに笑い、何度も頷きながら拍手を送っている。
 瀧越が馬体を寄せ、仁美とヘールボップの横に並んだ。

「仁美ちゃん!やったねゃあ、すごかったで」

「ありがとう……ございます」

 だが、瀧越のねぎらいにも、仁美は上の空で、力なく返すだけだった。

「仁美ちゃん?」

 一方その頃、万次郎は深層心理の中で、静かに笑っていた。

「やったねゃあ」

「ええ、やりましたね」

 コメットハンターも、穏やかに応じる。

 やがて周囲は、再び暗黒へと戻っていく。
 しかし、その闇の中には、なおも残っていた。

 直線での加速。
 ゴールの瞬間。
 観客の大歓声。

 三つの景色が、確かな光となって浮かび上がる。
 コメットハンターは、それを見つめながら、優しく呟いた。

「息子よ、そんなに嬉しかったのか」
「久しぶりの勝利だもんな」
「おめでとう」

 その日の開催が終わり、厩舎へ戻る道中。
 仁美に引かれるヘールボップ。
 レースの余韻に浸る万次郎とは対照的に、仁美の表情は曇ったままだった。

(仁美、勝ったがやき、もうちょっと喜んだらどうなや?)

 返事はない。

(妙なやつやねゃあ?どっか、能が悪いんやろうか?)

 やがて厩舎に着き、仁美はヘールボップを馬房へ導き、柵を閉じた直後だった。
 仁美の体が小刻みに震え出し、ぼろぼろと、涙がこぼれ落ちていく。

(おい!仁美!どういた)

 仁美は涙を拭おうともせず、両の手を強く握りしめた。

「ボップ、ごめん……今日は、本当にごめん……ごめんなさい!」

(仁美……?)

「あんたは、賢いね」
「一人で、ペースも作って、自分で勝ったやか」

 言葉と一緒に、堪えていたものが崩れていく。

「私、何も出来んかった」
「何ちゃあしちゃれんかった」

(仁美……おんし……)

 その時、厩舎の入り口で足を止める影があった。
 広美だ。
 何も言わず、その様子を見つめている。

「私、何の役にも立たんかった」
「役立たずやった……」

 仁美はその場に崩れるように膝をつくと、両手も床に落ち、顔を伏せる。

「役立たずの騎手でごめん……ごめんなさい!」

 もう、止まらない。
 堰を切ったように、声を上げて泣き崩れた。

 広美の姿を見つけた信吾が、眉を吊り上げて近づいてくる。
 しかし広美は、口元に人差し指を立てると、そのまま厩舎の中をそっと指さした。
 怪訝な顔のまま信吾が覗き込む。

 そこには、うずくまって泣きじゃくる仁美の姿があった。

「仁美ちゃ……」

 思わず駆け寄ろうとした信吾の腕を、広美が掴む。
 振り向いた信吾と目を合わせると、広美はゆっくり首を横に振った。

 万次郎の胸に、仁美の泣き顔が次々と浮かぶ。

 赤ん坊の頃。
 保育園に入ってしばらく、毎日のように泣いていたと聞かされたこと。

 小学校の運動会。
 リレーで負けた夜、家で悔し泣きしていたこと。
 最後に浮かんだのは、明美が旅立ったあの日の泣き顔だった。

(仁美……)
(お前は、お前は)
(わしの、娘や)

 その想いに呼ばれるように、ヘールボップがうずくまる仁美へ低く、ぶるるるるといなないた。

 仁美が、はっと顔を上げる。
 泣き腫らしたその顔に、無理やり笑顔を作った。
 立ち上がった仁美の頬を、ヘールボップが鼻面でそっと撫でる。
 涙を拭うように、やさしく。

「ボップ、あんたは、優しいね」
「本当に、優しい」

 仁美は自分の指で涙を拭った。
 それから、もう一度しっかり笑顔を作る。

「私、やるきね」
「立派な騎手になる!」

 一歩、ヘールボップに近づく。

「あんたがレースのこと、何も考えんでえいように!」
「ただ、前だけ見て走れるように!」

 仁美は、強く拳を握った。

「私、頑張るきよ!!」

── 第7章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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