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彗星群

79,975 字

すれ違いと再生の恋愛物語

"不器用な二つの星が、互いの光を見つけ、一つの軌跡を描く。"

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第5話 うん。知ってた ずっと知ってた.....

【閲覧注意】
胸が苦しくなる描写があります。
ご注意ください。

 バレンタインから数日が過ぎ、共同事業の案件が動き始め、田澤は銘治鉄工に定期的に出入りするようになった。

 打ち合わせを終え、廊下を曲がった瞬間だった。
 壁際に寄りかかるように立っていた三島が、話しかけてくる。

「やあ、田澤さん」

「三島主任、お世話になっております」

 三島は肩をすくめ、近づいてきた。

「田澤さん、あん時はありがとうね」
「おかげでヨリ、戻せたよ」

「ヨリを、戻した?」

「うん、バレンタインの夜」
「久しぶりだからお互い燃えあがっちゃった」

 田澤は言葉を失う。

「ああ、あんたに話したこと、あれ全部嘘だったの」
「あんたも間に受けて馬鹿正直に身を引いてくれて、ありがとね」

 ちがう、この男に言われて身を引いたわけではない。
 むしろ自分は、何も伝えてはいない。

「いま、あいつんちで、ラブラブに暮らしてます」
「あいつ、かなり泣いてたよ、かなりキツく突き放したの?」
「あんたも薄情だね、彼女信じられないなんてさ、ざまあみろ」

 田澤は三島の目をまっすぐ見る。

「彼女ではないですよ」

「は?」

「告白も何もしてなかったし、ただの友達でしたから、私たちは」

 三島の顔が歪んだ。

「何言っちゃってんの?」

 あの日告げたのは、応募の結果と、手渡した『彗星群』のファイル。
 そして、その中に綴った想いの丈。

(……届かなかったのか)

「あなたの元に行ったんなら、それは、彼女があなたを選んだ、それだけです」
「大切にしてあげて下さい」

 それだけ言って踵を返すと、背中に声が刺さる。

「おい!」

 次の瞬間、肩を掴まれた。
 引き戻された。
 振り返るより早く、襟首を掴まれる。

「何余裕ぶってんの?人のもんにちょっかいかけやがって、身の程を知れ.....若造」

 田澤の目が、静かに細くなる。
 脳裏には、初めて出会った日の落胆して、悲嘆に暮れる志織の姿。
 橋の上で、三島との復縁を考えて、物憂げにする姿が思い出された。

(……それだけ、大切な人だったんだな、この人が)

 三島の手首を掴み、力を込める。
 指が食い込み、骨が軋む音がするようだった。

「痛え、痛えって」

 田澤の眉間に深い皺が刻まれる。
 簡単にその手を、襟首から引き剥がした。

(……こんな奴でも、君にとっては)

 睨みつけたまま、声を落とす。

「もう俺にかまうな」

 握る力が、さらに増す。

「もし、また絡んできたら」
「ぶち.....しばき回したるけえのぉ」

 手を離すと、三島は壁によろけて、ひざをつき、田澤は何も言わずに振り返ってその場を立ち去った。
 三島は手首を押さえて、冷や汗混じりにひとこと呟く。

「あいつ、何もんだ?」 
「……いい気になりやがって」 

 口元が歪む。

「……おしおきだな」

 立ち上がり、手首を振りながら、ほくそ笑んだ。

「てめえが、欲しくて欲しくてたまらない」
「……俺の、おもちゃによ」

 アパートの台所では、エプロン姿の志織が、手際よく調理をしていた。
 鍋の火加減を確認してから、まな板に向かう。
 玄関の鍵が回る音がした。
 彼女は、鍋の火を一旦止めて笑顔を作り、玄関に向かった。

「……おかえりなさい」

「ごめんね。ご飯まだ準備できてなくて、お風呂入ってきたら?」

 返事はない。
 険しい表情で三島が立っていた。
 しかし、内面では愉悦の感情に満ちていた。

(……田澤、てめえが何を言おうと、こいつは俺の手の中にいるんだ)
(何をするにも、俺の言いなりなんだよ)

 三島は不機嫌そうに口元を曲げる。

「え? なんでまだできてないの?」

 志織は真顔になって、言葉を選ぶ。

「仕事の方がちょっと押しちゃって、あなたの明日からの出張の準備もあったし」

「言い訳してんじゃねえよ!」

 怒鳴り声と同時に、髪の毛を掴まれて、壁に押しやられる。

「何? ちょっと痛いって」

「……座れよ」

 三島の圧に、その場に髪の毛を掴まれたまま、両膝をつく。

「お前さ、もうちょっと自分のやること、ちゃんとやれよ」
「むしろ、お前、何ができんの?」

 志織は、彼の言葉に奥歯を噛んだ。
 怒りではない、恐怖でもない。
 焦りだった。

(……私が選んだ人)
(あの人を諦めて、だから……)
(私に、一番必要なのは、この人)

 潤んだ目で三島を見上げる。

「……ごめんなさい」

「はあ?」

「これからは、ちゃんとやるから」
「許して下さい」

 三島は、見下ろしながらまた、蔑んだような笑みを浮かべた。
 髪の毛を掴んだ手は離さない。

「おいおい、わかってねえな」
「言葉で言ったって、仕方なくないか?」
「今のお前の口は、喋るためにあるんじゃねえだろう?」

 その言葉に頷いた志織は、手を振るわせながら、ベルトの金具に手をかける。
 三島はそれを、恍惚とした表情で、満足気に眺めていた。

 ――同じ頃。

 海ほたるの夜。
 吹き抜ける、冷たい風。

 田澤は駐車場の端に停めたスターレットにもたれ、煙草に火を点けた。

「お前にゃ、散々もうやめーや言われたなあ」
「三年は我慢しとったんど、もうええじゃろ?」

 東京湾の真ん中から、都内側の煌めく光の筋をぼんやり眺めていた。

「夢の国はあの辺か?お互い楽しかったのう」

 そこにいない誰かに語りかける。
 欄干に肘を預け、首から下げたチェーンに結ばれた小さな指輪を、転がすように眺めた。

「どうせ俺なんか、結局そういうことよな」
「なんもできん。なんも守れん」
「お前を、守れんかったようにのぉ」
「初めから、わかりきっとることやけえ」

 視線は、遠い眼下の波打ち際を凝視している。

「映画やったら、あの波音にまぎれて、声が聞こえたり、するんやけどのう」
「お前みたいな物好き、やっぱりおらんもんやのう......まあ、煮え切らん俺がいちばん悪いか」

 波打ち際を眺めた。
 テトラポッドが、指でつまめるくらいに小さく見えた。
 意識が段々と、吸い込まれそうになる。

「いっそ、お前んとこ、行こうかな」
「……嘘や。そんな度胸、ない」
「なあ」
「化けて出てきても、ええんど。化けて出てきてくれや.....」
「……由美加」
「由美加!」

 搾り出す様に発せられた声は、吹き荒ぶ潮風にかき消されて行った。 

 真っ暗だった周囲が、薄明かりでぼんやりと姿を表してきた。
 スターレットの車内で、田澤が跳ね起きる。

「やっべ!」

 時計は五時半。
 安堵のため息をこぼし、キーを回す。
 セルが空回りして、エンジンが咳ひとつしない。

「またやっちゃったよ」

 短い独り言で自分をなだめる。
 日除けを下ろした。
 そこには、あの日のプリクラが、まだ貼られたままだった。

 アパートの玄関で、志織は出張に向かう三島の背中を見守るように立っていた。

「昨日は、ごめんね。手荒な感じになっちゃって」
「ちょっと、いろいろ重なっちゃってね」

「大丈夫だよ」
「ストレスも溜まっちゃうよね」

 昨夜のやりとりが嘘のように、優しい声を出す三島に志織は穏やかな笑顔を向ける。

「うん、ほんとごめん」
「けど、志織と四日も会えないの、さびしいな」

「私もだよ、お仕事、頑張ってね」

 抱き寄せられて、額に軽いキスが落ちる。

「じゃ、行ってくる」

 三島が玄関を出た。
 扉が閉まると、何事もなかったみたいにバスルームへ向かった。
 すぐにシャワーの音が立ち上がり、慟哭が、遅れて響き始めた。 

 その夕方。
 志織は仕事帰り、人波に紛れながら、ふっと息を吐いた。

(しばらくご飯、用意しなくていいの、楽だなあ)
(里沙子誘って、飲みにでも行こうかな)

 携帯を取り出して、里沙子に電話をかける。 

「志織? 珍しいね」

「久しぶり、今夜、空いてる?」

「ごめん、最近、台蔵組さんとの共同事業で残業続きだからさ」

(台蔵組、田澤君の会社)

 その名が浮かび、一瞬だけ、電話を持つ手が緩む。

「……忙しいんだね、残念」

 里沙子は、そこで間を置かずに続けた。

「……でさ。誰かさんが、この忙しいのに、四日も有休取るからさ」
「あんた、復縁したんだって?」

「そうだよ」
「やっぱり出張じゃないんだね」

「なんで?よりによって」

 里沙子の声が低くなると、無理に明るい声を作って返す志織。

「一生懸命謝って来たから」
「つい、許しちゃった」

「会社じゃ、あんたが泣きついて来たって言ってるよ」

「……だろうね」

「それにさ、あの女とも切れてないよ」 
「今回の有休、丸かぶりだもん」

「……だよね」
「今頃どっか旅行でも行ってるんだろうなあ」

 目を閉じて、ふっとため息をこぼす。

「でも、いいの」

「志織……」

「だって、あの人と暮らしてるの、私だし」

「私が、あの人の一番だったら……いいの」

「あんた、何言ってるの?」

「三島さん、そろそろ将来のことも考えてくれないかな?」

「志織!」

「ほっといて!」

 沈黙する里沙子。 
 志織は、感情を押し込めるようにゆっくり言った。

「……もう、いいの……」

「……私には、あの人でいいの」

 通話を切ったあと、受信ボタンが点滅する。
 留守電が入ったことを知らせるランプ。

(……誰だろう?)
(三島さんかな?)

 親指が、ボタンを押すと、留守番電話サービスセンターに電話が繋がった。

「留守番電話に繋ぎます」

 無機質な案内のあと、聞き慣れた声が、耳の奥に落ちてきた。

「……田澤です」

 そこで、涙腺がいきなり壊れた。
 息を吸うのも遅れて、視界が滲む。

「三島さんと、復縁できたんだね」
「おめでとう」
「くれぐれも、幸せになってください」

「……好きでした」

 志織は口元を押さえる。

「もう一度聞く場合は……」

 震える指でもう一度再生する。

「……好きでした」

(うん、知ってた)

「……好きでした」

(ずっと知ってた)

「……好きでした」

(今更)

「……好きでした」

(今更だよ)

 志織は携帯を握りしめた。
 胸の奥が熱い。

(……会いたい)

 退勤時間にて、タイムカードを打刻する田澤の胸ポケットの携帯電話が振動する。

「もしもし、あの……多辺だけど」

 志織の声だった。
 どこか他人行儀な声。
 一瞬、言葉を失った。
 志織は淡々と続ける。

「ちゃんと会って話したい」
「今日、仕事終わるまで待てるから」
「ご飯、行ける?」

 断る理由はない。
 断ったら、たぶん一生後悔する。

「……うん、行こう」

 上着を羽織り、ビルを出る。
 歩く歩幅が、焦燥を乗せて徐々に広くなっていった。

 待ち合わせは、山手線が止まる駅前。
 雑誌のラック、切符売り場、紙の時刻表。
 帰宅ピークの時間帯、群衆が波になり、横切るのがやっとである。

 志織は、そこにいた。
 最後に会った、バレンタインの日と変わらない姿で、満面の笑みを浮かべている。
 しかし、それはどこか、無理に貼り付けているようにも、感じられた。

「久しぶり」
「元気だった?」

 田澤は頷くだけだった。
 言葉を探しても、うまく口に出せない。
 志織はそれでも笑顔を崩さない。

「行こ」

 田澤は黙って後に続く。
 以前のように、肩を並べることはない。
 胸の奥で、留守電に残した自分の言葉が繰り返された。

――好きでした。

 過去形の言葉。
 受け取る側にとっては、負担を強いるかもしれない言葉。
 しかし、伝えておきたかった言葉だった。
 届かないことは、わかっていたのに。
 志織の背中は、何も語らず、ただ淡々と前に進んでいた。

 店は、駅から少し歩いた繁華街の路地。
 小さな看板、店内の照明は落ち着いていて、背広の男も、買い物帰りの女も、誰もこちらを見ない。

 テーブルにつくと、志織はメニューを開いて田澤の方へ少し寄せた。

「何食べる?」

 その仕草が、いつものままだ。
 胸が痛い。
 注文を終えてグラスを取り、乾杯の音が小さく鳴った。
 しばらく無言が続き、ようやく志織が先に切り出した。

「彗星群、読んだよ」

「……うん」

「正直、すごいと思った」
「場面が浮かんだ」
「文字なのに、明かりとか匂いとか、ちゃんとある感じがして」

「……ありがとう」

「それだけなんだね」

 どこか虚ろな目で彼女を見つめるだけだった。
 あの日、初めて会った日、伸ばした手をするり、とかわされた時のあの目。

「今、どんな話を書いてるの?」

 田澤は、首を振る。

「……書くのは、やめたんだ」
「投稿も、持ち込みも」

 志織の眉が少し動く。

「なんで?」

「……何も思い浮かばない....」

「…それ以上は、言いたくない」

 指先が、一瞬止まった。

「どうして?」

「...」

 田澤は口をつぐみ、それ以上は言葉をかけることはなかった。

 料理が運ばれてきて、二人は食事を始めた。
 言葉はない。

「美味しいね」

 無理に明るく振る舞っても、田澤は苦笑して頷くだけだ。
 痺れを切らしたのか、志織がやっと本題に触れる。
 真剣な表情で。

「田澤くん」
「正直、あの留守電を聞くまで……全然、気づかなかった」
「あなたの気持ち」
「なんで、もっと早く言ってくれなかったの?」

 冷たい口調。
 そして敢えて嘘をついた。
 とっくに気付いていた田澤の気持ち。
 その嘘は田澤の自分への未練を断ち切らせる為の"優しい嘘"なのか、田澤の才能に怯えて逃避した、自分に対する"卑怯な嘘"なのか、志織本人にはわからない。
 田澤は目を伏せた。

「だから私、三島さんとヨリを戻したの」
「もう会えない、電話もしないでね」
「ごめんなさい」

 若干、怒りのこもったように告げた。

「ごめんね、気を使わせて」
「えっ?」

 優しい顔で呟く言葉に、予想していなかったものだったのか眉をひそめる。

「俺が、悪いんだ、全部」
「君を.....多辺さんを振り向かせられなかった」
「君に必要な存在になれなかった...」
「ただ、それだけのことだから」

 名前で呼ばれなかったことに、心が痛んだ。

「もう、名前で呼んでくれないの?」

「だって君は、大切な三島さんの所に戻れたんでしょう?」
「だったら、君の名前を呼ぶ権利は俺にはないから」

 田澤の言葉が心を締め付ける、敢えて厳しく突き放すことを考えた、それが二人にとって最良の事だと思っていた。
 しかし、あくまでも優しい言葉が、志織の心に傷を刻んでいく。

「なんで?私のことが憎いとか思わないわけ?」

「あなたを振り回して、こんなに冷たい態度で傷つけてるのに!」

「傷つくのは、全部俺が勝手に君を好きになったから、君のせいじゃないよ」
「俺なんかがそんな事を思ったって、迷惑なだけだって、わかってたんだ」
「ごめんね」

 志織は口を開いた。

「まだ言うの?あなたは」 
「……どうせ、それがあなたのいつもの手なんでしょう?」
「自分なんて、俺なんて……」
「そうやって、俺って可哀想アピールして同情させて」
「いろんな会社の受付の人に、連絡先渡して」
「いっぱい仲良くしてるんでしょう?」
「……最低よ」

 興奮気味に、捲し立てる志織に、やっと息を漏らして笑顔を作る。

「どう思ってくれても良い」
「実際最低だから、俺は」

「……認めるの?」

「誰も守れないし、誰にも必要とされない」
「三島さんみたいに、自信もなければ、自分から掴み取ろうとする、器量もない」
「だから、俺と言う人間も、その人生も、ちっぽけで、なんの価値も、ないんだよ」

(この人...)

 志織は、少しだけ目を細める。 
 責めるというより、確かめるみたいに。

「あなたは、自分のことが嫌いなんだね」

 肩がほんの少し固くなり、いつもより低く、重い声で伝えた。

「……嫌い?そんな生優しいものじゃない」

「言葉にするなら……憎悪だ」

「何があなたを、そうしたの?」

 田澤は、目を閉じて指先を微かに震わせる。

「……誰にも言わないと決めてるんだ」
「特に、もう二度と関わらない君に、話す必要はないから」
「……何より、自分が思いだしたくないんだ」

 自分が敢えて、冷たく突き放すつもりだった。

(二度と......関わらないって)

 自分への未練を持たないように。
 しかし、逆に田澤から発せられる言葉の方が、心を凍てつかせてゆく。
 志織はそれ以上は言葉が出せなかった。

「……そっか」

「じゃあ、さっき黙ってた、今書いてない理由、教えて?」

「言えない」

「なんで?」

「.....なんだか、君のせいにして、君に責任を押し付けるような言葉しか浮かばない」

「私のせいにしていいよ!だから聞かせてよ!」

 志織の叱責のような言葉に、重い口を開く。

「読んでほしいと思う人がいないから、その人がいないから、伝えたい言葉が出てこないんだ」

 あの時のセリフが浮かぶ、目の前の男の声になって自分を貫いた言葉が……

「じゃあ、あの、彗星群のセリフって、あのお父さんのセリフって、やっぱり、全部私に?」

「俺、自分の失敗や、冗談だとわかってても自分に、向けられた悪意とか、全部溜め込んじゃうたちなんだ」

「だから閉じ込めてる分、自分の思いを出すと、ついつい大袈裟になって」

 志織はもう限界だった。
 胸が張り裂ける、瞳からは涙がこぼれて頬を伝った。

「泣かせるつもりは、なかったんだけどなあ」

 顔を上げると、笑顔を作っていつものように励ます。

「君は、三島さんとヨリを戻せたんでしょう?よかったね」

「よかったって?」

「初めて電話をくれた時、すごい辛そうな声だったし、大事な人だったんだよね」
「幸せになってね」
「君が選んだことだから、間違いはないと、信じてるよ」

 その時一瞬、田澤が胸元に手を移し、シャツの下の何かを、優しく握る。

「もし、間違いだとしても.....君は、生きてるんだから.....何度もやり直しができるじゃないか」
「自分を憎む俺には、君を幸せにすることなんて、できないよ」

 いつも会うたびに励まして、背中を押してくれた田澤の言葉が志織の心を抉り続ける。
 もう直視できず顔を伏せた。

「もう、やめて」

「どうしたの?」

「私、気付いてた、田澤君の気持ち」
「ずっと待ってた」

「多辺さん.....」

「もう、待ちきれなくなった時、復縁を迫られたの」

「そう」

「その時に、あの彗星群を読んだの。最後のお父さんのセリフ、あなたの声になって聞こえた」

「...」

「怖くなったの、あなたが」

「あんな世界と、言葉を描ける人の未来を、私が台無しにするんじゃないかって、あなたの人生が、私みたいな人間と同じ価値なんて、あるはずないって」

「だから、彼のところに逃げちゃった」

「正直、私は映画のことも、脚本のこともよくわからない、だけど、あなたの才能は本物だと思うよ、だから、それだけは自信を持ってね」

「それは.....」

 間髪入れず志織が遮る。

「ダメよ、また俺なんかって言おうとしたでしょ?」

「いま、あなたの目の前にいるのは、汚くて、卑怯で、ズルくて、自分を持ち上げてくれるあなたを、振り回して、悦に入ってる女」

「あなたが、ずっと先を歩いてるのに気付いた途端、怖くて逃げだして、浮気ばっかりする彼氏にしがみついて、依存することしかできない、自分勝手で弱い女なの!」

「あなたに想われて、あなたの隣にいる資格なんて、これっぽっちもないんだから」
「もう...あなたが思ってる、あなたに見えていた私は...どこにも、いないの!いないんだよ.....」

「それは...」

「違わない!」

 声が震える。

「私は自分の事ばっかりで、あなたに何も、してあげられなかった」

「私は、まずあなたのその閉じた心を、開いてあげなきゃいけなかったんだね」

「ちゃんと自分と向き合えて、自分を好きになれるように」

「ごめんなさい」

「結局私は、あなたの心に傷を作っちゃって」

 田澤は奥歯を噛み締めて、左右に首を振る。
 いつもの穏やかな口調。

「感謝してるよ」
「楽しい思い出を、たくさん作れた。」

 あくまで自分が負った傷を言葉に出さない。

「ほんとに、優しい人、いい人だ」
「でもその優しさは、あなた自身にも向けてあげてね」
「そしたら、あなたは自分のことが、好きになれると思う」
「その時、自分が好きだと思う人がいたら、すぐに伝えてあげてね、その人はきっと、待ってるから」

 田澤は無言で頷き、グラスのビールを飲み干して言葉を発する。

「今まで、ありがとう。本当に楽しかった」

「私も楽しかった、あと、お願いがあるの」

「何?」

「書くのはやめないで」

「それは.....」

「書くの!」
「いつか、田澤君の書いた映画を見るの、楽しみにしてるから」

 ため息をこぼして、田澤は強く頷いた。

「うん、頑張ってみるよ」

「約束、してね」

 田澤の目が揺れた。
 揺れたまま、頷く。

「……ありがとう」

 志織は、最後の最後に、言い足したくて仕方ない言葉を出した。
 傷つけるためじゃない。
 本当は逆だ、だから余計に痛い。

「あなたは、絶対に、幸せになってね」
「私じゃない......」

 その瞬間、志織の瞳から、大粒の涙が溢れた。
 もう言葉にならない。
 言葉が詰まり、静かな空気が流れる。
 そして搾り出すように、か細い声で告げた。

「私じゃない.....誰かと.....」

 田澤は、ただ黙って見つめるだけだった。

 店を出る。
 ネオンが煌めき、ピークを過ぎたとはいえ、群衆の声は賑やかだった。

 志織が告げる。

「じゃあ、ここで」

「送っていくよ」

「いいよ」

「……送らせて、下さい」

 無理に笑顔を作り、田澤の言葉を噛み締めるように頷いた。

「……はい」

 肩を並べて歩く。
 地下鉄の入口が見えた。
 階段へ向かう人たち。
 切符を買う列。
 忙しない空気がそこにあった。

 改札の前で、二人は立ち止まる。
 人が流れていく中で、二人だけ時間が遅い。
 志織が田澤の顔を見上げた。

「いつもと反対だね」
「私が見送られるの」

「うん……そうだね」

 泣きそうなのを飲み込んで、笑顔を作る。
 しかし、堪えきれなかった。
 涙が頬をつたい、声が震える。

「元気でね……ゆきひろくん」

 田澤が、目を見開いた。

「……え?」

 涙のまま、搾り出すようなか細い声で最後まで告げた。

「.....大好き.....だよ」

 そのまま歩みを進める。
 改札機の前で、いったん立ち止まった。
 振り返りたかった。 
 振り返ったら、そのまま田澤の胸に飛び込んでしまう。

 意を決して定期券を改札の投入口へ滑り込ませた。
 磁気のカードが機械に吸い込まれ、短い間ができる。
 ゲートが開き、少し遅れて、定期券が向こう側の取り出し口から吐き出された。

 志織はそれを取って、握りしめると、振り返らないまま、階段へ向かう。

 田澤は、その背中をずっと見送った。
 ホームへ降りる影が消えるまで。

 やがて、階下に消える姿を見送ったあと。
 自分の携帯の連絡先から"タベシオリ"の項目を、静かに削除したのだった。

── 第7章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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