第七章
1
「怪物がこちらに来ます!」
緊張した報告を聞き、根の国の主神である混沌の4大神の一柱・フォゴルをあがめる大神官アグンは口の端で小さく笑う。
手に持った錫杖を大きく上に上げ、高らかに宣言する。
「『羽ばたく船』を浮上させる。そして発掘した“法の溶解器”で怪物を倒すのだ!」
アグンが立っているのは根の国が誇る“魔法”の象徴たる「羽ばたく船」の甲板である。アグンの前には直属の上級神官数名を先頭に、魔法技術者達と、この船を操る魔術師、そして神官戦士達が規則正しく整列している。
「勝利を我が神に! フォゴルに栄光あれ!」
「フォゴルに栄光あれ!」
全員が唱和する。アグンの背に戦慄が走る。
船の側面から生えた3対の巨大な半透明の翼によって移動する羽ばたく船。帆を持たず、河川で使われる平船の形をしているこの乗り物は、船自身に封印された強大な風の精霊「竜巻の主」の魔法力で空中を移動する。この乗り物は“船”としては小型で、人員や物資を多くは運べないが、これを見る人々へ“魔法”の存在を強く印象づける。南の大陸で発掘されて以来、大神官と直属の上級神官を運ぶ船として活躍している。
現在、羽ばたく船の甲板の前方に巨大な“機械”が設置されていた。細かいルーン文字が描き込まれた四角い箱の上に漏斗のように広がるパイプが前に伸びている。芦国の大湿原で発掘場所に大事故を起こさせた、亜人が使ったと思われるあの“箱”である。その能力からこの機械は「溶解器」と名付けられた。
上位精霊を扱う力を持った神官、20騎の黄金鳥と神官戦士、通常の戦闘では少数しか投入しない彼らをあえて集結させ、さらに羽ばたく船によって溶解器まで運ばせたのは、アグンが考えうる最大の“デモンストレーション”だった。溶解器のそばでの神託から2年、アグンはこのために準備をしてきた。
“悪魔を打ち倒す神軍”この場面を人々の記憶に刻み、そして大きく喧伝する。巨大な魔法力のぶつかり合いは百年の間吟遊詩人に語り継がれることになるだろう。神話世界を現代によみがえらせることこそ、アグンの目的だった。そのストーリーは人々を魅了し、瞬く間にこの世界に広がっていくに違いない。根の国のフォゴルの大神殿は世界の中心として文明世界にその名を轟かせることになる。
「根の国に行け」と、クレイとアルミスをおびき寄せる計画を考えたのもアグンである。フォゴル神殿と、アグンの力に対抗しようと画策する勢力に協力しているのがボドルフであることをアグンが知ったのはつい最近だ。アグンはボドルフの弱点である、彼の娘と弟子を捕らえ、人質にする作戦を立てた。しかし、クレイが呼び出した“あの存在”を眼にしたとき、アグンはかねてから待ちわびていた時が来たことを確信した。
溶解器を手に入れた時に現れた謎の青年が告げた「恐怖」、それは国王派のクーデターではなく、“魔法”を体現する邪悪な存在であることを直感したのだ。
宿場町でのクレイの怪物の姿も、部下の神官の目を通じてアグンは目撃していた。街のシンボルである巨木を燃やし天空に向かって叫ぶ怪物。上級神官でも扱える者の少ない地霊の主を2本の腕でつり上げ粉々にしてしまったあの怪物の力は、アグンの予想を超えていた。しかし、その強大さこそアグンが直々に魔法の軍勢を率い、倒すべき存在である事を証明していると、アグンには思えた。
“情報”の広がり方も今回の怪物で試したものだった。神官の間で使うことができる“遠話”の魔法を使い情報を与えさせ、さらに「ささやくもの」と名付けられた“夢魔”を使い、吟遊詩人など霊感の強い人々の精神に働きかける。彼らはうわさ話から伝わるわずかな情報で怪物の恐怖の物語を作り出し、広めた。今回の恐怖の伝播は、仕掛けたアグンですら驚くスピードと規模で広がった。
この「情報の伝わり方」もアグンの行動に自信を与えた。神人の存在がすでに伝説になって長い時が過ぎた。現在の人々の多くは、魔法生物や魔法の存在に触れることすらなく一生を終える。
「悪魔」が存在し、そして姿を現すという夢物語のような情報が、魔法の力を借りたとはいえ、これほど容易に広まるというのはアグンの予想を遙かに上回っていた。ここ数年、「魔法」への関心は、まさにアグンとフォゴルの神殿が人々に刻みつけていたものであった。周辺国もそれに呼応し神人達の遺跡の発掘が盛んになり始めている。
「神話時代の復活」は現在、根の国を中心とした“文明国”の人々が予感として持っていることを、アグンはこの遠征で知った。人々はかつての神人の様に魔法を使う人間の姿を認め始め、そしてより強大な存在に、恐怖を持ちながらも期待している。小さな噂が大きな時代のうねりに呼応していく。「時の力」ともいうべきものをアグンははっきりと感じていた。
バサリ。
船の両側面で半透明の翼がふるえ、海水を叩く。激しいしぶきを上げながら船が浮上する。大きな振動をアグンは船に掴まり、こらえる。しばらく激しい上下運動が続いてから船は家々の屋根を越え、およそ地上10メートルまで上昇する。
ブーン。
船の前方に設置した溶解器が身体を震わせ始動する。キリキリと音がして漏斗が前方に傾いていく。技師達の大きな声、甲板を歩き回る兵士達。
不意に背中の方から光が差す。アグンはゆっくりと振り返る。夜明けだ。水平線の向こうからまばゆい太陽が昇る。前方に視線を移すと、光が街を染めていくのがわかった。
アグンは錫杖を握りしめる。
この光景のように、自分の力で、この世界に“魔法文明の光”をもたらすのだ。
2
暁の光が周囲を染めていく中、黒い怪物の姿がはっきりと浮かび上がる。
「おお!」
アグンの口から思わず声が出る。
7メートルほど、大きな旅籠の屋根ほどの身長を持った巨大な怪物。いつもは大きく見える黄金鳥が、怪物の近くでは小鳥のようだ。翼を打ち振るい、空に浮かぶその怪物の姿は、妖魔や混沌生物など魔法の存在を見慣れたアグンにさえ恐怖をいだかせる強大な魔法の力を感じさせる。
時折、緑色の炎が怪物の口から放たれる。黄金鳥はかわしているが、統制の取れた神官戦士達の陣形にほころびが生じ始めていた。神官達の動きからは怪物への恐れが感じられる。当然だろう。“恐怖”の魔法のかかった兜で人を萎縮させ、空中から一方的に火炎槍の熱線を浴びせかけるのが神官戦士達の今までの戦いだった。しかしこの怪物は、人体にすら穴を空ける熱線すらほとんど効果がないのだ。
「ぎゃあああ!」
恐ろしい悲鳴が上がる。ついに一騎の黄金鳥が怪物に捕まったのだ。神官戦士はあわてて鞍と自分をつなぐ革ひもを断ち切り怪物から逃れようとするが、間に合わない。怪物の手が槍のように変化し、細かい装飾が施された神官戦士の鎧を貫く。苦悶の表情を浮かべた神官戦士の顔が徐々に黒くなっていき、死体が黒い霧状に変化すると、怪物の身体に飲み込まれる。
その光景は更なる動揺を神官戦士達の間に広げた。乗り手の不安を感じたのか、黄金鳥が大きな声を上げる。それは威嚇の叫びと言うより、悲鳴のようだ。
神官戦士のリーダーは隊列を維持しようと号令を出すため、空中で静止する。怪物はその隙を見逃さなかった。口を大きく上げ炎をはきかける。緑の炎に包まれて、リーダーは落下していく。
神官戦士達の包囲網は崩壊する。数騎の黄金鳥が離れ、他はただ怪物の周りを回っているだけだ。
「溶解器を使う、前方の怪物に照準を合わせて、すぐに発射しろ」
アグンはこちらを見つめる技師達に命令を発する。技師は頷き、機械を操作する。機械のうなりが大きくなり船全体が大きくふるえる。
大きく開いた漏斗の口から紫色の巨大な泡が生まれる。表面は水面に浮いた油のような7色の光がある。泡は直径4メートルほどまで大きくなった後、漏斗の口から離れ、ふわふわと怪物の方に移動する。
背後から迫ってくる泡を見て、神官戦士達はあわてて怪物から離れようとする。パニックに襲われた一騎の神官戦士は黄金鳥にうまく指示ができず、空中でもがく。紫の泡が迫る。
紫の泡が黄金鳥と神官戦士に触れる。悲鳴も上げずに一瞬で神官戦士と黄金鳥が溶ける。泡はそのまま怪物に迫る。怪物が翼を振るう。大きな風が巻き起こるが、泡の進路は全く変わらない。怪物は翼を止め落下し、ぎりぎりで泡をかわす。
泡はしばらく漂っていた後、いきなりはじける。紫の液体が地上に落ちる。
ジュウッ。
液体が建物を、地面を、そして地上の人々を溶かす。もうもうと上がる白煙。液体が落ちたところは石畳が溶け、地面がむき出しになる。縁の部分は石畳がぶくぶくと泡立ち、じゅうじゅうと音を立てている。怪物との戦いを見守っていたマナの町の人々は、船から離れようと悲鳴を上げて逃げまどう。
怪物が再び空に舞い上がる。そのスピードのまま船に迫り、炎を浴びせかける。
怪物が吐き出した炎は、船に触れる寸前に砕ける。はじかれた炎が、羽ばたく船の前面に張り巡らせた不可視の障壁をはっきりと浮かび上がらせる。船の舳先から前半分を覆う障壁が存在しているのだ。
甲板上の神官戦士達が火炎槍を片手に船の前面に集まる。一斉に火炎槍を怪物に向け熱線で怪物を貫く。怪物は怒りの叫び声を上げるがその熱線の圧力に船から離れる。
「2発目だ!」
アグンは叫ぶ。ほぼ同時に機械から泡が放たれた。
怪物は今度は泡を警戒し、大きく距離を取ろうとする。しかし、泡はその軌道を変え、怪物に近付いていく。泡に背を向け翼を振る怪物。しかし泡は怪物に追いつく。
「ギャアアアアア!」
怪物の口から今までとは違うはっきりとした悲鳴が上がる。右の翼が泡に触れ、どろりと溶けるのをアグンは見た。翼を失った怪物は家が密集した地上に落下する。怪物の悲鳴は止まらない。大きく苦悶の声を上げながら建物をつぶして転げ回る。
しばらくのたうち回っていた後、ゆっくりと怪物が立ち上がる。右の翼は今も白煙を吹き出していて、再生しない。
怪物は3つの赤い眼から吹きこぼれるような憎悪をたたえて船を見上げる。
「奴はすでに飛んで逃れることができない。とどめを!」
アグンの声に船が高度を下げる。漏斗の角度が下を向き、怪物を正面に捉えた。
3
今まで以上に大きな泡が地上の怪物に迫る。溶解液で作られた紫の泡は、高度を下げ、背の高い建物を溶かしながら怪物に迫る。
ジュウッ。
怪物と泡がぶつかる。白煙がもうもうと上がる。
甲板の上で神官達が歓声を上げる。
アグンは拳を握りしめる。
戦いの場から離れた町の人々がこの光景を見ている。物見高い者は屋根の上に上りこの戦いを見守っている。この戦いは、根の国、そしてフォゴルの威光を示す物語として吟遊詩人達に語り継がれることになるだろう。
突然、町で大きな悲鳴が上がる。
揺れている。アグンは、眼下の町が地震のように振動しているのを見る。
「なんだあれは!」
甲板上の神官が叫ぶ。
建物が、沈んでいく。背の高い2階建ての建物が地面に飲み込まれていく。建物の一階部分が完全に埋没した時、隣の平屋が沈み込んだ。そこから建物の埋没は加速していき、1つ、また1つと“道”を作っていく。その道はまっすぐ羽ばたく船へと伸びる。建物の陥没が羽ばたく船の真下に到達したとき、火山の噴火のように土砂が吹き上がった。
羽ばたく船に乗るすべての人間が、太陽の光を遮り、船に向かってまっすぐ降下してくる怪物の姿を見た。怪物は紫の泡が迫ってくる間に地面に潜り、地下を掘り進んで羽ばたく船に接近、そして船の前で大きく跳躍し、船の上に落下したのだ。
ドン。
怪物は船の上に降り立つ寸前、四肢を突っ張り、空中で何かにしがみついているような姿で停止する。羽ばたく船の不可視の障壁が怪物を阻んだのだ。
しかし、船の人々の安堵は一瞬だった。不可視のはずの障壁が怪物が触れた部分からどんどん黒い色に変わっている。障壁は瞬く間に黒く染まり、そして霧散した。
今度こそ怪物は船に着地する。その大きな衝撃に甲板上の人々は引き倒され、数人が恐ろしい悲鳴を上げながら地上に落下した。
怪物はメキメキと甲板を破壊しながら溶解器の傍らに移動する。その振動に船の人々は動くこともできない。
アグンは怪物が溶解器に腕を突き刺すのをはっきりと見た。自身の力の象徴である機械が無惨に破壊される様を。
怪物が腕を引き抜いた穴から、紫色の液体が噴き出した。その液体は瞬く間に船の縁を溶かし、範囲を広げていく。
船が苦痛に震えるのを、人々ははっきりと認識した。左前方の翼が力なく垂れ下がり、そして消滅する。船は大きく傾き、下降し始めた。神官達が傾いた甲板を滑り、悲鳴を上げながら落下していく。
「アグン様、こちらです!」
その声にアグンは我に返る。黄金鳥にまたがった神官戦士が手を差し出している。アグンは差し出された神官戦士の手を必死に握る。鞍の上に引っ張り上げられると同時に黄金鳥は羽ばたき、船から離れる。
黄金鳥は二人の人間の重みに抗議の叫びを上げ、よたよたと飛びながら地上を目指す。鞍の上で腹ばいになりながらアグンは羽ばたく船が白煙を上げ落下していくのを見る。
何が起きたのだ?
アグンの心には混乱だけが広がっている。“神託”に従って彼は軍隊を動かした。勝利により神の名は決定的なものになり、支配は永遠を約束されるのではなかったのか?
「ガアァァァァッッッ!」
落ちていく船の上で怪物が歓喜の叫び声を上げる。アグンは乗っている黄金鳥が恐怖で身体を大きく震わせるのを感じる。しびれるような“畏怖”の感情がアグンの心を覆っていく。なんと強く、美しい怪物。人が逆らうことを許さない、制御することもできない力の化身。“神”の名はあの怪物にこそふさわしい。
あの怪物こそ神なのだ。アグンはそれをはっきりと知る。
黄金鳥が地上に降り立つ。アグンはその場にへたり込む。立ち上がる気力はもう無かった。怪物は船の残骸の上で天に向かって大きく勝利の叫びを上げ続けていた。アグンは自分の身体が、自然な動きで怪物に向かって臣下の礼を取ろうとしていることを意識する。圧倒的に畏怖する存在を前にした時、人はその存在に向かって屈服の姿勢を取るしかない、と言うことをアグンは知った。
その時。
「クレイっ!」
怪物の叫びすらかき消す、朗々とした声が響いた。
怪物を見ていたすべての人がその声の主を捜す。
緩い弧を描く異国の大剣を持った大きな男が、立っていた。
怪物を見るバーノルの口には不敵な笑みが浮かんでいる。
クレイの怪物はバーノルの姿を認めると目を大きく見開き、地響きを上げながら彼に向かって突進していった。
4
走りながらクレイの怪物は叫び声を上げる。その声にこもった憎悪のすさまじさ。地響きを立てながら怪物はバーノルに迫る。
バーノルは刀を上段に構える。怪物がつきだしてきた腕を振り下ろした刀で、斬る。クレイの怪物の腕が真っ二つに裂ける。悲鳴を上げて手を引っ込める怪物。黒い霧が手の回りに渦巻くが、再生しない。翼もまた溶けたままだ。
バーノルの刀や、溶解器はかつて神人達と戦ったという“亜人”が仕えた「法の神」の魔法が生みだしたものだ。それは精霊の力や、通常の攻撃とは決定的に異なったダメージを混沌の生物に与える。混沌の神そのものの強さを獲得したクレイの怪物でも例外ではない。
怪物は獲物を狙う獣のように四つんばいになって姿勢を低くし、バーノルをにらむ。巨大な顔が正面からバーノルを見つめている。その大きさ、力強さ。バーノルは全身で怪物からの“圧力”に耐える。自分の何十倍もの大きさを持った怪物が攻撃する隙をうかがっている。
生き物の根源を揺さぶるような恐怖を感じながら、バーノルは興奮が背中を這い上ってくるのも感じていた。この巨大な怪物とどう戦う? 自分の身体を、刀をどう使う? クレイをこの怪物の呪縛から解き放ちたいと本気で思いつつも、強大な敵に自分の力がどこまで通じるか、試したいという気持ちも抑えることができない。バーノルは戦士だった。腹の底からわいてくる闘志が、バーノルの唇に微笑を浮かべさせている。
怪物が口を開け、断続的に炎を浴びせかける。バーノルは刀を掲げる。刀身に触れた炎が消滅する。
ドン。
大きな振動にバーノルの姿勢が乱れる。目の前の怪物が突然かき消える。次の瞬間、バーノルは自分の周囲が暗くなっていることに気がつく。躊躇せずに前方に身を投げ出す。バーノルを覆っていた影、地面を蹴って大きく飛び上がり、頭上からバーノルを襲おうとしていた怪物の攻撃は空を切る。着地の衝撃に四肢を大きくたわめていたクレイの怪物にバーノルは走りより刀を振り下ろす。怪物はかわしきれず肩を切りつけられる。
怒りの咆哮を上げる怪物。振り回す手の範囲から逃れ、バーノルは再び正眼に刀を構える。
怪物の胸の中央には丸いふくらみがあり、脈打っている。ちょうど人間が収まるくらいの大きさだ。あそこにクレイがいる。バーノルの直感がそう告げている。以前黒い宝石を壊したように、あのふくらみに傷を付ければ怪物の“変身”を解くことができるかもしれない。バーノルは親指の腹で軽く唇に触れる。口づけの時に感じたアルミスの震えを唇が覚えている。なんとしてでもクレイは助ける。バーノルは自分に強く言い聞かせる。
怪物は腕を振り回す。横から迫る腕をバーノルはとんぼを切ってかわし、反転して刀を突き出す。怪物は後ろに大きく飛びながら炎をはきかける。バーノルは炎を斬り、さらに怪物に迫る。怪物が手を伸ばす。バーノルはそこから逃れて腕に切りつける。浅い。怪物はさらに後ろに下がる。
怪物は再生しない自分の傷を見る。そして崩壊した建物に手を突っ込み、柱や扉の破片、道を造っている石、手当たり次第につかみ、バーノルに向かって投げる。大きな質量を持った物体が高速で飛んでくる。バーノルは刀で斬り、かわし、拳でたたき割って前進する。
怪物が再びつかみかかってくる。バーノルは敵の攻撃に合わせたタイミングで刀を振るう。刀を警戒するあまり、怪物の動きは萎縮している。それが怪物自身を苛立たせているようにバーノルには思える。縦に3つ並んだ怪物の赤い眼がぎらぎらと輝いてバーノルをにらんでいる。
そんなに俺が憎いか、クレイ。バーノルは心の中でその眼に語りかける。バーノルはクレイがアルミスに向ける想いの強さを知っていた。しかし、それでも自身のアルミスへの愛しさを止めることができなかった。アルミスが心をぶつけてきた瞬間、バーノルの心は彼女へまっすぐ、強く突き進んでいった。
クレイを怪物に変えたのは自分だ。怪物に刀を振るう度に、暗い衝動が自分を襲う。刃がクレイの怪物を傷つけるごとに愉悦が走る。自分の中にもこの怪物のような恐ろしく、邪悪で、ねじくれた心がある。アルミスを想うクレイを消し去りたいという心が。……だからこそ。
「正気に戻れ、クレイ!」
刃を叩きつける。闇に囚われ、暴走するクレイが哀れだった。誰でも恋には狂う。バーノル自身、クレイとのこの戦いがそうだ。一回りも年下の娘をさらに下の小僧と取り合っている。しかし、その感情を大人として割り切ることはできない。
刀を振るう度に恋敵を傷つける快感がある。自分の力を誇示する優越感がある。クレイを正気に戻そうと努力をするのは、バーノルのエゴだ。罪悪感を消すために戦っている。それでも、アルミスのため、クレイのために、バーノル自身のため、彼をこの暗い呪縛から解き放ってやりたかった。そしてバーノルができることと言えば、刀を振るうことしかない。
怪物の腕をかいくぐり横をすり抜けると、バーノルは怪物の足に向かって刀を振るう。怪物の膝裏に刃が深々と食い込み、そのまま片足が切断される。大きな地響きを立てながら怪物は仰向けに倒れる。怪物の身体の上に駆け上がり、つかみかかってくる腕を切断し、刀を胸の丸いふくらみに振り下ろそうとした時、怪物はもう一方の裂けたままの腕でバーノルを突き飛ばした。
吹っ飛ぶバーノル。崩れた建物に叩きつけられ、瓦礫に埋もれる。うなり声と共に破片を払いのけ、バーノルは立ち上がる。大きな地響きが地面を揺らす。バーノルは怪物が立ち上がろうともがいているのを見た。
四肢のほとんどを傷つけられた怪物は、それでも残った部分を動かして、バーノルに向かって這い進もうとしていた。眼は憎悪を込めてバーノルを睨み続けている。バーノルは刀を握り、下段に構える。
怪物に向かって走ろうとした瞬間、
「もう、やめてください!」
小柄な影がバーノルの行く手を塞ぐ。アルミスだ。怪物をかばうように手を広げバーノルの前に立つ。涙を流し肩を震わせている。
バーノルがアルミスをどけようとすると、アルミスはその手にすがりつき、頭を激しく振る。
「クレイはもう戦えません。もう、やめて、やめてください」
「胸の部分にクレイの身体はあるはずだ。この刀ならばあの黒い怪物からクレイを引きはがすことがきっとできる!」
アルミスは全身の力でバーノルの手にすがりつく。バーノルが正しいかもしれない、という心の声がする。しかし彼女は、バーノルの手を離さなかった。クレイが斬りつけられ、傷つくのを見るのはこれ以上耐えられなかった。たとえ怪物に姿を変えていても、それでも間違いなくあれは、クレイだった。理不尽な自分の心を止めることができない。
バーノルもまた、アルミスの心がわかった。力を込めれば払いのけられる彼女の身体を動かすことができなかった。
怪物の眼がぎらりと光った。怪物の背から6本の昆虫のような細い“脚”が生え、身体を持ち上げる。そのままその脚を動かし、一本の前足を振り上げ、信じがたいスピードでアルミスとバーノルに迫る。
針のようにとがった怪物の足が突き出された。バーノルはアルミスを突き飛ばした。
革鎧を貫いてバーノルの腹に怪物の前足が突き刺さる。
「うおおおっ!」
バーノルは叫び声を上げて怪物の脚を引き抜くと、そのままの勢いで怪物の胸のふくらみを一気に切り裂いた。怪物が悲鳴を上げて後ずさる。まっすぐ裂け目が入った胸からは黒い何かが見えるだけだった。
バーノルは膝をつく。貫かれた腹から血が噴き出し、あっという間に足下に血溜まりを作る。アルミスはバーノルに駆け寄る。バーノルの背中に手を当て、身体を支えながら怪物を見上げる。怒りと哀しみが叫びとなって迸る。
「クレイっ!」
怪物は腕を振り上げる。その胸の卵形のふくらみが激しく動いているのをアルミスは見た。アルミスは目を見開く。怪物の胸の中から何かが出ようとしている!
「やめろぉぉ!」
クレイの、叫び。
その声と共に怪物の胸がはじける。はじけた胸の中からクレイの上半身が現われた。腕やそれ以外の部分は黒い物質に覆われ、怪物の身体と融合している。クレイの黒い瞳がまっすぐにアルミスの緑の瞳を見る。クレイの目はアルミスと同じように涙に濡れていた。
「アル! バーノルさん!」
クレイの声には、悔恨がある。クレイが自分を取り戻したのだ。
「クレイ!」
アルミスはバーノルを見る。バーノルはゆっくりと頷く。アルミスは笑顔を浮かべ、頷き返した。
アルミスがクレイに眼を戻したとき、
白い光が、クレイの胸を貫いた。
5
アグンは自分が向けた火炎槍の穂先の先にあるクレイの肉の薄い胸に、穴が開くのをはっきりと見た。クレイが身体をのけぞらすのに合わせるかのように、怪物の身体が倒れていく。クレイの胸の穴から、血潮のように黒い霧が吹き出した。
アグンは自分が構えた火炎槍を見つめる。怪物の身体から現れた少年の胸を狙い、間違いなく引き金を引いた。しかし、クレイの胸を貫いたのは火炎槍からの熱線ではなく、天空からの白光だった。何が起きたのだ? 火炎槍を投げ捨て、アグンは呆然と周りを見回す。
アグンは遠巻きにしている人々がざわざわと騒ぎ始める声を聞く。
「なんだあれは?」
怪物の動きを遠巻きに見ていた者達が叫ぶ。アグンは自分の周囲が白い光に包まれていることを突然認識する。
その場にいた、すべての人が目撃した。
白く、まばゆく輝く、巨大な人物がアグンのすぐ後ろで実体化していく。それは、怪物が黒い霧を吐き出し、小さくなっていくのとほぼ同時に、その姿を鮮明にしていった。
アグンは光に包まれながら、空を見上げる。美しく、神秘的な、慈悲と英知に満ちた神の顔が、彼を見下ろしていた。
豊かなウエーブを描く金の髪。大人のたくましさを備えつつあるみずみずしくしなやかな筋肉、聡明な額、強い意志を感じさせる顎のライン、青春を謳歌する青年の肉体に、獅子と熊の毛皮を縫い合わせた衣装。胸に輝く混沌を現す八本の矢をかたどったペンダント。フォゴル神殿に必ず置かれている神の像、そのままの姿でありながら、どんな芸術家の絵筆でも描ききれない美しさを持った神が、人々の前に光に包まれて立っている。
今こそ叫ぶときだ。アグンはそれを確信する。
「フォゴルよ!」
その声は光を目撃したすべての人に響いた。アグンの叫びを聞いたとき、人々は稲妻に撃たれたように今起きていることをはっきりと認識した。フォゴルの力がアグンに宿り、怪物を打ち倒したのだ。怪物が倒れ、光り輝く神の姿が現れたこの現象こそ、それを証明している。人々は一斉に平伏する。
彼らは、この世界に実在する“神”を目撃したのだ。
アグンは胸に異常な熱さを感じる。
ドクン。
心臓とは別の何かが、胸で脈打つ。
法衣の下をのぞき込む。つややかな黒い宝石が、胸の皮膚と一体化し、輝いていた。
黒い宝石を発見した瞬間、そこからすさまじいエネルギーがなだれ込んできて、アグンは小さくうめき声を上げる。自分の身体が爆発するようなすさまじさだ。アグンは周りを見回し、そして知る。そのエネルギーを生んでいるのは、今、フォゴルの名を口々に唱える人々だ。
アグンは怪物を見る。今や怪物は支えていた6本の足もくずおれ、地に伏せようとしていた。フォゴルの姿はますますはっきりと、神々しくなって、その怪物を見下ろしている。
アグンは突然理解する。
この怪物と、今出現したフォゴルは同じものだ。この存在は最初に悪魔として姿を現し、そしてそれを倒す神としての姿を人々の前で強調した。これは、神自身が用意した“舞台劇”なのだ。この存在が神話の語る“フォゴル”なのかどうかは、わからない。しかしこの存在は怪物になり、ついでフォゴルの姿を借りることで、人々からより強くあがめられる存在となった。
この存在は人の思念を受けることでより強大になる。それは今、フォゴルという既存の神の名を使い、自分の力を使って奇跡を演出し、見事にフォゴル自身になったのだ。
アグンは自問する。何故そんなことがわかるのだろう? 胸の宝石が大きく脈打つ。アグンは空を見上げる。神がアグンを見つめている。
『お前は私の力の扉だ』
頭の中、いや、胸の中から声が響く。
アグンは怪物を見る。その胸に穴を空け、黒い霧を吹き出しながら小さくなっていくクレイの姿を見る。今や宿主は変わった。クレイと黒い怪物は消え、そして、アグンと、本当に存在する神の時代がやってくる。フォゴルに導かれた神官が、伝説の神人のように世界に君臨する。
この存在が真実はどんなものか、それはもう関係ない。現在、この存在は「フォゴル」になった。そしてアグンはその使者となった。今まで以上の超自然の力がアグンの傍らにある。地上に再び混沌の世界を! その想いはアグンと、胸の中の存在両方が持つ野望だった。
人々の歓喜と祈りの声が大きく、大きく世界を覆っていく。その思念を浴びながら、アグンは天に向かって両手を広げる。神の姿は人々の祈りを受け、よりまばゆく輝いた。
6
消えていく。
クレイは、自分のすべてが消滅していくのを全身で感じていた。胸に開いた傷口から黒い霧が吹き出し、怪物の身体を、クレイの身体を分解し、天に吹き上げていく。
クレイは、自分の意識が薄れていくのに合わせて光り輝いていく神の姿をぼんやりと見つめていた。クレイの役目は、終わったのだ。クレイはそれを、はっきりと知る。クレイに力を貸していた存在は、神自身となる。クレイは神の引き立て役として、悪魔と共に消え去る。
それで良い。薄れゆく意識の中で、クレイは思った。バーノルを傷つけてしまった。アルミスを絶望させてしまった。どうしてこのようになってしまったのだろう。バーノルと肩を並べるような力が欲しかった。アルミスを守りたかった。ただそれだけだったのに。
アルミスと、バーノルの口づけ。
力を得たはずなのに、アルミスはバーノルを選んだ。そしてクレイの力は彼自身にとっても最悪な方向に暴走した。
怪物の中で、クレイはその力を止めようと努力した。必死に抗い、力を押さえようとした。しかし、本当に、本気で、クレイは怪物の暴走を止められなかったのだろうか。建物を破壊し、人々の恐怖のエネルギーを集め、バーノルとアルミスを苦しめる。そこに“悦び”を本当に感じなかったのか? 怪物の心は、本当にクレイとは別だったのだろうか。クレイにはわからなかった。
血まみれのバーノルを抱き、クレイを見上げるアルミスの眼。クレイはその時、消え去りたいと、心の底から願ったのだ。
クレイは自分や民衆を見上げる神の意識が自分の心に入り込んでいるのを感じる。恐怖の思念、崇拝の思念が神に力を与えている。クレイもその思念と同じように、神の一部になるのだ。クレイは目を閉じ、その運命を受け入れる。
「クレイっ!」
アルミスは自分の出せる限りの声でクレイの名を呼ぶ。
クレイの姿が薄れていくのを見たとき、アルミスの中で何かが音を立てた。黒い霧を天空に吹き上げるクレイと怪物へアルミスは走る。怪物の身体に手を触れようと手を伸ばすと、そのまま怪物の身体に手がめり込む。アルミスの手には何の感触もない。黒い怪物の身体が薄れ、自分の手が透けて見える。
「クレイ、クレイ、クレイ、クレイ、クレイっ!」
アルミスは何度も、何度もクレイの名を呼ぶ。クレイがいなくなってしまう。クレイがいなくなってしまう。アルミスは身体ごと怪物の中に突っ込み、闇雲に手を振り回す。クレイはどこ? 視界が全くきかない。
泣きながら手を振り回す。クレイの身体を探す。
クレイが好きだったのだ、愛している。その時初めてアルミスは自分の本当の心に気付く。幼いころの草原で一緒に遊んだ記憶、共に机を並べて魔術を学んだ記憶、初めて精霊を使った日、夜が明けるのを心配しながら語り続けたあの日、大事なこと、つまらないこと、クレイとの記憶がぐるぐると回る。アルミスの心は真実をはっきりと見つけた。クレイを失いたくない。
「クレイっっ!」
薄れていくクレイの意識を、アルミスの叫び声がつなぎ止めた。消え去ろうとするクレイを自分の名を呼ぶ声、アルミスの声が引き留める。クレイはアルミスを感じる。アルミスの想いを感じる。愛している、愛している。なんと力強く、暖かい力だろう。アルミスの想い、クレイ自身の想い。消えたくない、アルミスと共にいたい。心の底から、クレイはアルミスを想う。
アルミスは怪物の身体の中で、再び全力でクレイの名を呼び手を掲げる。不意に、アルミスの指が何かに当たる。華奢で柔らかな皮膚の感触。アルミスはその感触を確かめるようにさらに手を伸ばす。くしゃくしゃの髪、痩せた胸、骨張ってきた肩、アルミスは確かに手のひらでクレイを感じる。心の底から歓喜がこみ上げる。
「クレイ、クレイっ!」
視界がきかないままで、アルミスは探し当てたクレイの身体に全身でしがみつく。
黒い霧が完全に消え去る。
そこには、裸のクレイをしっかりと抱きしめるアルミスの姿があった。
アルミスの手の中で、閉じられていたクレイの眼が薄く開く。自分を抱きしめるアルミスをゆっくりと見て、
「……アル」
震える声で、小さくささやく。
「クレイ!」
歓喜の声を上げ、アルミスは強くクレイを抱きしめる。
バーノルはそんな二人を見つめていた。傷口の血は止まらず、身体は力を失いつつあったが、胸には熱いものがこみ上げていた。何とかこの群衆から二人を逃がさなくてはいけない。刀を杖に震える脚に力を入れて立ち上がる。
バーノルの目が大きく見開かれた。神がかがみ込み、アルミスをつかもうとしている!
バーノルは必死に身体を前に出そうとする。血を失った身体はまるで水の中のように思い通りに動かない。神の巨大な手がアルミスを包み、天空に持ち去るのをバーノルは見た。
クレイはその場に倒れ、震える手を天空のアルミスに向かって伸ばしている。神のもう一方の手がクレイに向かって伸びる。間に合わない! バーノルがそう思った時、
「フォゴル様! アグン様!」
叫びを上げて、群衆の中の一人が大神官に向かって走り出した。
民衆の呪縛は解け、暴走が始まった。平伏していた人々は大神官に向けて走り出す。大神官を間近で見ようと一斉に前進を開始する。その群衆に押されてバーノルはクレイまでたどり着く。群衆に踏みつぶされないように全身でクレイをかばう。背中に次々と人がぶつかってくる。傷口からさらに血が流れる。
くずおれそうになった時、力強い手がバーノルを支えた。
「こっちだ」
その声に聞き覚えがある。
バーノルの腕をつかんだその男は、十数年前、彼と友を見送った根の国の魔導師、ボドルフだった。
7
アグンは何者かが群衆に紛れ、バーノルとクレイを運び去っていくのを見た。
バサリ。
巨大な羽音と共に、アグンを守るために黄金鳥にまたがった神官戦士が群衆とアグンの間に降り立った。神官戦士に止められた群衆は再び平伏し、口々に神をたたえる。
神はかがみ込み、手の中のアルミスを地上に横たえる。アルミスは気絶している。
アグンは目の端でアルミスを捕らえる。
アグンの脳裏には、あの時のクレイとアルミスの姿が焼き付いていた。
クレイは、完全に消え去るはずだった。宿主はクレイからアグンに移動したことで、クレイの役目は終わった。クレイは神と共に、アグンと一体化し、その身体と意識は完全に消去されるはずだった。それがどうして止まったのか、アグンにはわからなかった。
神はその答えをアグンには明らかにしなかった。クレイは逃してしまったが、このボドルフの娘が何かの秘密を握っているのは間違いない。アグンはそれを確信していた。
その秘密を解き明かさなくてはならない。もしアグンが神の宿主である資格を失った時のために、解き明かさなくてはならない。魔術師であり、大神官であるアグンだからこそ、魔法そのものとも思えるこの存在への恐れは、大きかった。
もちろん、恐怖と共に、大きな愉悦もある。魔法とは何なのか、力とは何なのか、アグンの中にある神は、その鍵を握っている。権力にとりつかれてはいても、アグンもまた、探求者であり、神秘に挑戦する者であった。
群衆が神の名を口々にたたえる。アグンは両手を大きく天に伸ばす。
「悪魔は去った、フォゴルに栄光あれ!」
群衆の声がさらに大きくフォゴルと、アグンの名を呼ぶ。
神の姿はゆっくりと薄れ、消え去る。群衆の神をたたえる声はいつまでもやまなかった。
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