第八譚「晩霽と明星」
雲生たちの手入れを待つ間、再び遠征部隊を編成して向かわせたり、一週間分の内番の予定を立てたりなどの審神者としての仕事を全うした。相変わらず歌仙には迷惑をかけてしまうが、部屋から出て一人で動き回るよりも効率がいいし、何よりこれも彼の仕事の内だと思う事にしている。
元気な短刀たちとも遊んでやりたい気持ちはあるが、もう少し自分と向き合う時間が欲しかった。
そして翌日、四振りは修復が終わり、またいつもの通り過ごしてもらっていた。
御影は緊張していた。自分から意思を伝えるのはどうしても苦手だった。拒絶されることはないかもしれない、それでも何故だか体が強ばり、喉が締まって呼吸が浅くなる。正直、食事もする気になれない。
いつ言いに行こうか。
歌仙には一度話していた。勇気を持った一歩だったが、歌仙はすんなりと「その方がいい」と微笑んだ。
「それなら早い方が良いだろう。手入れが終わったら部屋へ来る様に伝えようか?」
それには応じなかった。「大丈夫」と断りを入れ、今に至る。
どうしたものか、と栞を眺めながら考えていると、足音が近づいてくる気配がした。
歌仙かと思ったが違う。雲生、だろうか。
「主」
やはり雲生だった。
「……どうしたの?」
そう声を掛けると、一瞬の静寂が流れた。
「入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
遠慮がちにかけられた言葉に頷くと、静かに戸が開いた。
何の用事だろう、とぼんやりとこちらに歩いてくる雲生を眺めていると、姿勢を正し、両膝をついて座った。
「主。その……」
言い淀む雲生を見て、「あ、言わなきゃ」とやっと頭が動いた。
「雲生、僕も言いたい事があったんだ」
緊張して声が上ずり、胸の奥がざわめく。言うべき瞬間を誤ったのでは、と冷や汗が背を伝った。
雲生ははっとして顔を上げ、目を見据えてきた。
「あ、えっと」
「構いません。何でも仰ってください」
真っ直ぐに目を見つめ、依然として美しい姿勢を保つ雲生とは対照的に、御影は少し縮こまっていた。
ただ一言言えば済む話だ、それなのに何故躊躇してしまうのだろう。
強くなりたい、そう願ったのは本心からのはずだ。
少し呼吸を整え、意を決して言った。
「雲生、あの……近侍に、なってほしい」
顔が熱くなるのを感じる。まともに雲生の顔を見れず、視線を逸らしてしまう。
雲生はふっと笑って、
「仰せのままに。この雲生、誠心誠意努めさせていただきます」
そうはっきりと言い、頭を下げた。
「その、私も実はそれについて話そうかと思っていたんです」と言って雲生は頭を上げた。
「え?」
「雲次の言葉だけでなく、歌仙さんにも話して考えたんですが、やはり許されるならあなたの側で仕えたいと思ったんです。自分から“近侍になりたい”と申し出るのは、少し気が引けてしまって……ですが、主からそう言っていただけて、本当に嬉しいです」
雲生にとって素直な言葉なのだろうと思った。
――そうか、この人もそれを望んでいたのか。
独りよがりだと思っていた。素直に嬉しい、良かった、そんな感情が溢れ出てくる。
すっと体の緊張が解け、ふふっと笑みが溢れた。
「……主」
「じゃあ、これからよろしくね。歌仙には伝えてくる」
そう言って立ち上がり、駆け足で部屋から出た。
――主が笑った。
ふわりと桜が舞う春の日差しの様な優しい笑みだった。
思わず見惚れてしまった。これではいけない、気を引き締めなければ。
深呼吸をして自分も部屋を出ようと立ち上がる。ふと、机上に置かれた本が視界に映り、その開かれた本の上にある栞に目が行った。
万寿菊の栞とそれが挟まれた頁。本自体は手垢がついていたり少し依れていたりするがそれほど読み込んでいる本なのだろうと思えた。栞にもよく見ると指紋がついているのが見える。それだけ気に入ってもらえたのだろうか、と考える。
来たばかりで知らないことも多く残っているだろう。
焦らず、地道に知っていけば良い。
霽れた空の向こうにもまだ知らぬ景色がある。
近侍として付き従い、管制を担う者として彼らを導かなければならない。
この空の下、誰よりも正確に進路を示すのが、自分の役目だ。
空を目指して。
*
近侍となった雲生は、御影から頼まれた仕事を淡々とこなしていた。役職を持つ刀との連携、内番業務の調整、出陣の伝達など様々な雑務をこなした。
少しずつ歌仙が今まで見ていた景色や感じていた事が身に沁みて解る様になってきた。
主との距離感は思っていた以上に難しかった。こちらから何も言わなければ主はすぐに自分のケアを怠ってしまう。仕事や絵に集中すると気が付けば食事や睡眠、入浴や生理現象さえ自分で見落としてしまう様な人なのだ。だからこそ歌仙は率先して世話を焼いていたのかと納得した。
そうして一週間が経った。
朝起きると早速体を動かした後、身支度を済ませ、業務やスケジュールの確認をして審神者の部屋へ向かう。
「おはようございます、主」
失礼します、と扉を開けると、うーんと布団の中でもぞもぞと動く主に近づき、膝をついて布団越しに体に手を置いた。
「主、おはようございます」
「う、ん……んー」
「主?」
朝は冷えるとはいえ、七月中旬の暑さで布団に包まり続けるのは少々疑問に思う。
「主、体を壊してしまいます」
布団から出たく無いのか、呼びかけても頑なに出てくる気配がない。どうしたものか。
「……あまり強引な事はしたくありませんが」
少し力任せに布団を剥いだ。わっ、と主は小さく悲鳴をあげ、蹲った。
「主、大丈夫ですか?」
額にはじっとりと汗が滲み、顔色も優れない。手足はわずかに震え、見るからに悪い状態だ。
「今日は無理なさらず、休んでいてくださいね」
主の腹辺りに布団を再びかけてやり、痛々しく見える主の長い髪を掻き分けて耳にかけ、しっかりと顔を確認した。やはり顔色が悪く、呼吸も浅い。
「寒いのですか? 何か持ってきましょうか」
そう言って立ち上がろうとすると、弱々しい力で手を掴まれた。
「やだ」
まるで泣きそうな声色でぼそりと呟く主に胸が痛んだ。
「分かりました。ここを離れません、安心して眠ってください」
そう頷くと、主は嬉しそうに微笑み、再び目を閉じた。
しかし、このままではいけない。どうにか他の動ける人に伝えなければ看病する事もままならない。
主の手を握りしめ、どうしたものかと考えていると扉がすぱんっと勢いよく開いた。
「あるじさまー! いっしょにあさげをたべましょう!」
今剣が朝食に呼びに来たようで、元気よく中へ入ってきた。
「あれ、あるじさま?」
「申し訳ありませんが、主は体調を崩してしまった様で。誰か他の方を呼んで来ていただけないでしょうか」
「わかりました! すぐによんできます!」
驚いた今剣はすぐに踵を返し、走って部屋を出て行った。心配ではあるが、彼は自分よりもずっとこの本丸に長くいる刀だ。任せて問題はないだろう。だが今、自分がしてやれる事は無いだろうか。ただ手を握って側にいることだけで、本当にいいのだろうか。
「……いで」
ぎゅっと主の手を握っていると、主は何か譫言を言った。
「いか、ないで」
寂しそうな声色だった。頬には涙が伝い、まるで別れを惜しむかの様にも見える。
自分のことを呼んでいるのか、それとも夢の中の誰かに向けてなのか。けれど、その声があまりにも切実で、たまらず手を握り返し、「ここにいます」と呟いた。
すると、「大将が体調崩したって?」と言いながら薬研が部屋に入ってきた。
「私が居ながら申し訳ありません」
「仕方無ぇさ、たまにあるんだ」
そう言いながら病状を確認し、「熱があって、脱水もしてんな」と言うと手を止め、
「無理させなかったか?」
そう真剣に切り出した。
「いえ、無理はさせない様にと気を遣っていたつもりでしたが、配慮が足りていなかったのかもしれません」
「ま、自分から言わねえしな大将は。それに旦那が来てから一週間とちょっとってとこだ、まだ大将の事も分かりきっていないんだろう」
薬研は立ち上がると、「とりあえず薬と、経口補水液作って持ってくるから」と言い、部屋を出ようとした。
「あの、私はどうすれば」
何か自分もしてやらなければ、自分に出来る事を、と不安で焦る気持ちが薬研に伝わっているのか、「大将は寂しがりだから、側に居てやってくれ」と安心させる様に微笑んで言い、部屋を出て行った。
これでいい、そう思うと少しだけ心が軽くなった。
片手で手を握りつつ、もう片方の手で体を優しく撫でてやると先程よりも安心した顔をする様になった。まるで小さな子供みたいで、触れれば壊れてしまいそうなほど頼りなくて――けれど、こんなふうに誰かから頼られるのは久しぶりだった気がする。胸の奥がじんわりと温かくなる。
そうしていると再び薬研がやってきた。薬と経口補水液を持ってきて、治るまでは決まった時間に薬を飲ませ、定期的に水分補給をさせる様に雲生に言うとさっさと部屋から出て行った。
*
朝食の時間。食堂はすでに多くの刀たちで賑わっており、談笑や器の音が心地よく響いていた。
「主が倒れたの?」
今剣に呼ばれた薬研は、常備していた薬と材料で経口補水液を作り、それらを主に届けたあと、再び食堂へ戻ってきた。
「そう、雲生の旦那が付きっきりだったぜ」
安定の問いにやれやれと言うふうに答えつつ、席に座って途中だった食事を再開した。
「じゃあ雲生にもご飯持ってってあげないと」
少し心配した様子の加州がそう言うと、話を聞いていた雲次が「じゃあ僕が持っていこうか」と自身のお盆を持って立ち上がった。ちょうど食べ終えたところらしい。
「旦那、多分離れられないだろうな。大将に泣きつかれてよ」
「ぐずっちゃうもんねー」
「まあ仕方ないんじゃないかな。雲次、頼んだよ」
「任せて」
頷くとお盆を片付け、雲生の分の朝食を持って審神者の部屋へ向かった。
「雲生、朝食持ってきたよ」
声をかけ、部屋へ入る。もっと悲惨な事になっているかと思ったが、思ったよりも穏やかな空気が流れていた。
「ありがとうございます、雲次」
「ずっと手握ってるの?」
「不安になる様で……それに、離れるわけにもいきませんし」
「大変だね、まあご飯くらいちゃんと食べなよ。主は寝てるの?」
話しながら雲生の側にお盆を置き、主の顔をそっと覗き込む。先程まで手を握ってもらいつつ体を撫でられていたからか、とても穏やかな寝顔をしている。
「ぐっすりと眠っていますね」
「僕が代わりに手握ってあげれば良いかな? 雲生じゃないとだめとかないよね?」
「それは……分かりませんが」
不安なのか、逡巡するも雲生はゆっくりと手を離した。そのままお盆を持って少し距離を取って座り直した。
その間に雲次は雲生がしていたように主の手を握り、優しく体を撫でてやった。
「……大丈夫そうですね」
自分以外でもそうされる事自体が好きなのか、落ち着くのか、心地良さそうに眠る姿に少しだけ胸がざわついてしまう。そんな雲生とは裏腹に雲次は言う。
「そうだ、交代で看病しようよ。そしたら雲生は動けるでしょ? 仕事あるんだし。他の人たちにも伝えてさ」
「分かりました。皆に伝えてきます」
それが最善だろうと判断し、雲生は朝食を持って部屋を出た。
「……主、少しだけ我慢してね」
そう言って優しく頭を撫でてやった。
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。