第八章 結界の果てに
健介を乗せたフェリーが水平線の霞の中に消えてから、ひと月余りが過ぎた。物置へ行く前に、一人でゆっくりと集落を歩いた。廃校の校庭では、健介が刈った雑草が、早くも元の勢いを取り戻していた。誰もいない教室の窓越しに、埃をかぶったピアノがぼんやりと見えた。
郵便局の前を通りかかると、自動販売機が相変わらず低く唸っていた。手のひらを庇の下の機械に押し当てる。微かな熱が、確かにそこにあった。
かつては健介の荒い足音や、乱暴に漁具を放り出す音が響いていた網元の物置は、今や冷たい海風が通り抜けるだけの空洞となっていた。私は机に向かい、広げられた祖父の日記をじっと見つめた。迷いのない、端正な筆跡。その中に並ぶ「言葉を奪われることは、精神の占領を意味する」という一節が、西日に照らされている。祖父はこの言葉に、どんな思いを込めたのだろうか。確かめる術は、もうない。
ページをめくる指が、ふと止まった。一枚だけ、他とは筆致の違うページがあった。文字の線が乱れ、一部が滲んで薄くなっている。折り目正しかった文章が崩れ、行き場のない感情が切迫した言葉となって連なっていた。いつ書かれたものかは、もう分からない。ただ、あの祖父にも、正しい言葉が崩れ落ちる夜があったのだと、初めて知った。
その乱れた文字を見て、私はほんの少し安堵していた。悲しみよりも先に、そちらが来たことに、自分でも戸惑った。
万年筆を握りしめた。やがて、指先からゆっくりと力が抜け、それを机に置いた。木肌に吸い込まれるような、微かな乾いた音がした。眼鏡を外し、西日にかざしてみる。これもまた、祖父の形見だった。レンズの奥に、祖父の輪郭が重なって見えた気がした。しばらくそれを見つめたあと、眼鏡をもう一度かけ直した。
日記のページを繰っていく。祖父の几帳面な文字がびっしりと並ぶその先に、まだ何も記されていないページが、長い間ひっそりと残されていた。
万年筆を取り直し、ペン先をその白い紙に下ろす。しかしペン先は右へも下へも動かせなかった。ゆっくりと息を吐き出し、古びたノートの表紙をそっと撫でてから、静かに日記を閉じた。
祖父の万年筆を、そっと抽斗へとしまう。棚の隅に置いたままだった、一冊の真新しいノートを取り出した。まだ一文字も記されていない、ただの白いページの束を、祖父の日記の隣にそっと並べる。
その机の端に、数日前に届いたばかりの一枚の葉書が置かれていた。健介からだった。角ばった、お世辞にも綺麗とは言えない字で、工場の寮の様子や、初めての給料でラーメンを食べた話などが、短く綴られている。文末には、こう一行だけ添えられていた。「今度帰る時は、潮結びの日に合わせるから」
その葉書を、真新しいノートに、そっと挟んだ。
「一樹、まだそこにいるの」
里美が、冷たい水を入れた水筒を手に、物置の入り口から顔を覗かせた。
「ええ、もう終わりました」
私は静かに立ち上がり、物置の隅に積み上げられた新しい麻の束へと歩み寄った。
私たちは机に向かい合い、麻縄を編み続けた。指先を擦る乾いた音だけが、静かな物置に響く。
「ねえ、一樹」
里美が手を止めずに言った。
「結び方ば少し変えてみようかね。健介がおらんでも回せるように、もっと単純な結び目に」
思わず顔を上げた。里美の顔には、迷いも遠慮もなかった。
「いいですね」
短く答えると、彼女は満足そうに頷き、再び手元の縄に視線を戻した。
「それとね」
里美は縄を結ぶ手を止めずに続けた。
「次からは、区長にも見てもらおうと思っとるわけ。動けんでも、浜の端に椅子でも置いてさ。誰かが見とってくれるだけで、続けられる気がするが」
「いい考えです」
窓の外はいつの間にか西へ傾き、開け放した戸から差し込む残照が、机の上の真新しいノートを淡く染めていた。抽斗の奥から、自分用に買ったまま使わずにいた新しいペンを取り出す。ペン先を紙に近づけたところで、ふと手が止まった。私にはここに刻みつけるだけの言葉があるのだろうか――そんな思いが胸をよぎった。答えは出なかった。それでも、最初の一行を書いた。
書き終えて、ひと息つくため、少しだけ夕風に当たろうと物置を出た。頬を撫でる風には、どこか夜の冷たさが混じり始めている。
緩やかな坂を下り、郵便局の前を通りかかると、薄暗がりの中で自動販売機が、いつもと同じ低い唸りを上げていた。かつては、この音を島の心臓の音だと思っていた。
規則正しい機械の駆動音と、遠くで寄せては返す潮騒が、ゆっくりと重なり合っていく。私はしばらく立ち止まり、その低い唸りに耳を澄ませた。
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