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Win〜彗星は南から

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117,786 字

地方競馬ファンタジー家族ドラマ

"南国の風が運ぶ、魂の継承と家族の絆。彗星は、希望を乗せて南から来る。"

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第7話 スロウ・ア・シュウ

 初勝利を終えた二日後の昼下がり。
 装蹄師の松本が、ヘールボップの蹄鉄の交換をしていた。
 金槌が蹄鉄を打つ音が、厩舎に心地よく響いている。

「ほんまに、大人しい馬やねゃあ、洋ちゃん」

 手際よく後ろ脚の蹄鉄を打ち終え、松本はもう片方の脚を取る。

「蹄も綺麗や、歩き方と走り方の体重の乗せ方が上手いがやろう」

 洋平が、少し誇らしげに口元を緩めた。

「オーナーさんも言いよった」
「芝でしか走らいてなかったけど、ボップの走り方やったらダートも関係ないやろう、言うて」

 四肢すべての装蹄を終え、松本は屈んだ体を起こす。
 両手を上げて大きく伸びをし、腰を軽く二つ叩いた。
 それを見て、洋平が苦笑する。

「松ちゃん、年寄りくさいで」

「年寄りやき、仕方ないじゃか」

 松本も吹き出しながら返し、そのままヘールボップの首筋を撫でた。
 その二人の横で、ヘールボップ――いや、万次郎はしみじみと思案していた。

(爪に釘を打つらあて、かなり痛いんか思いよったが、何ちゃあ感じんもんながやねゃあ)

 ヘールボップはその場で、蹄鉄の感触を確かめるように、軽く前脚で地面を踏む。

 一つ。
 二つと。

「お気に召したかや? けんど、どんなに上手にやっても、外れる時は外れるき」
「その時ゃ、すまんぞ」

 松本がそう言った、その瞬間だった。
 万次郎の脳裏に、自分のものではない記憶が流れ込む。
 断片的な光景。
 芝生のコース。
 突然訪れた、足の裏の違和感。
 湿った芝の感触が、異様なほどに伝わってくる。
 一瞬の異変に、息が漏れる。
 その隙に、左右から他馬に交わされていく。
 三頭の馬が、自分の前で次々とゴール板を駆け抜けていった。

「何やってんだよ!」

「ぬるいレースしてんじゃねえよ!」

「今月どうやって生活しろ、って言うんだよ!」

「GⅠは、まぐれか? 馬鹿野郎!」

 人間たちの罵声が、幾重にも重なり、絶え間なく繰り返される。

(これが、お前が抱えちょったもんか?)

 万次郎がそう呟いた、その時。
 罵声に混じって、もう一つの声が聞こえた。

(……違う)

(誰な?)

(……違うんだ)

(まさか……?)

(僕のせいじゃない……)

(ボップ……?)

(僕のせいじゃ……)
(ないんだ――――!!)

 次の瞬間。
 ヘールボップが大きく嘶いた。
 そのまま前脚を上げ、激しく首を振って暴れ出す。
 慌てて洋平が手綱を引いた。

「こら!どういた、落ち着け!」

 ヘールボップはなおも暴れ続ける。
 落ち着かせようと、松本ももう片側の手綱を握った。

(いかん、体の自由が効かん)

(意識が、完全にボップのもんになっちゅうがか?)

 深層心理の中では、コメットハンターが落ち着いて、取り戻した景色を見つめていた。
 それらはノイズが走り、浮かんでは消えている。

「息子よ、堪えるんだ」
「それが、お前が越えるべき壁だ」

 誰もいない病室。
 万次郎の生命を表しているモニターの数値が、微妙に揺らいでいる。
 厩舎では、ヘールボップの混乱は止まらない。

(なんでだよ!)

 GⅠを勝った瞬間、客席から響くヘールボップコール。

(勝ったら、みんな喜んだのに)

 敗戦した時、脚を止めて振り返った客席からの罵声の嵐。

(なんで、そんなに、責めるんだよ)

 万次郎はただ、静かに耳を傾けていた。

「大丈夫、また次がんばろう」

 優しく首筋を撫でる感触。

(ゆたかさん、裕さんだって、本当は残念なんでしょ?)

 目線を送った騎手は、ただ優しく微笑んでいた。

(もう……嫌だーーー!!)

 ヘールボップは前脚を高く上げ、立ち上がる。
 深層心理の景色が暗く消えつつあり、コメットハンターが目を閉じてため息をついた、その瞬間だった。

「ボップ!!」

「仁美ちゃん、来たらいかん!」

 洋平の制止を無視して、仁美はヘールボップに近寄った。

 松本から手綱を奪うように掴み、きっと見つめる。

「大丈夫やき!」

 ヘールボップの前脚が、地面に落ちた。

 すかさず仁美は、流星模様の鼻筋を、優しく、ゆっくりと撫でていく。
 すると、先ほどまで取り乱していたのが嘘のように、ヘールボップは落ち着いていった。

「ね、大丈夫」
「怖うないき」
「大丈夫やき、ね」

 ヘールボップはすっかり元に戻り、仁美の手に身体を委ねた。

(うっ、うう……仁美さん)
(仁美さん……)

(ボップ……仁美……)

 やがてヘールボップの意識が引き、また万次郎に競走馬としての感触が戻ってくる。
 深層心理の中の景色も戻り、鮮やかな色に染まっていった。

 東京では、とあるバーのカウンターで、広美と上崎が並んでいた。
 二人は指を絡め合い、人目を憚らず、肩を寄せ合っている。

「いい記事が出来てるね、さすが家族」
「地方落ちしたGⅠ馬のサクセスストーリー」
「好きな人は好きだからさ、君を担当にして良かったよ」

「ありがとうございます」

「今の先生は、私も子供の頃から知っていますし、協力的で助かってます」

「ただ」

「ただ?」

 広美の脳裏に、なぜか信吾の姿が浮かんだ。

「若い厩務員に、融通が利かない面倒くさいのがいるんです」

「おいおい、なんだか嬉しそうな顔するじゃない?」

 広美は驚いて、表情を戻した。

 どうやら、自分でも気づかないうちに笑みを浮かべていたらしい。

「違いますよ!いっつも私を見たら、文句ばっかりで、細かいことまで言ってくるから!」

 上崎が、ほくそ笑む。

「まあ、所詮は田舎の若造だよ」

「逆に君みたいな洗練された女性と、お近付きになりたいんじゃないの?」

 その言葉に、広美は一瞬、チクリと棘が刺さるような感覚を覚えた。

「まあ、その調子で頼むよ。君には本当に」

 上崎は握り合う手に力を込め、広美の目を覗き込んだ。

「期待しているからね」

 その視線から一瞬だけ目を逸らし、意を決したように、広美が口を開く。

「あと、今日、はっきりさせて欲しいの」

「何を?」

 上崎の表情は、まだ余裕を残している。

「私たちの、将来のことを」

 一瞬だけ、上崎の眉間に皺が寄った。

「おいおい、それは考えてるって言ってるじゃないか」

「じゃあ、せめてご両親に紹介くらいしてよ!」

 広美の語気が強まる。
 バーの空気がわずかに静まった。
 カウンターの二つ隣に座る男たちと、壁際の席の男の肩が、ぴくりと揺れる。
 上崎は、すぐに表情を緩めた。

「君は、そこまで真剣に考えてくれていたんだね」

 柔らかく笑う。

「嬉しいよ」

 広美の瞳が潤む。
 その奥に、まっすぐな決意が宿っていた。
 上崎は声の調子を落とす。

「君には黙っていたけど、前に話した別れた女房との間に、子供がいるんだ」

 その言葉が落ちると、カウンターの男の一人が、思わず上崎の方に目をやる。
 だが、隣の男に軽く腕を押さえられ、すぐに視線を戻した。

「お子さんが?」

 広美の声が、わずかに掠れる。
 上崎は黙って頷くと、グラスの縁を指で軽く弾いた。

「六歳の男の子と、四歳の女の子がいる」

 広美は息を呑んだ。
 上崎は、視線をグラスに落としたまま続ける。

「妻は浮気と浪費が酷くてね」
「あんな奴のところに、預けてはいけない」

 苦しそうに見える声だった。
 少なくとも、広美にはそう聞こえた。

「向こうに連れて行かれちゃってね」
「親権争いは妻が有利って言うし、だから、必死に取り戻そうとしてるんだよ」

 思わぬ話に、広美の体が硬直する。
 だが、ここで引くわけにはいかなかった。
 今引けば、また曖昧なまま先延ばしにされる。
 そう思った。

「だったら、今度面会する時に会わせてよ」

 広美は上崎をまっすぐ見た。

「私とあなたが再婚したら、養育にも適してると思って貰えるんじゃない?」

「いや……それは」

 上崎の返事が、初めて鈍る。
 広美はその逃げ道を塞ぐように、上崎の両肩を掴んだ。

「大丈夫だよ!絶対仲良くなれるから、私、いいお母さんになるから!」

 声が震えていた。
 それでも、広美は止まれなかった。

「あなたと、結婚したいの!」

 上崎は一瞬、目を泳がせた。
 だがすぐに、いつもの笑顔を作る。
 優しく、包み込むような顔だった。

「そこまでなんて、ありがとう」
「こんな十二も上のおっさん相手に」

 上崎は広美の手に、自分の手を重ねる。

「こんど、必ず子供達には会わせるから」
「だから、もう少し待っていて欲しい」

 広美は、涙を流しながら黙って頷いた。

「泣くなよ、すごい顔になってるよ」
「メイク、直してきな」

 上崎は優しく髪を撫でた。
 広美は小さく頷くと、化粧室へ向かう。
 扉が閉まるまで、上崎は柔らかい表情を崩さなかった。
 だが、扉が完全に閉まった瞬間、その顔から笑みが消える。
 上崎は髪を掻きむしった。

「あーっ!もう、めんどくせえ」
「だから田舎もんは嫌いなんだよ」

 その時、カウンターで一人飲んでいた客が、何気ない調子で声をかけてきた。

「ずいぶん、情熱的な彼女さんですね?」

 上崎の肩が、わずかに強張る。

「あ……いや、お恥ずかしい」

 客はグラスを持ち上げ、一口だけ酒を含んだ。

「実に羨ましい」
「そんなに惚れられてみたいもんだ」

 穏やかな声で客はグラスを置き、上崎を見る。

「しっかり、応えてあげて下さい」

 口元だけの笑顔。
 上崎は言葉を失い、喉を鳴らすように息を呑んだ。
 額に、じわりと汗が浮かんでいる。

 二人が退店した後、カウンターに客三人が並んで座っていた。

「マスター、ありがとうね、これ」

 マスターはグラスを拭く手を止めて、差し出された封筒を受け取ると、客側からは見えないカウンターの下から、レコーダーを取り出して手渡した。

「良い小遣い稼ぎになってるよ」
「防犯カメラの映像も、後で回すからね」

 別の男がどこか不安げな表情で口を開く。

「しかし、どうします? この証拠」

 すかさずもう一人がレコーダーを再生し、音声を確認しながら言う。

「これじゃ、女から金取れないかもしれませんよ」

「報酬、ちゃんと入るんですかね?藤村所長」

 その瞬間、上崎に話しかけていた男――藤村が、鋭く部下を睨みつけた。

「馬鹿野郎」

 低く吐き捨てる。

「俺ら探偵の仕事はな、ありのままを、包み隠さず伝えることなんだよ」

 グラスのブランデーを一気に煽り、マスターに差し出す。

「後のことは、奥さんと先生で決めることだ」
「それに……」

 レコーダーから、先ほどのやり取りが流れ続けている。
 藤村はそれを見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「この男……許せねえ」

 グラスに付いた結露が、涙のようにコースターへ落ちた。

 南海競馬場。
 この日はすでに夜の帳が下り、照明が煌々とコースを照らしていた。
 広美はパドックで、輪乗りをするヘールボップと仁美を見つめている。
 緊張した面持ちの妹の姿に、どこか懐かしさを覚えた。

 ――あれは。

 初めて、補助輪のない自転車に仁美が跨がった頃。
 広美が中学一年生、仁美が小学一年生の頃だった。
 仁美の身体が、こわばっているのが分かる。

「ほいたら、いくで」

 強張ったまま、仁美は小さく頷いた。
 広美は、自転車の荷台に手を添える。
 ゆっくりと、自転車が走り出す。

「そろそろ離すで!」

「待って、まだ待って!お姉ちゃん!」

 広美は息を切らせながら叫ぶ。

「そんながやったら、いつまで経っても乗れんで!」

 今度は仁美が、風に涙を流しながら喚いた。

「いやや〜! こわいも! いやや〜!」

 広美は、そっと手を離す。
 それでも仁美は、自転車に跨がったまま、必死にペダルを漕いでいた。

「離さんとって!離さんとってよ!」

 その姿を見て、広美は声を上げて笑った。

「仁美〜! ちゃんと乗れゆうよ〜!」

 記憶の中の笑い声が、夜の競馬場のざわめきに溶けていく。

「それが、今はこんな大きなサラブレッドに乗りゆうがやもんねえ」

 広美は、パドックからコースへと向かう人馬の背中を、じっと見送った。

 スタート地点で、ヘールボップと仁美がゲートに収まる。
 仁美は深く深呼吸をして、力強くその目を開いた。
 深層心理領域では、万次郎がコメットハンターに跨がっている。

「ハンター、今日はスタート、ちゃんとできるねゃ」

「任せて下さい、と言えないところが申し訳ない」

 やがて、スターターが旗を振り、ファンファーレの音楽が鳴り響く。

 そして、開くゲート。
 一斉に横並びに揃って飛び出し、加速して行く。

「やるやいか、ハンター、このままハナを取ったら、ギアを下げるぞ」

「わかりました」

 その瞬間、ヘールボップの足元から、鈍い光を放つものが跳ね飛ばされる。

「あれは……?」

 客席で広美が思わず声を上げる。

「蹄鉄や」

 隣にいた洋平が短く答えた。
 広美が振り向く。

「まあ、ようあることよ」

 洋平はコースから目を離さないまま続ける。
 しかし、ヘールボップの中の万次郎と、コメットハンターのいる場所では、突然景色が消える。
 蘇っていたものも、また色を失っていった。

(嫌だ!)
(また……怒られるのは)

「ボップ….」
「……息子よ」

(もう、責められるのは)
(嫌だーーー!)

 万次郎とコメットハンターは、深くため息をつき、そっと下馬した。
 その時!

「大丈夫!」

 現実の声に、万次郎とコメットハンターが思わず顔を上げる。

「大丈夫やき!私が!勝たせるき!」

(……仁美)

 もう一度、力強い、しかしどこか慈愛の籠った言葉が響く。

「あんたは、前だけ見て走ったらえいきね!」

 その言葉が落ちた瞬間。
 ヘールボップの心の中の景色が、鮮やかに蘇った。

── 第8章 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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