第6話 俺、最低だ
【閲覧注意】胸糞が悪くなります。
別れの夜、志織は改札をくぐった。
背中越しに、田澤の視線を感じるが、どうしても振り向くことができなかった。
階段を一段下りるたびに、楽しかった思い出が蘇る。
しかし、あの日以来の三島との生活、日常が現れては、その思い出を、心の奥の深い場所に押し込めてゆく。
二度と戻れない日々。
心の底から笑い合った時間が、遥か遠くの現実ではない物語のように感じられた。
たどり着いた自室は、光も音もない。
明かりも点けず、鍵もそのままに、玄関で倒れ込んだ。
(幸せになってね)
(君が選んだことだ、間違いはないと信じてるよ)
先程の田澤の言葉が耳に残っていた。
繰り返し、頭の中に響いては消えていく。
「幸せ……何?それ……」
「……あなたが、あんなの書かなかったら」
涙は出ない。
押しつぶされそうなほど、胸が詰まり、悲しみの感情が、溢れかえっている。
しかし、身体の反応が、追いついていないのだろう。
「……あなたが、もっと自信を持っていれば」
「不器用で、優しいだけで良かったのに」
「真面目で誠実で充分だよ」
やっと、最初の涙がこぼれ落ちた。
あの日、受付で渡された紙袋が思い浮かぶ。
「受け取るんじゃなかった……」
「……シュークリーム」
その言葉が落ちると、もう歯止めはきかなかった。
(もう二度と会わない君に……)
暗い部屋に泣き声が響き渡る。
「……田澤くん!……ゆきひろくん……」
その名を呼びながら、慟哭は、夜明けまで止むことはなかった。
どんなに苦しくとも、悲しくとも。
夜は明ける。
日常は、遠慮をせずに押し寄せてくる。
デザインの仕事も、以前と比べて身が入らなくなった。
仕事は任せられるようになったものの、画一的なものしか思い浮かばない。
この時の志織は、目に見える色に自信を無くしていた。
仕事が長引いて帰宅が遅れると、三島からの叱責や罵倒が飛んでくる。
段々と精神が削られ、三島の前では自ら思考することすら億劫に思えるほどだった。
「まったく、今日もあの野郎がさ」
三島は、共同事業の取引先の社員の悪口を、志織に聞かせる。
名前は出さないが、田澤のことだとすぐに分かった。
二人の関係を三島が知っているのか?
そんなことも思い浮かばないほど、志織の思考はこの男の前では働いていなかった。
不可解な残業や出張が増える。
その度に里沙子から連絡が来る。
「志織!あんたいい加減目を覚ましなよ!」
「ほっといてって言ったでしょう!」
「あの人を悪く言わないで!」
その度に、同じやり取りを繰り返すだけだった。
ある日、三島と食卓を囲む志織、意を決して、口を開いた。
「ねえ、三島さん」
「どうしたの?」
口調は優しいが、三島は目を合わさない。
「一緒に住み始めて.....結構経つけど、考えてくれてる?」
「何を?」
「私、もう、26歳だし。そろそろ将来のこととか、ご両親にも、ご挨拶したいな、とか」
「はぁ...」
「面倒くせ。」
「あのさ、もう別れてくんね?女、お前だけじゃねえし、お前と結婚?」
「冗談じゃねえよ」
その響きに、不思議と心は微動だにしなかった。
むしろ、どこか胸を撫で下ろす感覚すらある。
胸が痛むことも、裏切られた怒りが湧くこともなかった。
「お前と住んでんのも、お前が世話好きで飯も、まあ食えるからだけなんだよ」
「あっそ、いいよ」
短く吐き出した言葉に、三島の口元が歪んだ。
「またまた〜」
「あ、そっか」
「お前にはあいつ、え〜と、そう、田澤」
「あいつがいるもんな」
志織の目が見開かれる。
「なんで?」
「一緒にいるとこ見たんだよ」
「たく、俺といる時にはあんな顔したことなかったくせに」
「お前も大概だな。俺の二股責めてたくせに、自分もやってんじゃん」
「違う」
「あなたと別れてから知り合って」
「付き合ってたわけでもないから」
「だから今、あなたと一緒にいるんじゃない」
「ま、信じるよ」
「お前は馬鹿正直だから」
「あいつもな」
三島は勝手に納得したように、何度も頷いた。
「お前ごときが俺をふりやがって、心底むかついてたんだよ」
「捨てる立場は俺の方だっつーの」
いつも、嬉しそうに悪口を垂れ流す口調で捲し立てた。
「俺、田澤のこと嫌いだったんだよね」
「正論ばっかで生意気だし、沢渡に変に気に入られて」
「だからさ、思ったわけ」
「あいつからお前寝取ったら気分いいだろうなーって」
「あんた…」
「俺が嫌いな奴と、俺をふったお前」
「身の程知らさないとさ、」
他人を蔑んで愉悦に浸る、それがこの男の本性だろう。
無遠慮に、貶める言葉を並べる。
「お前のことは俺、手に取るようにわかるんだわ」
「お前は俺のおもちゃだから」
「一番効きそうなタイミングで狙ったわけよ」
「あんときゃ抱いてやってたけど、最近はもう飽きちゃったんだよね」
「だから、もう、お前いらねえんだわ」
志織は沈黙を守る。
その静寂を、三島は縋りつくための準備だと解釈し、さらに笑みを浮かべた。
「何? その顔」
「縋りついておねだりしたら、最後に相手してやってもいいけど、どうする?」
三島は下卑た笑いで、言葉を繰り返す。
(この人は、またそれか)
思えばこれは、志織を自分に依存させて、支配下に置くための常套手段だった。
(……なんで、こんな言葉に騙されていたんだろう)
田澤と出会う前に、何度繰り返されたか分からないやりとり。
そのたびに、謝って、宥めて、取り繕って、気づけば、泣いているのはいつも自分だった。
志織は自嘲するように、息だけで笑った。
それから、まっすぐ三島を見る。
もう、今日は違う。
その瞬間、志織の心の中で、何かが弾けた。
「よく言うよ」
「あんた、乱暴で、独りよがりで」
志織は三島の目を射抜くように、最後の一刺しを放った。
「下手くそじゃん」
三島の表情が、一瞬で凍りついていく。
支配者の仮面が剥がれ落ち、そこにはプライドを粉砕された一人の男の無様な顔があった。
「んだと」
「いいよ、好きにすれば? 下手くそさん」
「てめえ! もう一ぺん言ってみろ」
「何回でも言ってあげる」
「へったくそ」
三島は虚勢を張るように鼻で笑ったが、その目は怒りと屈辱で充血していた。
「ふんっ、まあ、負け惜しみ、ご苦労さん。じゃあな」
背中を向け、扉へと逃げるように歩き出した三島が、呪詛を吐くように振り返る。
「あんな奴のどこが良いの?」
志織は鼻で笑う。
「あんたじゃ、あの人の足元にも及ばないよ」
志織の言葉が、三島の劣等感を逆撫でした。
「はっ、なんだよそれ」
「俺がちょっと言ったらすぐ帰って来たじゃん」
「結局、俺が忘れられなかったんだろ? 」
「俺の方が好きだったんだろ?」
「田澤も可哀想に、お前に捨てられて、あー可哀想でちゅねー」
「このクズ!」
「はっ、その足元にも及ばない、俺を選んだお前も、同類だよ、バーカ」
乱暴に閉められる玄関ドア。
テーブルに放置された合鍵を、呆然と眺めるしかできない。
(終わった……でも……)
(……私、何してるんだろ)
視線が無意識に携帯へ吸い寄せられた。
メモリーの電話帳を開き、名前を探す……あった。
ーータザワユキヒローー
電話帳の文字を見つめるだけで、心臓が脈打つ。
あの最後の日の、言いたいことを飲み込んで、背中を押して送り出してくれた姿も。
(いまの私を見たら、またあの人は自分を責めるかもしれない)
(もう別の誰かがいるかもしれない)
(いまの私は、あの人のまっすぐな視線には堪えられない)
心の傷を、また彼の優しさで洗おうとする自分。
携帯を握る指が震え、通話ボタンに触れる直前で、踏みとどまる。
(私も、誰かを頼ったり、縋ったりするんじゃなく、自分の足で立たなきゃ.....あなたみたいに)
志織は震える手で、電池カバー裏に貼られたプリクラを見た。
(ごめんね、私、幸せになれなかった)
水族館で笑い合った、あの日……確かに存在していた時間。
(……さよなら)
志織は、自分自身の未練を断ち切るように操作画面を見つめた。
削除のボタンに指を添えて、目を閉じる。
「……また、会いたかったよ」
「ありがとう」
指に力を込める。
あっさりと機械的に、メモリーは消去された。
涙は出ない。
カバーの裏をもう一度。
感情も、記憶もない空っぽの心で、眺めるだけだった。
時は流れ、西暦2000年を迎えた。
田澤は、銘治鉄工で年始の挨拶を終え、そのまま喫煙室へ向かう。
扉を開けた瞬間、充満する紫煙よりも濃い、悪意の気配を感じ取る。
「田澤さん、今日もご苦労さま」
三島だ。
窓際に寄りかかり、こちらを見ている。
隣には、状況を読み取れずに戸惑う後輩社員の姿。
「三島主任、お世話になっております」
三島の視線が、田澤の手元で震える煙草に向けられる。
「田澤さん、煙草吸うんだ」
「あ……やめてたんですけど、また始めちゃって」
「意思が弱くて」
弱みを見せたと判断したのか、三島の目が愉悦に光った。
「へえ、なんか嫌なことでもあったの?」
「彼女に、ふられたとか?」
田澤の顔が引き攣る。
「いえ、彼女はいませんよ」
「ふーん」
三島はほくそ笑み、田澤の方にちらちらと視線を移しながら、後輩に声をかける。
「田崎お前、まえにいた、受付の多辺」
「おぼえてる?」
「ええ、良くしてもらいましたから」
その瞬間、田澤の周囲から音が消えた。
心臓の鼓動だけが、耳の奥で爆音となって鳴り響く。
「そう、志織」
「あいつと俺、復縁して付き合ってたの」
「はあ、そうなんですか」
三島がわざとらしく、親しげにその名を呼ぶ。
田澤は手に持っていた、点けたばかりの煙草を、力任せに灰皿へ押し付けた。
「捨てないでーって縋りついてきたからさ」
「まあ一緒にいてやったけど、正直飽きちゃったんだよね」
「最近は、将来だ、結婚だ面倒くせえこと言い出したから、ポイしてやったよ」
「……そんな、物みたいに」
「あー、俺にとっちゃ、おもちゃなんだよ。あいつは」
田澤が激しく震える手で、新しい煙草を咥え、胸ポケットのライターを探る、ライターを握る前に同じポケットの中に入っていた、ある機械に触れてから、取り出したライターで火をつけた。
「まあ、あっちは良かったんだけどさ」
「志織って、あんな清楚なふりして、すっげえぞ」
「聞いちゃう?」
「まあ……聞けって」
三島が語り始める下劣な言葉の数々。
それは志織の尊厳を嘲笑の的に変える行為だった。
田澤の怒りは、もはや沸騰を通り越していた。
震える手でライターを回すが、火はつかない。
「……で、それがまたさ」
三島の話が核心に触れようとした時、田澤は壊れそうな自分を辛うじて繋ぎ止め、声を絞り出した。
「あの、本日はお疲れさまでした」
「あ、ごめんね」
「変な話聞かせちゃって」
「でも、あんたも男だから好きでしょ? 」
「こういう話」
田澤は頬の筋肉を引きつらせ、笑顔を浮かべた。
「まあ、嫌いではないですが」
「他社の人間の前でする話ではないと、私は思いますよ」
「我々出入り業者にとっては、受付の方は御社の顔と言っても良い存在なので……」
「本当に.....それだけかな〜?」
喫煙室の空気が完全に凍りついた。
三島の目に、嘲笑と侮蔑の色が混ざり合う。
「ま、ご忠告どーも」
「では、失礼します」
田澤は振り返らず、扉を押し開けた。
その扉が閉まると、不敵な笑みを浮かべて呟く三島。
「腰抜け野郎」
廊下に出ると、里沙子が立っていた。
「お疲れさまです、田澤さん」
「本日も、ありがとうございました」
「こちらこそ、色々資料ばかり持って来て、まとめるの大変でしょう?」
「お気遣いありがとうございます」
「沢渡課長もあなたを買ってましたよ」
「恐縮です、いつも締め切りギリギリで叱られるんですが」
「でも毎回期待以上のものを持ってくるって」
田澤は深々と頭を下げた。
その時、三島を呼ぶ媚びた声が喫煙室へ吸い込まれていく。
「三島しゅに〜ん、ここにいたんですかぁ、探したんですよぉ〜」
「おぉ〜!来い来い、今日もかわいいねえ」
喫煙室の中の三島と女性を、里沙子が鋭い目つきで、睨みながら呟いた。
「……我が社の恥部です」
「あれでまあまあ仕事ができるから厄介で」
里沙子の言葉に、田澤はただ無言で眺める。
「田澤さん、今夜お暇じゃないですか? ご飯でも」
「申し訳ありません」
「今日の内容をまとめないといけないので」
「……即答ですか?少しは悩むふりくらいしてくれても」
「あっ、すみません!気が利かなくて」
すると、里沙子がくすりと笑った。
「やだなあ、冗談ですよ」
「課長も言ってましたよ、田澤さん、その不器用なところ、もうちょっとなんとかならないかって」
恥ずかしそうに頭を掻いて顔を上げると、喫煙室内で嬉しそうに話す男女が目に入った。
「でも、あの人は、器用ですよね……」
「なら私は、不器用のままで良いです」
「……ああは、なりたくない」
「あなたみたいな人だったらなあ」
「え?」
里沙子の独り言に反応する田澤。
慌てて里沙子が掌を向けて、首を振った。
「いや、こっちのこと、気にしないでください」
帰りの電車、窓ガラスに映る自分は、幽霊のように青ざめていた。
耳の奥では、三島の嘲笑と、志織を「おもちゃ」と呼ぶ声が無限にリピートされている。
(おもちゃ)
(縋りついて)
(清楚なふりして)
止めようとしても、次から次へと妄想が膨らんでいく。
三島の腕の中にいる志織。
帰りの道中、一歩進めるたびに、現れては消えていった。
「ゆきひろくん」
「大好きだよ」
あの、最後に会った日にかけられた言葉が、繰り返される度に、頭をかきむしる。
いつしかその足は、歓楽街を歩いていた。
「お兄さん、浮かない顔してるね」
「どう?うちの店で遊んでいかない?」
馴れ馴れしく声をかけて来たボーイを、無言で眺めていた。
暫しの時間が流れ、全面鏡貼りの狭い部屋。
田澤がネクタイを締めると、女性がスーツの上着を肩に通してくれた。
「……私が言うことじゃないけどさ」
「早く、気持ちに整理、つくといいね」
「その、志織さん?のこと」
田澤は、心臓が止まらんばかりに驚き、女性を見た。
「ずっと、私をそう呼んでたよ」
「そりゃあ、私も本当の名前じゃないけど」
「なんか、複雑だな」
「女は星の数ほどいるんだから、頑張ってね」
その言葉に、ただ頷くだけで言葉の返事ができなかった。
(……星の数ほどか)
(けど、多辺志織さんは、一人しか、おらんのよ)
アパートの自室の前で、鍵を取り出そうとして、ポケットから出した掌。
三島の下衆な会話に、力を込めて握りしめたため、爪が食い込み、鬱血したそれを、じっと眺めた。
「わたしは、あなたのことを、バイ菌だなんて思わないよ」
もう一度、握り締めるとふっと目を閉じる。
三島の言葉に振り回されて、この日考えたこと、行動を思い出すと、唇が震えた。
「……俺、最低だ」
まだコメントはありません。最初のひとことをどうぞ。