第8章
一週間のトライアル移住はあっという間に終わった。私はトライアル3日目には、既にこの古民家に移住する決意を固めていた。
細かい問題や不安はたくさんある。実際、家の使い勝手にはかなり問題があるだろう。だが、いずれも技術的な問題だ。柵を設けたり、断熱材を入れたり、暮らしながら少しずつ解決していける。私一人ならいくらでも我慢もできる。
何よりも由奈はこの新たな環境を嫌がる気配を見せず、特にカブトムシの木をお気に入りの場所として平穏に過ごしていた。狭い自宅の庭にいるよりもリラックスしているように見えた。
トライアル終了時に鍵の受け取りと現状確認のため古民家を訪れた辰野にこの物件へ移住をしたいと伝えると、辰野は喜んで承諾してくれた。提示された賃料は月2万円という驚くべき安さだった。
まず会社に完全在宅勤務を打診して、それが不可能であれば退職するしかない。自宅も売却したい。売却で得た金で住宅ローンを完済すれば、かなり余裕ができる。
並行して移住先の家には最低限、由奈が敷地外に迷い出ることを防ぐための柵を設け、コンポスト用の設備も設置し、人牛保険衛生所に由奈の移動申請をしなければならない。
すべきことは多い。だが、何をすればいいのか分からずに悩んでいた時よりずっと気楽だった。
会社は予想通り完全在宅勤務を前例がないと難色を示した。コロナ禍で始まった在宅勤務だが、最近は縮小される流れだったので予想通りだった。
しかし、意外なことに会社は月一回の定例出社と、緊急対応時の出社に応じることを条件に私の申し出を認めてくれた。昨今の労働力不足のおかげかもしれない。
また、何社かの不動産会社に自宅の査定を依頼し、最も信頼できそうなところと専任媒介契約を結んだ。
辰野の紹介してくれた地元業者に柵の設置をしてもらい、牛小屋の再建の見積もりもだしてもらった。
せわしなく動き回っているある日の会社帰り、駅前で愛莉ちゃんのお母さんを見かけた。愛莉ちゃんは由奈が2歳の頃から親しくしていた友達で、お母さんにも大変世話になった。
少し悩んだが、私は声をかけた。
X X X
ゆなちゃんはわたしのはじめての友だち。わたしはおぼえてないけれど、おかあさんはわたしとゆなちゃんが2さいのときから友だちだったって言ってます。
おかあさんが言には、2さいのとき、わたしはよく3ちょう目こうえんであそんでいたけど、まだ小さいからほかの子がいても、みんなばらばらで石をひろったり、小さいほうのすべり台をしたりするだけでした。
それなのに、わたしとゆなちゃんはすぐに仲よしになって、ゆなちゃんのおとうさんが「ハイタッチ」っていうと、ほんとうにわたしとゆなちゃんがハイタッチしておかあさんはすごくびっくりしたって何回も言ってます。
ゆなちゃんはようちえんがべつになったけど、よくあそんで、うちにもよくきました。いっしょにおふろに入ったりもしました。おかあさんはもうひとりむすめができたみたいだって言っていました。
小学校にあがってからも、ゆなちゃんとはあそびましたけど、ゆなちゃんはきゅうにそとであそばなくなりました。おかあさんにきいたら「ゆなちゃんは今、あそべないの」と言いました。
でも、それからずっとゆなちゃんに会えません。わたしはもういちどゆなちゃんに会いたいです。
あまり褒められたことではないと理解しつつ、私は愛莉の絵日記を盗み読んでしまった。
娘の初めての友だち、由奈ちゃん。
小さい頃に友達と引っ越しで離れ離れになってしまうことはよくあることだ。私も仲の良い友だちがお父さんの仕事で転勤になって、お別れ会をして、引っ越しのトラックを見送ったことがある。しかし…。
色々と複雑な家だとは思っていた。
今も思い出すのは、珍しく愛莉と由奈ちゃんがケンカしたときのことだ。愛莉が4歳の誕生日で買ったシルバニアファミリーの人形で遊んでいたのだが、誰が子どもたちのお弁当を作るかで愛莉が「お弁当はママが作るんだよ」と言うのに対して、由奈ちゃんは「違うよ! パパが作るんだよ」と主張して言い合いになったのだ。
由奈ちゃんはうさぎのお父さんの人形を台所に置いて、おかあさんの人形をベッドに寝かせていた。
実際に公園で由奈ちゃんを連れていたのは大抵お父さんだったので、離婚し、お父さんが親権を取ったと聞いた時はさほど意外には思わなかった。
だが―。
まさか牛になってしまうとは。
Eテレでも外国人、障害のある人と一緒に牛化した友達が出てくる話があった。私が小学生のころ、たしか国語の教科書でも「牛になったさわだくん」なんていう話があったと思う。
でも、娘になんと伝えればいいのか。分からないまま時間が流れてしまった。そして、今日、駅前で由奈ちゃんのお父さんと偶然会った。
お父さんは「近く引っ越すことになった」とおっしゃって、何度もこれまでの付き合いの礼を言われた。
「引っ越し」。環境のいい田舎へ行くのか、施設に入れるのか、それとも…。
…やはり、愛莉にお別れをする機会を作ってあげるべきだろう。
X X X
「さっき愛莉ちゃんのお母さんに会ったよ」
その日の夜、由奈に干し草をあげながら語りかける。聞こえているのかいないのか、由奈はゆっくりと干し草を食んでいる。
愛莉ちゃんとは3丁目公園でよく遊んだ。懐かしい記憶だ。愛莉ちゃんは最初、一番気が弱い子で同年代の子が公園に集まっていると、一番離れたところで見ているだけの時が多かった。
それがやはり引っ込み思案なところがある由奈には良かったのか、由奈から手を引く形で友達になった。家で私と由奈でよくやっていたハイタッチ。私が「ハイタッチ」というと由奈が元気よく手をあげ、愛莉ちゃんもおずおずとだが手をあげてハイタッチができた。愛莉ちゃんのお母さんが目を丸くしていた。
その後も2人は仲良く過ごしたが、関係性は変わっていった。愛莉ちゃんが徐々に明るく活発になっていったのに対し、由奈はおっとりとした引っ込み思案のままで、愛莉ちゃんが先導することが多くなった。
愛莉ちゃんのお母さんは愛莉ちゃんの気の弱さを心配し、積極的に習い事に通わせ、自信と社会性を身に付けるよう後押ししていた。
私は平日は仕事でそこまでのことはできず、妻にもその気力はなかった。
由奈の引っ込み思案は、どのクラスにも何人かこういうタイプの子がいるという程度のものなのでさほど気にしてはいなかったのだが、今考えると私が十分なサポートをできていなかったその延長線上で牛化が起きたのだと思う。
突然、携帯電話がなった。知らない番号からだ。
「夜分すみません。松原です。愛莉の母の」
愛莉ちゃんのお母さんだ。
「この番号は失礼かとは思いましたが、奥様に伺いました」
子ども同士が親しくしていても男親がよその奥さんの携帯電話番号を聞くのは憚られる。互いに自宅の固定電話もない。由奈の友達への電話は妻に任せていたのを思い出す。
「先ほどは急に声をかけてすみませんでした」
「いえ。こちらこそ長い間、ご挨拶もせずに申し訳ありませんでした」
互いにさっきもしたような挨拶を交わす。愛莉ちゃんのお母さんの用件が見当もつかない。
「由奈ちゃんが引っ越しされるということで、愛莉にも話しまして。それで、もしご迷惑でなければぜひお別れの挨拶に伺いたいのですが」
言葉に詰まった。愛莉ちゃんのお母さんは当然、由奈が牛になったことを知っているだろう。
…由奈は今の状態でも愛莉ちゃんに会いたいだろうか。愛莉ちゃんにトラウマを残してしまわないだろうか。私はその場に耐えられるだろうか。色々な思いが頭の中に渦巻いた。
それでも口をついて出た言葉は「…ありがとうございます。ぜひいらしてください。由奈も喜びます」だった。
移住先への転居まであと一週間と迫った土曜日。愛莉ちゃんは少しおめかしして、お母さん、お父さんと一緒にやってきた。最後に愛莉ちゃんを見てから半年以上が経っている。私の記憶の中の愛莉ちゃんよりも背が高く、少し大人びた印象になっている。
簡単に挨拶をして3人を庭へ通す。由奈は庭の真ん中の一番日当たりがいい辺りに座っていた。
由奈を見て、愛莉ちゃんは少したじろいだ。お父さんのズボンの裾を握る。愛莉ちゃんは「由奈ちゃんだよ」とお父さんに促され、おそるおそる一歩前に出る。「…由奈ちゃん?」
由奈が愛莉ちゃんの方へ視線を向けた。呼ばれたことを理解しているのではなく、単純に音に反応したのだろう。だが、愛莉ちゃんは由奈の反応に力を得て、そっと手を出して由奈の額のあたりに触れた。「あったかい」
愛莉ちゃんは怖がるのでも、泣くのでもなく、ただ不思議そうに、でも愛おしそうに額に触れたまま由奈を見ていた。
目を潤ませた愛莉ちゃんのお母さんが「ほら、愛莉」と小さな紙袋を差し出す。愛莉ちゃんはそれを受け取ると、中から手紙と小さな人形を取り出した。
人形は赤いワンピースを着たシルバニアファミリーのうさぎの女の子だ。「よくこれで遊んでいたんです。愛莉がリスの女の子で、由奈ちゃんがこのうさぎの子で」。愛莉ちゃんのお母さんが説明するが、もちろん知っていた。
愛莉ちゃんのうちへ行った時に借りるお気に入りのうさぎの女の子。ショッピングモールのおもちゃ売場に寄った時、そんなに好きなら同じのを買おうかと思ったのだが、由奈は「愛莉ちゃんに借りるからいい」と敢えて全く別の黒猫のファミリーを購入した。
愛莉ちゃんがうさぎの女の子を由奈に差し出すと、由奈は鼻をつけて匂いを嗅いだ。私は由奈の部屋から黒猫ファミリーの中の女の子を持ってきて愛莉ちゃんに渡した。
「いいの?」「うん、持っていてくれると由奈も喜ぶよ」。愛莉ちゃんは子どもの手にも収まる小さな人形をぎゅっと握りしめた。
「お邪魔になるといけないからそろそろ…」と愛莉ちゃんのお母さんが由奈の前から離れない愛莉ちゃんに声をかける。
「…もう、会えないの?」
愛莉ちゃんのお母さんは押し黙る。
「引っ越し先は車で2時間ほどです。もし良かったらいつか遊びに来てください」
私が言うと、愛莉ちゃんは顔を輝かせた。
帰り際、愛莉ちゃんは「ハイタッチ!」と由奈に向けて手を上げたが、由奈が反応することはなかった。
愛莉ちゃんがくれた手紙には「ゆなちゃん、またあそぼうね。だいすき」という言葉とともに、髪の長い2人の女の子が手を繋いでニコニコしている絵が描かれていた。
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