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神の帰還

いらいじゃ

98,495 字

壮大なファンタジー、成長と愛の物語

"神と悪魔が交錯する世界で、少年は愛の力で運命を切り拓く。"

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第八章

1

 アグンは人々の声に見送られながらマナから去った。
 クレイとバーノルはフォゴル神殿の追跡から逃れ、マナの豪商の家にかくまわれていた。
 クレイは神との分離から意識を失い3日目に目覚めた。バーノルはボドルフの魔法治療によって5日で傷口がふさがり、軽い運動ができるほどにまで回復した。
 ボドルフはマナで反フォゴル神殿、正確には反アグンの活動を支援していたのだった。背の国の中枢部、そして根の国の国王派もこの動きには呼応しているという。背の国や根の国の王族派が力を持ち支配を強めるフォゴル神殿に脅威を感じていた。このままでは王権は完全に衰退し、フォゴルの名の下に新しい秩序が打ち立てられてしまう。彼らの恐れは変化していく時代を感じ取ってのものであった。
 しかし反アグンの中心となっているのは彼らではなかった。最も力を注いでいるのは、新興の商業国家リテンの大商人達である。昔日の勢いを失った「楽の国」から20年前に独立したリテン。島国であるが、所有する船の数はこの時代他のどの国も肩を並べることができない。商人達によって運営されるこの国は、主に船を使って世界中に活動領域を広げつつある。商人達への保護政策、造船技術、航海術……根の国とは別な方向で世界に名を轟かす国であった。
 リテンもまた“魔法”に強い関心を示している。世界の果てを目指して旅立っていく冒険商人達、彼らが持ち帰ってくる情報や秘宝。昔から魔術体系は混沌や精霊をあがめる神殿でのみ学ぶことができ、魔法の研究と信仰は切り離せないものだった。しかし、リテンはここに風穴を開けた。世界各地の文献や資料を持ち寄り(略奪同然に集められたものも少なくなかった)、解析し、研究を行う。学者、特に“科学者”という職業が生まれ始めていた。各神殿から異端と呼ばれ排除された者や、より純粋に魔法を求める者達はリテンの国を目指した。そういった人々はうさんくさい野心家がほとんどだった。それでもリテンは、権力への欲求や、商人達のごり押しなど様々な問題をはらみつつも近年急速に独自の魔法体制を整えつつあった。
 こういった新しいものを積極的に取り入れる国がかつて世界一の魔術師といわれたボドルフに関心を持つのは必然だった。ボドルフが根の国を去ったのはリテンの働きかけも強かったという噂も根強い。真相はわからないが、数年前からリネンはボドルフと接触しており、反アグンのための計画を練っていたのだった。
 いよいよその計画が実行されようというその時、アグンが背の国の港マナに乗り込んできた。計画がばれたかと色めき立つマナの商人や国王派の行動を止めたのはボドルフだった。ボドルフはその時リネンにいたのだがマナに急行し、暴発寸前の彼らを押しとどめた。リネンとボドルフの情報網はアグンが別な目的でマナを訪れたのを突き止めていたからだ。
 ボドルフはそこで“奇跡”を目撃した。彼は神と直面したのだ。ボドルフはかつてのフォゴルの大神官として、神の“存在”は知っていた。しかし、人ではそれに到達できない、と信じていた。
 この世界における魔法とは、主に我々の“次元”とは異なった世界にいる者を呼び寄せ、使役する法を指す。人間と親和性を持つ精霊、そしてさらに高次な“混沌”の次元。魔法使いは毒物を常用し、神人の言葉「精霊語」を使いこなすといった訓練によって、神人達に近い存在へとなる。薬の力を使うことで精神を活性化し、次元の壁を越え、異界の存在と交渉をする。彼らを現世に呼び出し、かりそめの実体を与え、使役する。それが「魔法使い」と呼ばれる者達だった。
 異界への精神による“冒険”は様々な形で行われていた。多くの術者が現世への帰り道を見失い、息絶え、あるいは狂気に陥っていった。ボドルフ自身そんな危険を冒した事も1度や2度ではない。先人達の血みどろの研究と、ボドルフ自身の経験により、我々が到達できる以上の次元の連なりがあり、異界の強大な力が存在することはわかってきていた。遙か彼方に存在する強大な力を持った、まさに神としか言えない存在があることも、理論として実証されていた。しかし、魔法が体系化されて以来、人類の中の誰一人としてそういった存在に触れることはできなかった。
 クレイが呼び出し、そしてフォゴルとなったあの存在。その場を目撃したボドルフは、人々の心を吸収していくその存在を目撃した時、心の底からの恐怖と、感動を覚えた。人の“心”を糧として成長する存在。それはまさに人々をひれ伏させる“神”としか呼びようのないものだった。それはボドルフですら見たことのない“魔法”そのものだった。
 魔法使いとしての好奇心を覚える一方で、現実の社会を俯瞰する者として脅威を覚えた。それはマナの豪商や街を守る責任者が、あの存在を恐れ、フォゴルに逆らうことに反対をし始めたその深刻な表情を見た時に決定的となった。「現世に出現した神」、この存在が、今の社会を根底からひっくり返してしまう存在であることを、ボドルフは改めて思い知らされた。神が実在するというこの脅威が広がる前に、手を打たなくてはならない。その決意は、ボドルフの心に深く刻まれた。
 アルミス、クレイがこのことに関わっていることは、ボドルフはそれまでつかんでいなかった。それはボドルフ自身の油断であり、誤算だった。ボドルフがアグンの情報をつかんでいるのと同様に、アグンもまたボドルフの弱点を知っていたのだ。そこに思考が行かなかったことをボドルフは強く悔いた。
 大神官という地位を捨て、隠遁を選んだのは、ボドルフという魔法にしか興味を持たなかった彼が、“家族”と“愛情”というこれまでの人生とは全く違うものの存在を知ったからだ。それは現在のボドルフにとってかけがえのないものだった。娘を危険にさらし、奪われてしまったのは、家族を忘れ、世界を動かす計画に関わってしまった事への罰のようにもボドルフには思えた。だからこそ、なんとしても取り戻さなくてはならない。
 バーノルとの再会もまたボドルフを驚かせた。彼が今までアルミスとクレイを守っていたのだという。何かの運命すらボドルフには感じられた。間違いなく何か大きな変化がこの世界に起きようとしている。ボドルフはそこでどのような役割を果たすのだろうか。

2

 リネンに向かう船の中、甲板上でバーノルは刀を握っていた。見張りの船員や非番の兵士などが遠巻きに彼を見ている。
 バーノルは上段からまっすぐに刀を振り下ろす。その速度を殺さずに刃を回転させ下から切り上げ、さらに胴をなぐ。優美な弧を描く細い刀ではあるが、バーノルの身長近くの長さを持ち、その重さは相当なものだ。
 それを素早く、力強く振るう事ができるバーノルの筋力と技量は見ている者すべてに感嘆の声を上げさせる。剣の技にうとい者でもバーノルが刀を振るう姿を見れば、それだけで彼の刀に身体を両断される者の姿が想像できる。彼の素振りには美しさと同時に“怖さ”があった。
 バーノルはゆっくりと刀を正眼に構えてから鞘に刀を戻す。左手で鞘の金具を操作する。ぱちんと音を立て、貝のように鞘が閉じ、刀を収納する。右の脇腹をなでる。まだ鈍く痛みは残るが、問題ない。魔法の治療とはたいしたものだと改めて感じさせられる。
 後ろを振り返り、
「よし、クレイ、昨日教えた型をやってみろ」
 声をかけられたクレイは、きまじめな表情で頷き、小剣を抜く。その剣はバーノルがクレイに貸し与えたものだ。

 クレイが剣の使い方をバーノルに習い始めて数日が経過していた。
「バーノルさん、僕に剣の使い方を教えて下さい」
 バーノルが歩けるようになったとき、クレイは拳を握りしめ、そういったのだった。
 神から分離したクレイの身体は大きく変貌していた。爪がピンク色になっており、肌もまた血色が良い。肉が薄く、華奢ではあるものの、クレイの身体は魔法使いのものではなく、健常な肉体となっていた。しかし、その代償からか、クレイは魔法を使う能力を失っていた。精霊語は話せる、魔法の知識もある、しかしその肉体は常人と同じように魔術師の薬を受け付けず、精霊との交感もできなくなってしまっていた。
 どうしてそんなことが起きたのか、彼の師であるボドルフにすらわからなかった。あの“神”が関わっていることは間違いないが、あの存在自体が人類が持つ魔法の知識を根底から揺るがすものである以上、誰も真相はわからない。クレイは魔法の力を失い、健康ではあるが非力な肉体だけが残った。
 クレイはその時、真剣な表情でバーノルに言ったのだ。
「アルミスを、助けたいんです。お願いです、僕も戦場に行かせてください」
 リネンと背の国、そしてその他周辺国家による根の国への侵攻計画。多くの国、そして大商人が関わる船団が結成され、根の国の首都イジェにあるフォゴル大神殿を強襲する。この戦いの際、根の国の国王軍は手を出さない。フォゴル、そしてアグンに対する戦争が着々と準備されていた。
 戦力はリネンに集結しつつある。バーノルやクレイ、ボドルフは背の国の先発隊と共にリネンに向かっていた。フォゴルの大神殿は世界の魔法を統べる場所だ。しかも、“神”を味方につけている。数ではこちらが勝るとはいえ、戦いがどのようになるかは誰も予測がつかなかった。
 そんな戦場にクレイを連れて行くのは無謀を通り越している。しかし、それでもクレイを止めることはできなかった。
「いいだろう、この剣を使え」
 バーノルはそういって、いつも左腰につけていた小剣をクレイに与えたのだった。背中の刀とは違う、この地域で一般に使われている両刃の剣だ。
「俺が若い頃から使っている剣でな、見た目はくたびれているが、バランスもいい」
 クレイは鞘から剣を抜いてみる。よく研がれた刃が光る。柄を握りしめる。本物の武器を持って興奮しない男子はいない。クレイの様子を見て、バーノルは口の端で小さく笑う。自分が初めて武器を握ったのはいつだったろう。
「そいつには仕掛けがあるんだ」
 バーノルはクレイの手から剣を取る。そして正面に構えると、
『燃えろ!』
 クレイは大きく目を見開く。小剣の刃の部分が発火したことよりも、バーノルが発した言葉が精霊語だったことに驚かされた。バーノルはクレイの表情を見て笑う。
「この剣には火の精霊が封じられている。昔、友達がかけてくれた魔法だ。その時に『燃えろ』と『消えろ』の2つの精霊語を教えてもらった。剣の中の精霊はこの2つの命令だけに反応する。発音が違うとかで繰り返し練習させられたよ」
 バーノルは剣の炎を消し、クレイに剣を渡す。
『燃えろ!』
 クレイの声に反応して、刃の部分が炎に包まれる。
「例え神官戦士といえど、魔法の剣をお前が持っていると知れば驚くだろう。あいつらは魔法を目にするが、理解はしていない。普通の人間以上に魔法を警戒するはずだ。その隙につけ込むんだ」
 バーノルの言葉に、クレイは頷く。

 それから、バーノルは毎日クレイに剣の使い方を教えてきた。バーノルは以前傭兵団に所属していたこともあり、若い戦士を鍛えたこともあった。クレイは素養として剣を振るうことには全く向いていない。しかし、だからといって彼を止めることはできない。
 バーノルが教えたのは「身の守り方」であった。常にバーノルと行動を共にし、自分に向かってくる刃を受け流す。基礎以外は様々な状況に対してどう対応していくかの練習に重点を置いた。
「とにかく生き残り、持ちこたえろ。自分から倒そうとするな。お前が受けることで、他の者が戦いやすくなる。初戦から手柄を狙うな、生きていればいつかはそのチャンスが来る」バーノルが新兵達にくり返し言ってきた言葉だ。かつての経験が、クレイへのアドバイスになっている。
 船の中での練習では、興味深そうにそれを見守る船員達もいて、見学者の数も増えていた。バーノルは彼らにも声をかけ、練習に協力してもらっていた。
 彼らが手伝ってくれるのは、クレイの必死さに共感したからだろう。非力な少年が、必死に馴れない剣を操っている。思わず応援したくなる悲壮さがある。クレイの肉体は激しい運動には向いていない。熱が入りすぎるのを止めるのもまたバーノルの役目だった。クレイの熱意と、船員達の応援によって、クレイのぎこちなかった剣の扱い方もだいぶましになってきている。
 クレイの練習の熱の入り方を見ていると、バーノルの心には小さくうずくものもある。アルミスを愛している。バーノルはクレイの目の奥にあるバーノルへの対抗心にも気がついていた。それに敏感に反応する心もある。青臭いと自嘲してしまうが、恋は大人としても割り切れない。
 ボドルフとの再会もバーノルの決意を固めさせた。バーノルは船室のある方へ頭を動かす。ボドルフは今も国の代表者達と綿密に打ち合わせをしている。その表情はしわの深い、険しい、バーノルの記憶の通りのものだろう。娘のことを考えていないような様子で話をしているに違いない。
 彼は初めて出会った十年前からボドルフの髪はすべて白髪で、神官にしては肩幅があり、背筋もしっかりと伸びている、たくましい“精気”を感じさせる人物だが、相当な高齢の老人に見えた。いかめしい顔つきの、ボドルフに、アルミスのような娘がいるとは今でも信じられない。
 しかし、クレイと再会したときのボドルフの目を細めた笑顔を見たとき、初めて彼に“家族”がいることをバーノルは納得した。それは心地よい驚きだった。そしてその厳しい表情の下に娘の身を案ずる父親の心を確かに感じたのだ。
 バーノルは再び視線を甲板に戻す。アルミスを助け出す。そして、クレイを守る。一心不乱に剣を振るクレイを見て、バーノルは改めて心に誓う。

3

 戦いが始まった。巨大な戦艦5隻と、武装商船30隻。陸戦隊4千人を積んだ連合艦隊は根の国の首都イジェを目指す。狙うはイジェの南にあるフォゴルの大神殿だ。
 ボドルフは旗艦である「暁の女神号」の舳先に立っている。
 ボドルフは荒々しい精霊の呪歌を歌う。目は半ば閉じられ、トランス状態のボドルフの声に応えて前方に巨大な竜巻が生まれる。その風は襲撃隊のすべての船を揺らす。すべての者にあらかじめ言い含められていたが、それでもざわめきが上がる。
「嵐の王よ!」
 ボドルフの声が轟く。竜巻が消え去ると、猛烈な追い風がすべての船の帆をふくらませる。ざわめきが歓声へと変わる。ボドルフと古くから繋がりのあるストームジャイアントの力は、35隻の船すべてを力強く戦場へと運ぶ。
「敵だーっ!」
 船団の誰かが叫ぶ。
 神殿から飛び立つ黄金鳥と神官戦士。その後ろから、わらわらと黒い獣が飛び立つ。かつてクレイ達を襲った“凶猟鶏”だ。
 彼らはあっという間に船団にまで到達し、甲板上にいる兵士や船に炎を吹きかける。炎に包まれてのたうち回る兵士、炎上する帆、悲鳴が上がる。
「“水仙の矢”を使え!」
 上官の指示に兵士達は一斉に弓を構える。矢尻には緑の液体が塗られている。水仙の根と葉をすりつぶし、さらに砂鉄をある割合で混ぜ合わせたものだ。構えられる弓を見て神官戦士達は上昇したが、凶猟鶏はそのまま船のすぐ上空を飛び続ける。異界から呼び出された混沌の生物は、通常の武器では傷つかない、怪物はそれを知っているのだ。
 一斉に放たれる矢。その効果は激烈だった。矢が刺さった怪物は苦痛の悲鳴を上げて落下する。魔よけの植物として知られる水仙は混沌の生物にとって猛毒となる。ここ数年で発見された魔法への知識だ。凶猟鶏の間に動揺が走り、船団からは歓声が上がった。
「いくぞ、クレイ」
「はい!」
 バーノルに肩を叩かれ、クレイははじかれたように返事をする。バーノルは緊張しているクレイの顔に笑いかけ、もう一度肩を叩く。クレイも小さく笑みを浮かべる。
 クレイとバーノルは旗艦の姉妹艦「黄昏の女神」の甲板上にいる。この船は他の船と違い兵士達で満ちあふれてはいない。代わりに白い羽毛を持った巨大な鳥が甲板上に座っていた。
 鳥、という表現は正しくないかもしれない。羽毛に包まれ、羽は生えているものの、足は鱗に包まれていて、翼には蝙蝠のようなかぎ爪がある。顔にはくちばしはなく、小さなワニのようで、牙も生えている。「鳥トカゲ」と呼ばれる燐の国に棲息する生き物だ。この鳥トカゲはかつて神人が呼び出した混沌の生物だったが、世代を経るごとにこの世界に順応していった。燐の国はこの生物を飼い慣らし、繁殖させ、騎乗動物として育て上げた。燐の国の「鳥の騎士」は国を象徴する存在だ。
 黄昏の女神は一番前の帆柱が鳥トカゲが飛び立つことができるように外されている。鳥トカゲにはすべて二人乗り用の鞍が取り付けられている。50騎の鳥の騎士達はそれぞれ先発隊として選抜された精鋭の兵士達を乗せている。彼らを神殿の入口に運び、援護をするのが鳥の騎士達の役目だ。バーノルとクレイは彼らと共に神殿に突入する。
「出撃準備!」
 鳥の騎士のリーダーの声に、騎士団に緊張が走る。バーノルもまたクレイを後ろに乗せ、鳥トカゲの鞍にまたがっている。
「しっかりつかまっていろ!」
 戦いの喧噪に負けないように、バーノルはクレイに向かって叫ぶ。クレイは返事をする代わりにバーノルの身体をつかんでいる腕に力を込めた。
「出撃!」
 鳥トカゲが一斉に飛び立つ。見送る船員達からの声が聞こえる。
 一気に視界が開ける。バーノルは鳥トカゲを操りながら眼下の景色を見る。
 火炎槍から熱線を放射する神官戦士。ボドルフのストームジャイアントは実体化し、神殿の海の番人である大海蛇と格闘を繰り広げている。炎がついた帆を消している水の精が見える。
 特別に改造された武装商船がカタパルトから巨石を打ち出す。神殿の風の精がその軌道をそらす。襲撃隊側の水の精が大波を起こし守備隊の足下をすくう。
 鳥の騎士達とほぼ同時に小舟が海上におろされ、すさまじいスピードで神殿に向かう。同時作戦で展開する海からの先発隊だ。彼らの船を引っ張っているのは水かきと鱗を持った牛のような動物だ。
 どこを見ても魔法、魔法だ。
 バーノルは大規模な魔法のぶつかりあいに強い衝撃を覚える。この戦いにはバーノルが駆け抜けたどの戦場よりも「魔法」に満ちていた。彼の冒険にはいつも魔法があり、彼自身は魔法は使えないものの、この時代の大多数の人間よりも魔法に触れていると自負していた。しかし、ここまでの魔法のぶつかり合いは見たことがなかった。
 今までの戦場でも魔法は活用されてきたが、火の精霊を扱う魔道士が一人だけだったり、怪物を扱う部隊が参加する、という程度の規模だった。魔法は極めて限られた、選ばれた人間が使う秘術であり、大きな影響を持つものの、戦場の主役たり得なかった。
 この戦いは違う。リネンとフォゴル神殿、現在の世界の魔法の中心とも言える勢力のぶつかり合いは魔法こそが主役であった。
 これからはこの戦いが戦争の原型になる。この戦いを目撃した者達、耳にした権力者達はこの戦いを分析し、自らの陣営に魔法を取り込むことに必死になるだろう。大きく時代が変わる。戦士であるバーノルは、この戦争の風景を見て思う。
「バーノルさん!」
 クレイがバーノルの身体を揺らし、前方を指さす。その先にある神殿から光の柱が立ち上るのをバーノルは見る。
 戦場全体が大きくどよめく。
 巨大な、あまりに巨大な光に包まれた神の姿が現れたのだ。
「フォゴル神だ!」
 戦場の様々な者の口が、1つの神の名を呼ぶ。
 光り輝く神は、迫り来る船に向かって指を伸ばした。
 すさまじい轟音と共に武装商船の帆柱に雷が落ちる。帆が一瞬で燃え上がり、船に乗っていた人々がバラバラと海に落ちる。大きな動揺が船団全体に広がる。
 一刻も早く神をとめなくては!
「行くぞ!」
 バーノルはクレイに声をかけ、一気に鳥トカゲを降下させる。鳥の騎士達もバーノルに続き、神殿を目指す。

4

 剣の響き、叫び声、そして、血。
 バーノルが刀を振るうと、血煙が上がり、人が倒れる。命を失った男の目がクレイを見上げる。クレイは萎えそうになる足に必死に力を入れてバーノルを追う。
 先発隊の男達は、上陸部隊の船が岸に上陸したのに合わせて前進を開始した。雄叫びを上げる者、命を失った身体に執拗に斧を振り下ろす者、後ろからぐいぐいと押してくる者、何かをずっとつぶやきながら周りを見回す者……クレイ自身は周りの者達にかばわれる格好であったが、「戦場」という人間の性をむき出しにした場所に圧倒されていた。
 神殿の通路を進んでいるときに、先発隊は突然横から強襲を受けた。あらかじめ部屋に隠れ、待ち伏せをしていたのだ。襲撃部隊の数はそれほど多くはなかったが、先発隊は分断され、パニックに陥った。
 クレイは誰かに突き飛ばされた。床に引き倒され、見上げると白い鎧をつけた守備の兵士が彼を見下ろしていた。敵は武器を落としてしまったらしく、素手だ。クレイは剣を構えようとする。
「うわあああ!」
 叫び声を上げ、兵士がつかみかかってくる。剣を持つクレイの腕を握り、奪おうとする。剣の向こうに兵士の顔が見える。歯をむき出し、目を血走らせている兵士の顔。
『燃えろ!』
 精霊語を叫ぶ。クレイの手にある小剣が炎に包まれる。刀身の炎に軽く顔を焼かれた兵士は、顔を覆って飛びのき、しりもちをつく。クレイはその隙に立ち上がる。さっきと逆の位置になり、クレイは兵士を見下ろす。
 顔を覆う指の間からのぞく兵士の目に、おびえの光を見たとき、クレイの中で何かがはじけた。両手で剣を握り、兵士に向かって振り下ろす。兵士は腕を上げて防ごうとするが、手甲の内側に剣が食い込み、血が流れる。クレイはさらに剣を振る。鎧が刃を防ぎ、小さな傷ばかりが増えていく。兵士は血まみれになる。
「クレイ!」
 背後からクレイの剣を握り動きを止めると、バーノルは兵士のみぞおちを蹴る。悶絶し、床にくずおれる兵士。クレイはバーノルの手から逃れようともがく。
「落ち着け!」
 肩を揺さぶられる。ようやくクレイの身体から力が抜ける。
「バーノルさん……」
 恐慌は去った。足下には血を流した兵士が横たわっていた。クレイの身体が震える。
「そいつは生きている。襲ってきた奴らは全員倒した。先に行くぞ」
 バーノルの声にクレイはつばを飲み込んで頷く。自分の手が震えていることに気がつく。力一杯握りしめていた剣から手を放す。手の感覚が戻ってくるのにしばらくかかった。
 その後も小さな部隊とぶつかりながらバーノルとクレイは先に進んでいった。クレイは夢中になって敵の剣を受け、剣を振るった。すでに多くの部隊が神殿にたどり着いていて、守備隊の力はかなり分散されていた。それでも、一人、また一人とバーノルの隊は人を減らしていった。クレイをかばって倒れた者もいた。バーノルはクレイを励まし、クレイも小さな傷を身体のあちこちに負いながら進んでいった。

 大きな広間に出る。前方に青銅で作られた巨大なフォゴルの像が見える。巨大な円柱に取り囲まれた吹き抜けの空間で、攻め寄せる船団が見える。戦いは激しさを増しており、いくつもの船が炎に包まれており、悲鳴や怒号も聞こえる。バーノル達は海を見下ろす一人の男を見つける。アグンだ! 彼を守るために神官戦士がアグンを囲み、こちらに火炎槍を発射してくる。仲間の一人が炎に包まれる。バーノル達は柱や入口に隠れる。
 アグンはゆっくりと振り返り、襲撃隊を見る。
「ここまですでに入り込んでいるのか……」
 アグンの声が響く。
 彼はつぶやくようにしか声を出していないはずなのに、はっきりと声が聞こえる。クレイは眼下の戦場の兵士達が戸惑いざわめきを上げているのを聞く。アグンの声は戦場全体に響いているのだ。聞く者の“恐怖”を煽るためだと、クレイは直感する。これもまた、神の魔法なのだ。
「ボドルフと、リネンの国、他の国より派遣されてきた軍隊。お前達の焦りと危機感は正しい。フォゴルの名の下に広がる、かつての神人達に劣らぬほどの神の国が、この地上に生まれようとしている。これは、我々、そしてフォゴル自身に与えられた試練だ。この襲撃を撃退することで、我々の力を世界に証明するのだ」
 戦場から、大神官の声に応えて鬨の声が上がる。襲撃隊の間に動揺が広がる。
 アグンは戦場からの声を全身で感じているかのように大きく両手を上げる。そして物陰に隠れるバーノル達に向き直る。
「お前達に対抗する良い方法を思いついた」
 邪悪に、笑う。それと同時に、地響きが辺りを揺らす。
 襲撃隊から悲鳴が上がる。彼らの正気を失わさせる事態が起こっていた。
 神の像が動く! 青銅で作られた巨大なフォゴルの像がゆっくりと台座から降り、歩き始めた。すさまじい重量を持った神の像が動く。その衝撃は広間を覆っていた天井を崩し、襲撃隊のみならず、神官戦士達の頭上にも瓦礫を落下させる。
 敵も味方も悲鳴を上げて逃げる。フォゴルは今や金属でできた生き物のようになめらかに動く。その姿からは“精気”が感じられる。その姿を見た者すべてが“分かる”だろう。先ほどまで光の柱となって船団に雷を落としていた神が、無機物に過ぎなかった神の像に宿り、何か別な存在に変えたのだ。神が持つ力が具象化した存在、それは、ただ歩くだけでその力を誇示し、敵対する者に恐怖を与える。存在するだけで見る者すべてを萎縮させる、神ならではの圧力をその像は持っていた。
 こんな怪物を止められるわけがない。それを見たすべての人間が、神に逆らう人間の無力さを思い知らされる。フォゴルの像が歩き、船団まで到達するだけで我々は負ける。襲撃隊の誰もがそう思い、ある者は一目散に逃げ出し、ある者はその場にしゃがみ込みすすり泣いた。
 そのフォゴルを前にして一歩前へ踏み出す影があった。
 大きな体を持ち、湾曲する異国の剣を背負った戦士が挑むように神の像の前に立つ。
 アグンは笑みを浮かべる。
 巨大な神の像を見上げながら、バーノルはゆっくりと刀を抜いた。

5

 フォゴルの像はバーノルを前にして立ち止まる。
 フォゴルの後ろに立つアグンは目を細めてバーノルを見る。
「あの時怪物に立ち向かった、あの戦士か」
 バーノルはアグンを見てから、フォゴルの像に目を戻す。クレイのように自分の身体と力の具象化した存在は一体化していないようだ。それならば、アグンを斬ることでこの神を止めることができるのだろうか。
 攻撃の意志を感知したのか、神の像は腰を落とし、バーノルと対峙する。
「混沌の力を失わせる法の魔法で作られた刀だと言っていたな……しかし、青銅の像を刀で斬れるか?」
 アグンの声と共に、フォゴルの像は大きく振りかぶり拳をバーノルに叩きつける。バーノルは迫ってくる拳に向かって剣を振り下ろす。火花を散らして金属の皮膚が刀をはじく。そのままバーノルは拳に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
 刀を杖にしてバーノルが立ち上がる。
 フォゴルの像はゆっくりとバーノルに近付く。
 バーノルは刀を正眼に構える。静かに目を閉じる。
「イェェッ」
 バーノルの口から、甲高い気合いが迸る。ビリビリと空気を揺らすような大きな声だ。
 バーノルは目を開き、神の像を見上げる。
 再び神の像が右拳をバーノルに向かって突き出す。バーノルは紙一重でそれをかわし、腕に向かって刀を振り下ろした。
 クレイは見た、神の像の右腕がバーノルの刀によって切り落とされるのを。
「おお!」
 アグンすら感嘆の声を上げる。
 フォゴルの像は音を立てて後ずさりする。
 神が“怯えて”いる。
 しかし、ひるむ神にバーノルは続けて刀を振るうことができなかった。バーノルは刀を構えたまままっすぐ神を見ている。
 正眼に構えたままのバーノルの肩が激しく上下している。顔にも疲労の色が濃い。奇跡とも言えるバーノルの剣技は、肉体にも強い負担をかけるほどの精神集中を必要とするのだ。
 神はそのバーノルをじっと見つめている。その顔が変化している。青銅の像、美しい青年の無表情だったはずの顔が、憎悪で歪んでいる。神の像はその表情のまま、地響きをたててバーノルに迫った。
 バーノルは剣を上段に上げて迎えうつ。剣を振り下ろす瞬間、神官戦士が火炎槍でバーノルを撃った。熱線が左腕をかすめ、バーノルの剣は勢いを失い、刃は金属の皮膚にはじかれた。神の像の拳はそのままバーノルにぶち当たる。バーノルの身体が跳ね、何度も床に叩きつけられる。
 バーノルは身体を震わせながら立ち上がる。口からは血が流れている。床に血を吐き出し、拳で口元の血をぬぐう。再び刀を正眼に構える。

 そのバーノルの前にクレイが立った。バーノルを後ろにかばい、両手を広げる。
「クレイ?」
「バーノルさん、僕が盾になります。防げないかもしれないけど、それでも攻撃は少しは遅くなるはずです。その隙に、大神官を!」
「何を言っている? そこをどけ!」
 バーノルの声に、クレイは首を振る。自分の力ではアグンまでたどり着けない。今は、これしか思いつかない。クレイは一瞬だけバーノルを見る。その目は涙に濡れていた。
「お願いします、アルを、助けてください」
 バーノルは唇をかみしめる。クレイがどんな想いで言っているのかが、痛いほど分かる。例え自分を犠牲にしても、恋敵にその役目を譲っても、愛した娘を助けたい。クレイにこんな行動までさせてしまっている自分の無力さに、激しい怒りを感じる。この少年を殺してはならない、なんとしても。バーノルはガクガクする手足に必死に力を入れる。
 クレイは巨大な神の像が拳を振り上げるのを見た。自分の意志に反して恐怖で目が閉じられる。恐かった、恐かった。しかし、アルミスのためにもうできることはこれしかなかった。絶対に動かない!
 その時、
『クレイ! クレイっ!』
 アルミスの声。
「アル!」
 クレイは、叫ぶ。
 叫びながらクレイは自問していた。今の声はどこから? クレイの身体の中から聞こえたのではないだろうか?
 その認識が、クレイの意識を覚醒させる。
 クレイの胸に穴が開き、アグンに宿主が変わった時、クレイの存在そのものは消え去るはずだった。それをこの世界につなぎ止めてくれたのは、アルミスだ。いや、つなぎ止められたのではない。エネルギーと化し、神の身体の一部となるはずだった“混沌”の中から、クレイはアルミスによってあの時、“創られた”のだ。
 クレイは改めて自分の中のアルミスの想いを見つめる。クレイの体中の細胞が、アルミスのクレイへの想いに満ちている。クレイの身体全体から愛しているというアルミスの叫びが聞こえる。アルミスが望んだクレイ、それが今のクレイの身体だ。魔法を使えないこの身体はアルミスの望んだものだったのだ。アルミスはあの時、魔法を恐れ、「健康」なクレイを欲した。クレイはアルミスの想いを今度こそ正確に感じ取ることができる。アルミスのおかげでクレイは今、ここにいる。愛している、愛している。クレイは力の限りアルミスへの感謝と愛を叫んだ。
 そしてクレイは気付く。アルミスの心は、想いは、クレイをこの世界につなぎ止め、肉体を再構成するほどの力がある。クレイ自身の想いもこの肉体に作用するはずだ。あの時作られた身体を、もう一度、今度はアルミスと、クレイの意志で……。
 ならば!
 バーノルは目の前のクレイの身体が変貌するのを見た。クレイの爪の色が青く変わっていく。皮膚が青白く、魔術師のものに変わっていく。
 自分の想いで身体が変わっていく。その実感がクレイの自信を後押しする。そこからさらにクレイの心は、怪物に捕らえられていた自分を思い出していく。視界が変わる。オレンジ色の光が戦場を、世界を覆っている。クレイは今、黒い怪物の視界で世界を見ていた。その光の中心に神がいる。
 クレイはさらに意識をとぎすませていく。戦場の想いは前方の神の像だけでなく、小さいが、自分の身体にも確かに集中している。消えゆく悪魔から作られたクレイの身体は、本質的に、神の“分身”なのだ。その確信がクレイの身体に力を呼び込む。クレイの中に戦場の想いがなだれ込む。神を恐れる者、そして、神を認めない者、神の消滅を望む者、彼らの想いもまた、集中できるものを望んでいる。神と戦おうとする者達に応える存在は!
 ドオン!
 大質量の者同士がぶつかる衝撃音。クレイに神の像の拳が届く寸前、黒い巨大な腕がその拳を受け止めていた。クレイの目の前で、黒い霧が渦巻いている。そこから巨大な存在が姿を現す。腕から肩、頭……。鉱石の様にも見えるなめらかな黒い肌、巨大なコウモリのような翼、そして縦に並んだ3つの目。クレイの怪物がそこに出現していた。
「ガアアアッッ!」
 怪物が吠えた。怪物は叫び声を上げたまま神の像につかみかかった。神の像は大きくバランスを崩し、次々と広場の天井を支える円柱をその身体で壊していく。
 建物は完全に崩壊する。天上が、円柱が、広間を覆っていた物が崩れていった。
 戦場にいるすべての人々が見た。神と悪魔が、再び争っている! 瓦礫と化した広間で信じられないくらいに大きな2つの存在が激しく戦っている。それは戦場にいる人間達の手を止めさせ、呆然とさせるすさまじい光景だった。
 バーノルもまた目の前の光景が信じられなかった。彼の前にはクレイが立っていて、怪物の戦いを見守っている。クレイは前方に指を伸ばす。
「今です!」
 バーノルはその声で我に返る。そして神の戦いを見つめるアグンを見つけた。
 バーノルは、走る。神官戦士がアグンに何かを叫び立ちふさがる。
 火炎槍から放射される熱線。バーノルは刀でそれを受ける。熱線は刃に触れると霧散する。神官戦士は火炎槍を構えた姿勢のまま、袈裟懸けに斬りつけられ、倒れた。
 絶命した神官戦士を一度だけ見てから、アグンは虚ろな視線をバーノルに向ける。バーノルは刀を上段に振りかぶり、大神官の身体を両断した。

 大神官が絶命した瞬間、フォゴル神の像は大きく身体を震わせ、硬直した。怪物は叫び声を上げ、その腕を神の像に突き刺した。痙攣する神。しかし神の像の目に力が戻り、怪物の頭を手でつかみ強く押す。怪物の背後に、水の表面に走る波紋のような空間の歪みが生まれている。神の腕がその歪みへ怪物を押していく。
 怪物の身体が歪みにめり込む。怪物の身体が消えていく。歪みはさらに大きく広がり怪物の身体を飲み込んでいく。しかし、神の勝利もまたなかった。飲み込まれる怪物が神の像をしっかりとつかみ、2つの存在はもがきながらゆがみの向こうへ倒れ込んでいき、完全に姿を消した。
 戦場に戸惑いの空気が流れる。そして戦いは、大きく襲撃者側に傾いた。

6

「何が起きたんだ、クレイ?」
 バーノルはクレイに尋ねる。クレイの変貌、そして怪物の復活と、神と怪物の消失。目の前で起きたことは彼の理解を超えていた。
 クレイはゆっくりと振り返った。その表情には、今までと違う落ち着きがある。
「“魔法”の1つの側面を見た気がします。今、この戦場では神を信じる者と、疑う者が争っています。実際に動く神を見たとき、多くの人がひれ伏すだけでなく、反発も感じた。その存在を認めない者、目の前の神が唯一絶対だとは思わなかった者、そして神に対抗するもう一つの力、悪魔の存在を知っていて、その復活を恐れている者達もいた。あの怪物が登場する状況は、整っていたんです。人々の想いに応えてそれが可能になっていた、僕が少しだけそれを後押ししたんです」
 バーノルはなおも問いかけようとする。その二人に広場の奥からボドルフが声をかけた。
「クレイ、こっちだ。アルミスが見つかったぞ!」
「アル!」
 クレイは走り出す。バーノルも後を追った。
 神殿の奥の小さな部屋にアルミスは、いるようだった。部屋の入口の通路で、クレイとバーノルはその空気の変化に気付いた。
 ボドルフと共に通路に立っている男達の顔が真っ青だ。一人の男は、痛ましそうにボドルフを見ている。バーノルはボドルフを見る。ボドルフは目をそらし下を向いて唇を噛んだ。
「アル!」
 クレイが部屋に入ろうとすると、兵士がそれを押しとどめる。ボドルフは兵士に声をかける。
「いいんだ」
 兵士はクレイの身体を離す。はじかれるように部屋に飛び込むクレイ。
 バーノルは部屋の中からアルミスの悲鳴を聞いた。
「来ないで! お願い、私を見ないで!」
 バーノルもまた兵士を押しのけて部屋に入る。
 部屋の中のものを見たとき、バーノルははっきりと自分が後ずさったのを自覚し、激しく自分を責めた。
 そこには恐ろしい現実があった。
 白い何かが、床にうずくまっていた。
 それはひっきりなしに姿を変える。人の腕が生えたかと思うと、昆虫の羽が生え、犬の顔が生えた。それらは認識するまもなく、次々と姿を変える。
 それが真に残酷なのは、不定形で不気味な粘塊にしか過ぎないそのものが、アルミスであることがはっきりわかるのだ。形を完全に失い、違うものに変えられても、アルミスがまとう雰囲気と、美しさを、それは間違いなく持っていた。だからこそ、一層無惨だった。
 粘塊は床を這い、部屋の中の日の差さない影の方に動いている。必死に姿を隠そうとするアルミスが哀れだった。
「“混沌”の魔法だ」
 ボドルフがバーノルの背後でつぶやくように言う。その声には聞く者の胸を締め付ける自責と悔恨があった。バーノルは振り返る。軍の魔力を象徴する存在として力に溢れていた魔術師の姿はそこになく、愛する娘の悲劇に苦しむ老人の姿がそこにあった。
「アグンは、アルミスが消えていく怪物の身体から、クレイを助け出すのを見ていた。そしてその秘密を知るために、アルミスの身体に混沌の魔法をかけたのだ。本来混沌と呼ばれる魔法の存在は、この世界ではかりそめの形を得るはずだ。しかし、“神”の力が、あの子の身体を混沌そのものに変えてしまった。あの子は一瞬たりとて決められた形を取ることができない……しかも、触れる生き物すべてに混沌の影響を与え、ゆがめてしまうだろう」
 ボドルフは娘を見ることもできずに、独り言のように言った。その傍らをクレイが通り過ぎる。クレイは、アルミスに向かって足を踏み出した。
「止まれクレイ! アルミスに触れればお前も混沌の物質に変わってしまう!」
 ボドルフの声に、バーノルはクレイを止めようとする。クレイはバーノルに頷きかける。クレイの顔は緊張していたが、その表情には“自信”が確かにあった。バーノルは足を止める。
「来ないで!」
 アルミスである粘塊が一瞬だけ口を創り、叫んだ。ずるずると音を立て、部屋の隅に移動する。
「大丈夫だよ、アル」
 優しく、そして決意を込めたクレイの言葉。
「大丈夫だ、アル。僕の身体も、混沌の物質となって、フォゴルに吸収されるはずだった。それを引き留めてくれたのは、僕を助けてくれたのは、君だ。あの時、君の想いが僕を混沌から創り出したんだよ」
「……」
「そして、今日改めて気がついたんだ。人は、自分で想い、人に想われることで存在できる。君が僕を想ってくれなかったら、僕は消えていた。それに気がつくことができるのは、なんて心を暖かくしてくれるんだろう。僕は僕自身と、君の“想い”のおかげで、今、この世界にいるんだ」
 クレイは粘塊に向かって手を伸ばす。粘塊は震え、その手を避けて形を変えた。
「手を伸ばして。今度は僕の番だ、アル。僕の想いは君を助けてみせる。君が好きだ。愛している、アルミス」
 おずおずと粘塊がクレイの手に向かって伸びていく。クレイの手に触れた瞬間、それは華奢な少女の腕に変わった。腕から肩、銀の髪、緑の瞳、背中、クレイの腕の中で少女は身体を取り戻す。
 アルミスは左手を見る。手の内側に右手を添えると、なめらかな皮膚に凶猟鶏に噛み裂かれた傷跡ができた。クレイはアルミスを見つめている。アルミスは無言のままクレイを抱きしめた。

7

 戦いは終わった。
 ボドルフとバーノルは、手をつないで海を見ているアルミスとクレイを見ている。
「ボドルフ、教えてくれ。あの怪物はどうやって現れたんだ? クレイは何故魔法を再び使えるようになった」
 ボドルフは目を細めながら、応える。
「あの存在はクレイに『お前は力の扉だ』といった。いわば、神がこの世界に現れるための“通路”たる資格を得たんだろう。そして、さっきのクレイの言葉が正しいのであれば、クレイは混沌そのものからアルミスに創られたことになる。通路は、ふさがっていないのかもしれん。
 クレイが魔法を使えなくなっていたのは、アルミスがそう望んだのだろう。怪物から分離した時のクレイは、アルミスの想いのみで創られたのだ。そしてそれに気がついた。クレイは、アルミスの想いと共に、自分の想いで身体を作り直した。魔法を使える身体に。
 そしてあの怪物の出現は魔法の使い方を分かったクレイがきっかけを作った。それ以上に、多くの人間の“想い”があの状況を可能にしたのだと、私は思っている。神が存在することがはっきりし、戦いの中、様々な想いがそれに対抗する存在を欲した。クレイがさっき言ったように“舞台は整っていた”のだよ」
「ちょっと待ってくれ。あの存在はここにいる人間達が望んだ筋書き通り動いた、言ってみれば“観客”に踊らされた、とでも言うのか? 神と呼ばれる存在が?」
「人の心があの存在を生みだした。それが存在することで人の想いが集中し、強大な力を発揮した。あの存在は、資質のあるなしにかかわらず、多くの人間の想いの影響を受けた。確かに言えることは、それだけだ。これもまた魔法の1側面なのかもしれない」
 バーノルは首を振る。理屈と目の前で起きた現象はいくら考えてもスムースには繋がらなかった。
 しばらく黙ってから、バーノルはさらに聞いた。
「これから、どうなるんだ?」
 ボドルフはゆっくりと答える。ボドルフはまぶしそうにアルミスとクレイを見ていた。その表情に、バーノルは家族を取り戻した老人の喜びを見た。
「神は現れ、そして去った。しかしそれは一時のことだろう。人々は神の“実在”を知ってしまった。今日起こったことを調べ上げ、そして自分の力にしようとするはずだ。人々はより魔法を求める。これからが始まりだ。世界は大きな変化を迎えていくだろう。」
 バーノルはアルミスとクレイを見る。しっかりと手をつなぎ、同じ方向を見ている二人。バーノルの胸に小さな痛みが走る。
 パン。
 両手で顔を叩き、ごしごしとこする。そして唇に笑みを浮かべて、言った。
「あの二人ならば、大丈夫さ」

完

── 了 ──

読んでくれてありがとう。良かったら作者にスキを送ろう。

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