第九章 1992年 秋:泥まみれの真実
1992年10月。分校として最後となる大運動会が開催された。
全校で十人の子供だけでなく、村の大人も参加する集落対抗戦だ。
この地には、川を挟んで「東」と「西」という二つの集落がある。
統廃合を前に、互いの意地がぶつかり合うこの年の運動会は例年以上の熱気を帯びていた。
教職員もそれぞれの集落のチームに組み込まれ、夏目は「東」の期待を背負って、勝負を決める一般リレーの最終走者を任された。
夏目は「若い先生」という期待に応えるべく、全力で土を蹴った。
だが、最終コーナーの入り口。校庭の砂に足を取られ、夏目の身体は側方へと投げ出された。
乾いた砂煙が舞い、静まり返る校庭。夏目は泥を噛み、鼻血で白いジャージを赤く染めながら、無様に地面を這いずった。
起き上がろうとして手が滑り、再び膝を強く打つ。
「都会的な爽やかな先生」の虚像が、衆人環視の中で無残に砕け散った。
大輔はその光景を凝視していた。
(……先生が、壊れた。計算できない、汚れた、痛そうな中身が見えてる)
大輔は、血と泥に塗れた夏目の中に、これまで自分たちが必死に隠してきた「生の汚れ」を初めて見た気がした。
その夜、大輔はいつものように寄宿舎の夏目の部屋を訪れた。
膝を擦りむき、湿布の匂いをさせた夏目が茶を淹れている間、大輔は本棚の陰に、一冊の古い美術雑誌を見つけた。
そこにはかつて夏目が長久手の丘で、その光に灼かれた男――吉良の絵が載っていた。
ページをめくった瞬間、大輔の目に飛び込んできたのは暴力的なまでの赤い「野原」だった。そこにはパースも、ヴァルールも、カノンもない。塗りたくられた絵具の塊(マチエール)が、泥のように、あるいは血のように蠢いている。
「……先生、これ」
大輔の声は、これまでにないほど細く、震えていた。
「この人、怖くないのかな。……こんなに、自分の中身を見せて」
大輔は、身を乗り出すようにして、誌面の赤を指先でなぞった。
「めちゃくちゃで、汚くて、隠さなきゃいけないものまで、全部出してるよね……どうして平気なんだろう……」
大輔の瞳には、かつて「自由」を拒絶したときと同じ恐怖が宿っていた。だが、その恐怖の裏側には、今日泥まみれで倒れていた夏目の背中に見た、「真実」への憧憬も混じっていた。
夏目は、大輔が手にしている雑誌を見て、一瞬だけ痛みに顔を歪めた。
「それは……僕が勝てなかった男の絵だよ。君に教えているような技術を、あっさり脱ぎ捨てた人の絵だ」
「脱ぎ捨てた……やっぱり怖いよ。……もっと教えて、先生。もっともっと、僕を隠せるくらい、正しくて、誰にも何も言わせない描き方を」
大輔はすがるように夏目を見つめた。その夜、彼の引くパースの線は、かつてのように真っ直ぐではなかった。何度も何度も消しゴムをかけ、紙を痛めるほどに、彼の指先は迷っていた。
その年、大輔の絵は県の絵画コンクールで『教育委員会賞』を受賞した。
前年の知事賞よりは一段落ちる賞だったが、技術的には前作を遥かに凌駕していた。描かれたのは、放課後の誰もいない教室。
机の一脚一脚にまで透視図法が行き渡り、
窓から差し込む光の粒子さえも色彩理論によって統制されている。
名古屋の授賞式会場。人混みと都会の騒音に、大輔は目に見えて萎縮していた。夏目のジャケットの袖を、何かにすがるように握りしめている。そんな二人に、一人の壮年の男性が歩み寄ってきた。
「──夏目君じゃないか。こんなところで何をしてる」
夏目は、心臓が跳ね上がるのを感じた。
それは長久手の丘で自分を導いてくれた恩師、樋田先生だった。今回のコンクールの審査員を務めていたらしい。
「樋田先生……お久しぶりです」
「そうか。君も、教師をしていたのか」
樋田先生の鋭い、けれど慈愛に満ちた眼差しが大輔へと向けられた。
「君が、あの教室を描いたんだね。審査員の間でも話題になったよ。小学生があそこまで完璧なパースを使いこなすなんて、とね」
大輔は、夏目の背後に隠れるようにして、樋田先生を凝視した。
樋田先生は大輔と同じ目線の高さまで腰を落とし、優しく、けれどどこか寂しそうに微笑んだ。
「素晴らしい技術だ。先生が、とても熱心に教えたんだろうね。……でも、技術は、君を守るためだけのものじゃない」
大輔の身体が、微かにこわばったように見えた。
樋田先生は、大輔が必死に築き上げた鋼の鎧に、そっと手を触れるような静かな声で言った。
「次は、自由に、思うように描きなさい。誰の真似でもない、君だけの震える線を、私は見たいんだ」
大輔は何も答えられなかった。樋田先生が立ち去ったあとも、大輔は石像のように立ち尽くしていた。
「自由に、思うように」
それはかつて夏目が、大輔に投げかけた言葉だ。大輔はそれを拒絶した。
そして夏目によって「檻の作り方」を学び、ようやく手に入れた安寧。
それを、かつて夏目が心酔した先生が、脱ぎ捨てろと言ったのだ。
帰り道の飯田線。大輔は窓の外を流れる暗い山並みを、ただ黙って見つめていた。その指先は、大切に持っていたはずのステンレスの定規を、拒むように鞄の奥へ押し込んでいた。
「……先生」大輔が、ぽつりと呟いた。「怖くないのかな。……自由に描けなんて。……自由に描いたら、あの絵を描いた人みたいに、汚い中身まで、全部見られちゃうのかな。覚えられちゃうのかな。」
夏目は、何も答えられなかった。
完璧な嘘の中に、あの日夏目が流した鼻血のような、拭い去れない赤が滲み出し始めていた。樋田先生が投げかけた「自由」という光。それが、大輔が必死に塗り固めた「正解」の壁を、内側から静かに、けれど確実に壊し始めていた。
その夜、夏目は眠れずにいた。
「技術は、君を守るためだけのものじゃない」
恩師・樋田が大輔にかけた言葉が、夏目の脳内を呪文のように巡っていた。夏目は、クローゼットの奥から埃を被った紙の束を取り出し、自嘲気味に息を吐いた。あの時の、アルシュ水彩紙。
十九歳の夏目は吉良の圧倒的な油彩に叩きのめされ、この白い紙に逃げ場を求めた。
(水彩なら。水の透明な光を操れば、この戦いから逃げられるかもしれない)
だが、水彩は油彩よりも残酷だった。一度置いた色は、繊維に食い込んだ。リフティング(修正)を試みても、それは無惨な「足掻いた傷跡」を晒しているように見えた。夏目は、自分の「不完全さ」が露呈することに耐えられず、結局この紙をしまいこみ、再び理論という強固な檻の中へ逃げ戻った。
「樋田先生。僕は、解き放たれるのが怖かったんです……」
指先に触れるアルシュの肌は、あの頃と変わらず冷たい。
先生の言う「自由」とは、リフティングで消しきれない汚れや傷跡さえも、自分だけの「震える線」として愛することだったのではないか。
夏目は、一度も完成させられなかった、白を見つめた。
大輔が築き上げた完璧なパースの裏側で、自分もまた、消えない傷跡に怯えている。
閉校を待つ、分校の寄宿舎。
その静寂の中で夏目はひとり、かつての挫折と向き合っていた。
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