第七章
一歩の違い
放課後の廊下は静かだった。帰り支度をしながら、気づいた。
ノート。準備室に忘れた。芳恵に「ごめん 忘れ物した。先帰って」
芳恵も「ごめんね 電車の時間ギリギリだから 先帰るね。また明日 バイバイ」
バイバイ 芳恵と別れ
誰もいない廊下を歩く。部活の声が遠くから聞こえていた。窓の外は、まだ明るかった。
先生の異変のことが、頭をよぎった。でも今日は普通だった。気のせいかもしれない。
準備室のドアの前に立った。
ノブに手をかけた。
放課後の準備室。黒い影が見えた。ゆっくりと振り返った。 その手には、 ミイちゃんの無惨な姿 「見たのか」
先生の声は、驚くほど低かった。授業中の温厚なトーンは、薄い皮を剥ぐように消え去っていた。光希は、後ずさった。「先生、それ……」
「光希ちゃん。君はお母さんに似て、余計なものを見すぎる」
一歩又一歩、前に出た。逆光で顔が真っ黒に塗りつぶされる。
光希は叫ぼうとした。だが、それよりも早く、影山の大きな手が彼女の細い首を掴んだ。
壁に押し付けられる。ドン、という鈍い音が背中に響く。
声が出ない。酸素が遮断され、視界の端からチカチカと火花が散る。
先生の瞳は、驚くほど冷静だった。怒りも焦りもない。ただ、邪魔な雑草を抜くときのような、事務的な冷酷さ。
「朝倉由理恵は『人権』を説く。だが、その娘がここで消えるとき、その高尚な言葉は何を救ってくれるのかな?」
光希は必死に手を伸ばした。顔を、腕を、爪が剥がれるほど強くひっかいた。
肉を裂く感触。眉がわずかに動く。
苦しい。
喉の奥で、何かが壊れる音がした。
窓の外では、部活の声が遠く響いている。世界はこんなに騒がしいのに、この数センチの距離だけが、絶望的な真空地帯だった。
――お母さん。
朝の光を思い出した。制服の肩を直してくれた、あの大きな手。
「お母さんも来るの?」
「遠くから見てるだけ」
そうだ。お母さんは、いつも遠くにいた。正義という白いスーツが、心の繋がりを遮断し
ていた。
今、目の前の死に、お母さんの言葉は届かない。
光希の視界が、真っ赤に染まった。毛細血管が切れる音が耳の奥で鳴り響く。
指が、さらに深く食い込む。
最期に光希が見たのは、眼鏡に映った、もがく自分の醜い姿だった。
ガクン、と力が抜ける。
爪の中に、男の皮膚をわずかに残したまま、光希の腕が床に落ちた。
死体となった教え子を、まるで壊れた道具を片付けるように、静かに床に横たえた。
そして、自分の腕についた傷を、ハンカチで丁寧に拭った。
西日が、最後の一条を引いて沈んでいく。
学校に、夜が来た。
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